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石ころ

神の栄光を見る

「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
ラザロが死んだとき、マルタもマリヤもイエス様にこう言った。でも、神様にとって私たちの環境や時間など、そんな条件は意味をもたない。死んで4日も経っていようと腐っていようと、事実ラザロはよみがえらされた。そんなことで神様のわざを止めることなどできなんだ。つくづく人間が神様を知るということは難しいことだと思った。

 イエス様が墓を塞いでいる石を取りのけなさいと言われたとき、マルタは喜ぶより躊躇している。なぜ、すぐに喜べなかったのか、きっとイエス様に兄弟の醜くなった姿や、悪臭をさらすことを躊躇したのだろう。愛する者であれば自分のことのように、そんな醜い姿は見せたくないと思うだろう。

 信仰生活において私たちは、神の栄光を見るべきであると思う。ある時、主に命じられるままに、主の御前に自分の悪臭をさらし、腐った肉をさらす覚悟をすることによって、神の栄光を見せていただくことがあるのだと。それは、取り繕った美しいものではない。なんと人の思いとは違うことだろう。

 
「イエスは言われた。『その石を取りのけなさい。』死んだ人の姉妹マルタは言った。『主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。』イエスは彼女に言われた。『もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。』」(ヨハネ11:39~40)

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