石ころ

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。(ヨハネ12章)



マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

キリスト者は主に仕える者であり、世に仕える者ではない。キリスト者は世の避け所を準備する者であり、世に代わって主に最上のものを捧げる祭司である。

「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(ヨハネ12:5

祭司がヒューマニズムに最上のものを持ち去られてはならない。主を知るための時を世に奪われてはならない。
主に最上の香油を捧げたマリヤは非難され、世に捧げるなら人に褒められるが、それは主にいのちをたまわった者の仕事ではない。
キリスト者だけが世に避け所を指し示す者である。大切なことを間違ってはならない。

マリヤの捧げものの動機は、兄弟のいのちを救ってくださったイエスさまへの、感謝にあふれた愛である。
キリスト者は罪による神の怒りを免れて、愛する子とされ滅ぶ事のないいのちを頂いてイエスさまを深く愛する者である。

愛は、愛する方の声を聴き続けたいと思う。愛はその方のことを聞き続けたいのである。祈りの交わりの中で語り合いたいと思うのである。

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6:6)

あらゆる手段、インターネットも書籍も口伝ても、すべての機会を用いて愛する方のことを知りたいのである。あらゆる仕方で、愛する主の願いを探ろうとするのである。
最上の香油を愛する方に注ぎだして、部屋中を香りに満たすのは、マリヤの喜びの表現であるように、同じように喜びを表現したいのだ。

キリスト者は、主を愛し感謝を捧げる権利を与えられている。その時間を騙し取られてはならない。世に褒められる者ではなく、彼らの避け所を充実することこそ、真に人を愛するキリスト者の行為である。

わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。(ヨハネ12:26)


今キリスト者は、一緒に歩いていてくださる主のみことばに聴き入り、御顔を見続けているのだろうか。
マリヤは深い感謝によって、世を歩いてくださった御足にひざまずき、香油を注いで髪の毛で拭い十字架の備えをしたのだ。

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