私たちはもはや耐えきれなくなり、私たちだけがアテネに残ることにして、
私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。あなたがたを信仰において強め励まし、
このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。(1~3)
激しい迫害に動揺して、テサロニケ教会の信仰が揺るがないかと心配したパウロたちは、会って励ましたいとテモテを遣わした。
愛は心配をするものである。パウロの教会に対する心配の記事が多くある。このことからも、生み育てた教会を母のように父のように愛したことが伺える。
蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。(Ⅱコリント11:3)
私は心配をしています。そちらに行ってみると、あなたがたは私が期待したような人たちでなく、私もあなたがたが期待したような者でなかった、ということにならないでしょうか。(Ⅱコリント12:20)
私は、あなたがたのために労したことが無駄になったのではないかと、あなたがたのことを心配しています。(ガラテヤ4:11)
テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。(ピリピ2:20)
自分自身に関する心配は、みことばを信頼しないことから出たことであり、単なる不信仰であって何の益ももたらせない。御子の命と引き換えにした福音と知っていながら、信頼しないなら神にはどうすることもできない。
でも、「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)という父の叫びにイエスは彼の子を癒された。
信仰を求める祈りには主は聖霊をおくって助けて下さる。求めることもない頑なさが、キリストの平安を拒んでいるのである。
あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(Ⅰペテロ5:7)
神に委ねるなら神が心配してくださる。問題を握りしめて渡さないから、神が介入できないのである。その人は信仰生活の年数は経っても、キリストの平安に住むことが出来ない。
ところが今、テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせを伝えてくれました。また、あなたがたが私たちのことを、いつも好意をもって思い起こし、私たちがあなたがたに会いたいと思っているように、あなたがたも私たちに会いたがっていることを知らせてくれました。
こういうわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦悩と苦難のうちにありながら、あなたがたのことでは慰めを受けました。あなたがたの信仰による慰めです。(6~7)
教会を愛するパウロたちの心配は、互いの愛を確認する結果となり、信仰の確かな成長を知って、迫害の中にあるパウロたちの慰めとなった。
あなたがたが主にあって堅く立っているなら、今、私たちの心は生き返るからです。
あなたがたのことで、どれほどの感謝を神におささげできるでしょうか。神の御前であなたがたのことを喜んでいる、そのすべての喜びのゆえに。
私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(8~10)
また、迫害の中で生きる力となり、神への感謝となり、喜びとなり、祈りとなった。
世に在れば、直接的な迫害があろうと無かろうと、心配の種は尽きることが無い。まして、みことばに忠実であろうとするときは、世への心遣いの板挟みを感じることもある。
キリストの証のために傷つく人もいる。神のことばは両刃の剣だからである。
「語らない方が良かったのではないか・・」と思ったとき、「祈りに導かれることはすべて良し」という言葉を思い出した。
語らなかったら、その人のために祈ることは無かった。傷つけなかったら、命の守りを祈るチャンスは無かったのだ。
何を心配するのか・・、すべての問題の中に、キリストをお迎えするために心配するのである。キリスト者とはそういう者である。
どうか、私たちの父である神ご自身と、私たちの主イエスが、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。
私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いに対する愛を、またすべての人に対する愛を、主が豊かにし、あふれさせてくださいますように。(11~12)
福音がしっかり救いの実を結んでいるか、ひとり一人のうちに純粋なみことばが生きているか、福音を伝えることに命を注ぎ出したパウロたちの心配は、神が喜びに変えてくださる。
今私たちのうちにも、使徒たちから伝えられた福音による純粋な救いの実が、豊かに実現していますように。
主の日には喜びにあふれて、パウロさんたちにいっぱいのお礼を言うことができますように。
そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。(13)