12章から14章までのヨブの言葉は、祈りのようでもあり、詩篇のようでもあった。
型どおりの言葉や自分を偽る言葉はではなく、うちにある真実を懸命に言葉にしていて、声に出して読んでいるとヨブの心が染みてきて胸を打たれる。
私は全能者に語りかけ、神と論じ合ってみたい。(13:3)
それが正しいことを言っているとか、間違っているとかではなく、彼は主だけを求め他の何をも求めてはいない。
私は、神を呼び、神が答えてくださった者であるのに、私は自分の友の物笑いとなっている。潔白で正しい者が物笑いとなっている。
安らかだと思っている者は衰えている者をさげすみ、足のよろめく者を押し倒す。(12:4~5)
故なく打たれ愛する子らを失って、友から嘲られ、全身の痛みと痒さに痛めつけられつつも、ヨブがなを神に訴え続けるのは、信仰が少しも変わってはいないからである。
ただ、「私に事を明らかにしてください」と叫んでいるのである。
ヨブは、神が彼の言葉を聞き、心にとめてくださると信じていたからである。決して見捨てられるお方ではないと・・。
老いた者に知恵があり、年のたけた者に英知があるのか。
知恵と力とは神とともにあり、思慮と英知も神のものだ。
見よ。神が打ちこわすと、それは二度と建て直せない。人を閉じ込めると、それはあけられない。
見よ。神が水を引き止めると、それはかれ、水を送ると、地をくつがえす。
力とすぐれた知性とは神とともにあり、あやまって罪を犯す者も、迷わす者も、神のものだ。(12:12~16)
ヨブは褒められる言葉を語ろうとはしていない、認められようとも思ってはいない。ただ、自分の知っている神を語り、みこころを求めて叫んでいる。主を知りたくて叫んでいたのである。祈りとはこういうものだと思った。御前に心を注ぎだすのが祈りだと・・。
しかし、人間は死ぬと、倒れたきりだ。人は、息絶えると、どこにいるか。
人が死ぬと、生き返るでしょうか。私の苦役の日の限り、私の代わりの者が来るまで待ちましょう。
あなたが呼んでくだされば、私は答えます。あなたはご自分の手で造られたものを慕っておられるでしょう。
今、あなたは私の歩みを数えておられますが、私の罪に目を留めず、
私のそむきの罪を袋の中に封じ込め、私の咎をおおってください。(14:10~17)
主を探し求める時は仲保者であるキリストに導かれる。ヨブはキリストを求めて叫び、救いを見出そうとした。
人の腹の底の底までご存じの神が、人が注意深く選んだ言葉を喜ばれるだろうか・・。
あらゆる問題の中で、ただ、ただ、主に出会いたいと、御声を聴きたいと、助け主キリストを求める祈りを、神は待っておられると思う。
またヨブは、「私はあなたがどのようなお方であるかを知っています。」と、知る限りの言葉をもって神に近づこうとしている。