ヨシュアはエリコの勝利の中で、アカンが神様のことばに逆らって、盗みをしたことに気づいて居なかった。
アカンのことがあったので、イスラエルは完全に神に従った訳ではなかったことになる。
もし、アイを打つ前に主の前に静まっていたなら、その時主はアカンの罪を示されただろう。そうすれば犠牲者を出すこともなく、恥をかくこともなかっただろう。
自分の力ではどうにもならないような大きな事の前には、神により頼み従うことに信仰は要らないけれど、日常の中でひとつ一つ主により頼んで歩むことには謙遜な信仰が要る。
エリコでは許されなかった戦利品の持ち帰りがアイでは許された。
殺すなという律法、盗むなと言う律法が、此処では許されている。
私たちの善悪の知識が正しいのではない。その時に示される神の言葉が正しいということ。
だから、何時も何時も初めてのように、主に聴かなければ、今何が正しいことなのか私たちには分からない。
みことばはそれを生きるものであり、生活の中で経験するものである。みことばは何時も同じ事を示しているわけではなく、日々新鮮に出会って、そこに主を発見して行くものだから、それはマニュアルではない。人は誰も知らないことだから。
私たちは聖霊によって教わらなければならない。今日の私の必要を知っておられるのは主だけだから。今も昔も主によって歩む時、喜びもつまずきもすべては家族で負うことになるのだから。
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石ころ
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