イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。(3)
キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。(Ⅰコリント15:6)
復活の主は初めに使徒たち、それから500人以上の弟子たちに現れて、生きて居られる御姿を40日間に渡って見せられた。このことは、殉教に至るまで使徒たちに、生ける神の確信となったであろう。
主は、人の頼りない記憶だけによらず、魂には愛の感動を満たし、体には目に見せ手に触れさせ、共に食事をして、永遠に生きて働かれるキリストを、刻み込んでくださったのである。
神の国の望みを覚えるための40日間は、イエスを愛する彼らには、生涯忘れることのない確信となったろう。
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(4~5)
すべてに限りのある人間が神のご計画を行うために、決して欠かせないのは聖霊なる神の臨在である。その方が解き明かしてくださるみことばの確信である。
一人ひとりにどんな時も共に居て下さる神、聴いたみことばにとどまらせ、それを行わせてくださる助け主。聖霊が来てくださるのは、神が人と共に働かれるためである。
そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。(6~7)
人には神のご計画は及びもつかないことであり、それは神の権威のもとに在る。
人は、ただその権威に服する者。私たちが知らなければならないことは、「今日主は私に何を語り、何を命じておられるのか」である。
これは従順であり分に相応しいことであって、全き信頼こそ、神に対する私たちの愛の表現である。
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(8~9)
イエスが最後に話されたことばは、今に至るキリスト者も聴くべき現在進行形のご計画である。キリストの御救いを受けた者はみな、聖霊に導かれて働くキリストの証人であるから・・。
イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(10~11)
彼らは主の御姿が見えなくなった時、終わってしまったかのような気持ちで、何時までもいつまでも天を仰いでいたのであろう・・。
御使いは、これから始まる彼らの時代を通った先にある、神のご計画の完成を知らせ、そう、もっと高い天に備えられてあり、彼らが目をとめるべき主の再臨の日を指し示した。