石ころ

教会の働き(ヤコブ5章)

 

私の兄弟たちよ。何よりもまず、誓わないようにしなさい。天をさしても地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それは、あなたがたが、さばきに会わないためです。(12)


言葉は思いであり、どんなに正しいと思えることであっても、自分の言葉に何らかの権威を付け足す必要はなく、何かによって誓わないということもそういうこと。
自分の言葉を「はい」「いいえ」の中に治めれば、主のみこころに叶うことなら、主が証してくださる。


あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。(13)


神の子とされた者には苦しみは祈りとなり、喜びは賛美として、すべては主への捧げものとなる。そのすべてにキリストが寄り添っていてくださる、私たちは、あらゆることを通して神の御前に居るのであり、これ以上の最善はない。


あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。(14)


教会はキリストのからだであり、一人が病むときは共に痛み、一人の罪によって全体が傷つくものである。キリストのからだの各器官ゆえにすべては繋がっていて、互いに祈り合うことが必要なのである。
共に健やかな成長をして行かなければ、からだは一部分だけでは自由に働くことができないのある。


信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。(15~16)


イエスさまは罪を赦して癒された。赦しと癒しはどちらも必要で謙遜が試されることである。今、すでに赦されている罪の告白は、神の御前に重荷を下ろすことに有効であり、赦しの確信を得るためのものである。

義人の祈りとは、キリストの完全な赦しによってまわったものであり、うちに居られるキリストの信仰から発したものである。


エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。(17~18)


エリヤが特別な人なのではなく、エリヤをそのように用いられた神によることである。至聖所の幕が裂かれた今は、祈りの場は誰にでも平等に与えられている。神はすべての祈りを聞いていてくださる全能なお方である。


神は私たちの祈りに対して、愛のうちにある御計画に沿って必要を備えてくださる。それぞれに最善な時と方法を持って・・。それゆえ、私たちはただ信頼してすべてのことについて、取り繕いのない祈りを捧げることができるのである。祈りの実を結ばせてくださるのは主である。


私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、
罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。(19~20)


私たちはみな、世の攪乱する迷路の中から光の下に助け出された者である。キリストを信じる人々の熱心によって、永遠のいのちの神に連れ戻されたのである。
それゆえ、私たちも次に福音を伝えて行く役割を負っている。みことばと祈りのうちに聖霊の助けの中で、そのことを私たちに成し遂げさせてくださるから・・。


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