ウツの地にヨブという名の人がいた。この人は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていた。
彼には七人の息子と三人の娘が生まれた。
彼は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、それに非常に多くのしもべを持っていた。それでこの人は東の人々の中で一番の富豪であった。(1~3)
ヨブは信仰の祝福、財産の祝福、家族の祝福、人の尊敬をたまわっていた。誰でもこのような人生を切に願う。それは此処に確かな平安があると思うからである。
しかし、ヨブは人生に何の問題もない深い平安の中で生きていた・・わけではなかった。
彼の息子たちは互いに行き来し、それぞれ自分の日に、その家で祝宴を開き、人をやって彼らの三人の姉妹も招き、彼らといっしょに飲み食いするのを常としていた。
こうして祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえをささげた。ヨブは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、心の中で神をのろったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつもこのようにしていた。(4~5)
ヨブの不安が書かれている。彼は成人している子どもたちの信仰を心配して、神に罰せられないように注意深く守っていた。ヨブの平安は、祝福のはずの子供たちへの心配によって、持ち去られていた。
ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。(6)
主はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」(8)
神さまはヨブを大変愛しておられたことが分かる。また、ヨブのそつのない信仰が伺われる。それは神さまが自慢されたほどであった。
サタンは主に答えて言った。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。(9)
あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」
主はサタンに仰せられた。「では、彼のすべての持ち物をおまえの手に任せよう。ただ彼の身に手を伸ばしてはならない。」そこで、サタンは主の前から出て行った。(11~12)
まるで、神さまがサタンの罠に掛かったかのように見え、ただ、ただ、ヨブには災難のようにしか見えない。
永遠の基準で計画される神さまを、目先の事だけで判断する時、理不尽としか思えないことがある。しかし、信頼して待つとき祝福のすべてを見て、感謝にあふれてひれ伏すようになるのだが・・。
ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」(13~15)
この後、ヨブは子供たち全員を失い財産も失った。しかし、彼の信仰は変わらず、神さまがほめられたとおりであった。
サタンは神の許された範囲で働き、ヨブには触れなかった。
このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。(20~22)
ヨブはこの時、子どもたちを神から守ることの僭越に気づいたのだろう。それが不信仰な虚しい行いであったと・・。
神さまはヨブの心配の種を取り去られたのである。神さまのヨブへの愛は変わらない。もっと完全なものが用意されている。
子どもを失った時のヨブも、長子を失ったダビデも、神のさばきを受け入れ変わらぬ従順をもって神を礼拝している。
アブラハムはイサクの命を神から守ろうとはせず、命令に従って、跡継ぎであるひとり子を捧げた。その時イサクの命を守られたのは神であった。
愛するものを神に信頼し御愛の下に置くなら、私たちは平安を得て神の愛を共有することができる。
しかし、神はヨブの信仰を試練の中で守るために、彼をずっと見ておられた。
女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。(イザヤ49:15)