主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの子らに告げよ。わたしがあなたがたに与えて住まわせる地にあなたがたが入り、食物のささげ物を主に献げるとき、(1~3a)
この命令は、40年後の約束の地に入った時の教えである。約束の地に入るための条件ではない。
みことばを持たない不信仰な民に命じているのではなく、荒野で訓練された彼らの子らが、主の祝福を受けて捧げるものである。
すなわち、特別な誓願を果たすためであれ、進んで献げるものとしてであれ、例祭としてであれ、牛か羊の群れから全焼のささげ物かいけにえをもって、主に芳ばしい香りを献げるとき、
そのささげ物をする者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを、主に献げなければならない。(3~4)
献げ物は主によって細かく定められている。人の思い付きや、人の必要を満たすためのものではなく、主の命じられた物を、みことばに従って捧げるのである。
なぜ主は献げ物を求められるのか。主に何か不自由があるのだろうか。すべての穀物も、牛も、羊も、すべては造り主なる神のものなのである。
そう、主が求めておられるは、従順を通った直ぐな心による交わりである。
また、人は命じられたみことばに従うことにより、罪があがなわれた確信を得て、魂に平安をたまわるためなのである。
私たちの捧げものは色々あるが、それは人に強いられたものではなく、有り余っているものでもなく、聖霊の導きによって、主が望まれるものを捧げるのだ。
そのようにして神が喜んでくださることを経験し、主を知る交わりが深まって行くのであるが、すべては、神の愛を経験して始まることであって、たまわった愛に応答しつつ、信頼関係が成長して行くためである。
わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。(ホセア6:6)
自分の得意なことを捧げることもあるが、みことばに従順して、苦手なことに失敗しながら従順することもある。主が求めておられるのは成果ではなく、みことばを愛して主に従う愛である。
働きを成功させるのは神であり、福音の実を結ばせるのも神のわざであって、人の何かではない。
キリスト者のうちに居られる神の働きによって、主の栄光を見せて頂くのであり、それは、みことばの導きに従順してたまわる恵みである。