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愛する人を亡くされた方や、病気を抱えて居られる方に向かって「真の神を信じないと滅びます。」と語るのは心が痛いことであり、聖霊の助けがなければできない・・。
それでも、「死ぬといけないから・・」と、エバのようにぼかして語ることはサタンの喜び。
滅びから救われるためには、十字架で死んでくださったイエスさまの愛の言葉を、割り引かずに明瞭に「滅びる」と事実を伝えなければ、その人には十字架の救いが無駄になってしまうのだ。
「ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。」(ルカ16:23)
永遠に続く炎の中で、彼は「此処に来ないように、ラザロを使わして家族に伝えてくれ」と願ったがその願いは叶わなかった。
亡くなられた方の叫びを、伝えることができるのは聖書を知って居る私たちしかいない。愛する者に一番伝えたがって居られる言葉を、私たちが直裁に伝えることは、神様の愛を運ぶことなのである。
相手を選ばず、時を選ばず、言葉を選ばずに聖書のことばを明確に届けなければならない。語る者も聞く者も生きている間に・・、今しかない恵みの日に。
それは心を痛めつつ、自分の十字架を負ってキリストの御足跡を行く事である。
神様は、信仰によって誰でも直ちに救ってくださる。備えはすべて整ってあり、犠牲のいけにえはイエスさまだけである。私たちには何も要求してはおられない。
イサクをいけにえに求められた時、捧げるための山上には身代わりの山羊が備えられてあった。
アブラハムがその礼拝を通して賜ったものは、子孫への祝福の約束であった。
神様は私たちを祝福したいのだ。滅びることのないいのちを与えたいのである。御子の血が支払われたいのちであから・・。
いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。
わたしは、あなたの家から、若い雄牛を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。(50:8~9詩編)