使徒たちやユダヤにいる兄弟たちは、異邦人たちも神のみことばを受け入れた、ということを耳にした。
そこで、ペテロがエルサレムに上ったとき、割礼を受けた者たちは、彼を非難して、
「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らといっしょに食事をした」と言った。
そこでペテロは口を開いて、事の次第を順序正しく説明して言った。(1~4)
ペテロの人格的な成長は素晴らしい、謙遜でなければこのような時に忍耐強い対応ができない。非難する人々にキリストの愛をもって、経緯を平和の中に説明して行く。
神は混乱の神ではないので、みことばに従う時にはあらかじめ平和の備えがある。その主の備えに信頼して親切であれば良いのだ。
ペテロは主のお導きをありのままに語った。
すると、もう一度天から声がして、「神がきよめた物を、きよくないと言ってはならない」というお答えがありました。
こんなことが三回あって後、全部の物がまた天へ引き上げられました。(9~10)
禁じられていたことが解かれるのは、イエスの十字架によって「神がきよめた」からである。それは神の完全であり、疑いを差し挟むことが汚れとなる。
すると、どうでしょう。ちょうどそのとき、カイザリヤから私のところへ遣わされた三人の人が、私たちのいた家の前に来ていました。
そして御霊は私に、ためらわずにその人たちといっしょに行くように、と言われました。そこで、この六人の兄弟たちも私に同行して、私たちはその人の家に入って行きました。(11~12)
同行者を伴って行くことは、ペテロの個人的な行動ではないことを現わす。ペテロがヤッファの兄弟たちにすべてを伝え、同じ信仰の従順に在って行動したことを現わしている。このことはとても素晴らしく羨ましい・・。ペテロの人柄もあるのかなぁ・・。
そこで私が話し始めていると、聖霊が、あの最初のとき私たちにお下りになったと同じように、彼らの上にもお下りになったのです。
私はそのとき、主が、「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは、聖霊によってバプテスマを授けられる」と言われたみことばを思い起こしました。(15~16)
聖霊はみことばを思い出させて導かれる。聖霊に導かれて働くためにはみことばの蓄えが絶対条件である。コロコロと変わりゆく世の状況や、人の規範には関わりないことだからである。
「こういうわけですから、私たちが主イエス・キリストを信じたとき、神が私たちに下さったのと同じ賜物を、彼らにもお授けになったのなら、どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。」
人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ」と言って、神をほめたたえた。(17~18)
主の備えに、キリスト者は反論をやめて沈黙する。彼らの聴く耳を開かれたからである。その沈黙は従順であり教会の大いなる祝福となり、従順の直後にあふれるのは救いの喜びである。
此処に神の栄光があらわされる。