イエスさまだって自分を殺そうとしている場には行きたくはなかったんだ・・。そう、イエスさまも人としての普通の恐れを知っていてくださった。しかしご自分では行きたくもない祭りに出て行かれた。父のみこころを行うために。
兄弟もイエスさまのことを信じては居なかった。そう、霊に拠らなければ誰であってもキリストを知ることが出来ないのだから・・。
そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。(ヨハネ7:6)
「わたしの時」とは十字架であり、「あなたがたの時」とはイエスさまを信じ受け入れるときである。今も私たちに、神のわざを見て信じることが出来るようにと、生活の中で常に主を見上げる時が備えられている。
祭りに来た人々はイエスさまを探し求めていた。しかし、イエスさまの教えを聴いた人は二つに分かれる。
イエスは明確に言われる。「あなたがたは律法を守っては居ません」と・・。それは、彼らはイエスを殺そうとしていたからである。
彼らは自分がしよとしていることを振り返るだけで、すぐに律法違反を見つけることが出来るのであった。
彼ら宗教指導者は厳格に律法を守ることによって、信仰の基礎が成り立っていたのだろうが、イエスに出会ったときから、それが完全に崩れようとしていることに気付かなかったのだろうか・・。
イエスのひとこと「律法を守っていない」は彼らのあざむきを浮き彫りにする。ここでも彼らの信仰が真摯なものであったなら、イエスにくずおれるチャンスはあった。
「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:24)
この言葉は彼らの信じる律法に照らして、自分自身をまず裁きなさいといわれているのだと思う。
イエスさまは堂々と宮にいて、大声でご自身が神から出た者であることを証しされた。
群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」(ヨハネ7:31)
思い巡らす人々にイエスは言われる。今私たちにも・・
「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37~38)
イエスさまに思い巡らせる者は、聖霊を受けて豊かにみことばが開かれて行くことを知らせてくださっている。
「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
イエスについて「もう知っている」という者は、中途半端な知識によって躓く。人の知識や学問によってキリストを知ることはない。聖霊と神のわざによらなければ知ることはない。
人はそこで常に分裂する。魂は霊を攻撃する。イエスさまが責められたように、目覚めた霊も罪人に根ざす魂から責められるからである。
それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」
役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。
議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。
だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」(ヨハネ7:45~49)
彼らは、自身の信じる律法によりのろいを受けることに気付いていない。
人は、最も重い罪に自から気付くことはない。それは御子を否む罪である。
御子を信じる信仰は神のわざによるのだから、神のわざを否定する所には救いはないのだから。
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