そのころ、祭司長、民の長老たちは、カヤパという大祭司の家の庭に集まり、イエスをだまして捕らえ、殺そうと相談した。
しかし、彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから」と話していた。(マタイ26:3~5)
何度イエスさまのわざを見ても、宗教者や指導者たちは自らの不都合の故に、事実に堅く目を閉じ、神を知ろうとはしなかった。イエスさまをベルゼブルと言うのは、神とサタンを見分けることもできないからである。
主を恐れない者は人を恐れ、互いに相談しては身を守ろうとするが、主を恐れる者はひとりで選び、永久に変わることのない神のことばに安息する。
ひとりの女がたいへん高価な香油の入った石膏のつぼを持ってみもとに来て、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。
「何のために、こんなむだなことをするのか。この香油なら、高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」(マタイ26:7~9)
弟子は、マリヤの行いを「むだなこと」と言った。その捧げものを貧しい人に施せと・・、彼らは勘違いしている。
捧げものも、施しも、自分のものですることである。他人の懐を当てにすることではない。香油はマリヤのものであり、イエスさまに捧げられたものであって、彼らのものではない。
もうひとつ、イエスさまの価値について恐ろしい勘違いしている。救い主に捧げることを「むだ」という言葉には、旧約の時代のように、衣を引き裂いて灰を被りたくなる。
香りの捧げものは天に昇って行く。花や木に香りを備えてくださったのは創造主である。マリヤは最上のタイミングで、神のひとり子にそれを捧げた。それこそが良い行いである。彼女によって、人の良い行いが聖書の記述に残された。
イエスさまが天より下って、人の罪をあがなって十字架についてくださるのは、ユダの救いのためでもあった。彼が主に留まって居れば・・。
神の御子を十字架刑に処するほどの価値が、人にはあるのだろうか。時に・・此処に「むだ」という言葉を思ってしまう・・
しかし、創造主なる神さまが人をこのように量られたのだ。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ43:4)
いつも財布を握りしめていたユダは、その方を銀貨30枚で売った。そうして、人は今も何かを天秤に掛けて、イエスさまのあがないを売り続けている。
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