石ころ

わたしは門です④(ヨハネの福音書10章)

 

わたしと父とは一つです。
ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。(30~31)

 

イエスと父なる神は一つ、それゆえイエスはキリストとして地に下って、神の人類救出計画を遂行される。イエス・キリストの十字架によって、滅びの死は永遠のいのちに代えられ、キリストを信じる者の死は滅びではなく永遠への門となった。

 

しかし、ユダヤ人はイエスに拠る神のわざから目を背け、みことばに耳を閉ざして、イエスを神を冒瀆したとして石打の刑によって殺そうとした。神を冒涜したのは彼らであった。

 

イエスは彼らに答えられた。「わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。」(32)

 

イエスは「わたしが行った神のわざに拠って死刑にするのか」と彼らが過ちに気付くように問い返された。

 

ユダヤ人たちはイエスに答えた。「あなたを石打ちにするのは良いわざのためではなく、冒瀆のためだ。あなたは人間でありながら、自分を神としているからだ。」(33)

 

人間の生まれつきは神を知らない。自分を創造された方を知らず、愛して造ってくださった絶対の味方が分からなくて、魂の渇きにより欲望のままに偶像を作り、自分を神として思いのままに生きる。

 

それゆえ神は御子を遣わし創造主の愛を知らせて、滅びることの無いいのちを得させようとされた。


しかし、誰よりも神を知っているはずの選びの民の宗教家たちは、律法を守るように見せかけながら、多くの言葉を付け加えて、自分でも負いきれない重荷を人々に負わせて、神のようにふるまっていた。

 

イエスが神のみこころによって病人を癒やされると、彼らは安息日を守らなかったと、安息日の主である方を殺そうと石を取った。しかし律法には「殺してはならない」とあるのだ。

 

イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った。「おまえたちは神々だ」』と書かれていないでしょうか。
神のことばを受けた人々を神々と呼んだのなら、聖書が廃棄されることはあり得ないのだから、
『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が聖なる者とし、世に遣わした者について、『神を冒瀆している』と言うのですか。(34~36)

 

「あなたがたの律法」は「神の律法」ではなく彼らによって変質させた彼らの律法であり、確かに彼らはそれを用いて神のキリストを裁く神々のようである。

 

彼らはそのことを聖書に立って言っている。神のことばを知らずにいる者とは比べものにならない罪である。
イエスのことばは彼らの実体を露わにした強烈な皮肉であった。

 

彼らの言葉は見事に事実の裏返しである。彼らは自分が神であるかのように振舞って神を冒涜し、神であることがわざによって明らかである、イエスの愛のわざを悪霊のわざと言って神を冒瀆してた。

 

もしわたしが、わたしの父のみわざを行っていないのなら、わたしを信じてはなりません。
しかし、行っているのなら、たとえわたしが信じられなくても、わたしのわざを信じなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。(37~38)

 

神であるか、悪魔であるかは成すことによって知ることが出来る。彼らは神の愛のわざをイエスに見ているのである。
彼らは彼らの安息日を盾にして、イエスによる神のわざの癒やしを妨げ、まむしの子孫のわざを行っている。

 

イエスは巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人たちをみな癒やされました。それは神がイエスとともにおられたからです。(使徒10:38)

 

彼らの目を見えなくしているものは彼らの罪である。
しかし罪の無い者はなく、罪人がどうしてイエスをキリストと信じることが出来たのであろう。

それは聖霊の助けに拠ることであり、聖なるものへの人の霊と魂の渇望に拠ることである。

 

そこで、彼らは再びイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手から逃れられた。
そして、イエスは再びヨルダンの川向こう、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた場所に行き、そこに滞在された。(39~40)

 

これらの人々がキリストを知って信じるための時が備えられていた。ヨハネを評価しておられた主は目まぐるしい働きによる疲れを、しばし癒やされたであろう。


イエスの疲れは、神の国を求めること無く地にしがみついて、盲人が盲人を手引きしている宗教家と、人々への憐れであったろう。

 

多くの人々がイエスのところに来た。彼らは「ヨハネは何もしるしを行わなかったが、この方についてヨハネが話したことはすべて真実であった」と言った。
そして、その地で多くの人々がイエスを信じた。(41~42)

 

確かにヨハネは何もしるしを行わなかった。それによって、イエスだけが神であることを鮮明に証したのである。ヨハネは何の印しも行わずに死ぬことで役割を全うした。

 

キリスト者には、キリストの体の各器官としての役割があり、聖霊に従順しつつ、キリストの平安の中で成すことであり、神から発したそのことには完全な備えがある。


その時神の栄光が現されて人々はヨハネを見るのではなく、イエスに目を上げて神を礼拝した。


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