撮り旅・ヨーロッパ

ハンガリーを拠点にカメラ片手に古い教会を主に写真撮影の旅を楽しみ、そこで拾った生活、文化情報を紹介します。

バラトン湖の教会スケッチ(1)

2020-04-13 16:23:51 | 海外生活

 COVID-19(新型コロナウイルス)によって外出の制限(ハンガリーでは自粛でなく

罰金刑)は、多くのブロガーさん同様、小生にも少なからずの被害が直撃している。

この問題は簡単には解決しそうもないので、撮り溜めた写真でハンガリー全国の古刹

(中世の教会)をスケッチすることに決めて今回が11件目、160ほどの教会が

あったので先の長い話だ。 来世まで持って行かないようにしたいなぁ~。

 

今回は、バラトン湖周辺で最も大きく、国内でも最も古い教会であるベスプレーム

(Veszprém) の聖ミカエル大聖堂を描いた。

 

 

  以下の画像は、特記外すべて Jul. 20 2019 に撮影したものである。

 

 新型コロナウイルスですべてが閉鎖ならば、せめて遠くからのショットで、

2020年の寂しいイースター(復活祭)の日であった。       Apr. 13 2020

          下の写真の尖った屋根の教会から眺めたお城

 

 「王妃の街(旧市街)」

 

1.聖ミカエル大聖堂 (Szent Mihály Székesegyház)

  ここには9世紀頃にフランク族の要塞があったが、ハンガリー建国と同時に

 1009年に城として改築され、大聖堂の霊廟をロマネスク様式で建て、祭壇は

 14世紀にゴシック様式で追加された。 

 その後、セーケシュフェヘールヴァール ⇒ オーブダ ⇒ エステルゴム ⇒

 ヴィシェグラードと王政の変遷を考えると、ここは最古の都とも云えるだろう。

  建国の祖、イシュトヴァン1世はドイツのハイエルン大公ハインリッヒ2世の娘

 ギゼラを妃に迎えた。 この大聖堂で彼女が初代のハンガリー王妃として戴冠し、

 その後の歴代王妃もここで戴冠して住むようになったので、この街は「王妃の都」

 または「王妃の街」と呼ばれるようになり、多くのギャル達に人気を博している

 らしい。  上の写真はイシュトヴァン1世とギゼラ王妃の像。

 

 大聖堂を中央広場から眺めると、....

  手前には三位一体像、右横にはギゼラ礼拝堂、司教館が建ち並ぶ。

 

 大聖堂の内陣(祭壇)

 

 

2.フランシスコ会修道院教会 (Ferences templom & Kolostor)

 

  教会は1730年(オスマン帝国の退去後)にバロック様式で建てられ、

  1909年にネオロマネスク様式で再建され、現在に至っている。

 

 教会の内陣

 

 

 尚、本ブログの 2017-12-25, 27の投稿記事に、城内の教会も含めて詳細に

紹介してありますので、興味がありましたらご参照を願います。

 

  これにて「バラトン湖周辺の教会スケッチ(1)」はお終いです。

  本ブログへのご訪問、有難うございました。

 

 

 

                 

 

            

 

 


ブダペストをスケッチ(4)

2020-04-04 21:37:49 | 海外生活

 前章ではブダペストを代表する教会、マーチャーシュ聖堂と聖イシュトヴァン大聖堂を、

更にはその前には聖フランシスコ教会をスケッチしてきたが、ブダペストで忘れては

ならない、最も歴史のある司教区教会(聖母マリア教会)を描いておかなければと思った。

 

  教会前の広場は3月15日広場と呼ばれ、ブダペストで革命(1848、1956年)が

 蜂起される時の始まりの場がこの広場である。

 何故、王宮広場や聖イシュトヴァン大聖堂広場ではないのか? 

 それは国政と都政の違いなんだろう。 財力の違いで両者に比べ見劣りはするが、

 ブダペスト市民のこの教会への思い入れは格別なんだと思う。

 

 エリザベート橋の袂に佇む教会              Mar. 03 2019

 

  次の地図は、今のくさり橋などの橋がなかった13~15世紀のペシュト市街地図

 であり、街の成り立ちと繁栄を聖母マリア教会は市内の真ん中で見続けて来たの

 である。

 

 教会の起源は、5世紀にローマ帝国が「コントラ・アクインクム」という要塞を

造った時に、既に聖母マリア教会の源である礼拝堂が存在していた。

建国後の11世紀にはイシュトヴァン1世によって教会に建て替えられた。

そしてジグモンド王~マーチャーシュ王のハンガリー全盛期時代(13世紀)に

今のゴシック様式三層内陣タイプに拡張された。

現在の姿は、1686年に Szécheny Győrgy 大司教が廃墟と化した教会を再建した

もので、1947年と2016年に二度改修された。

          Jan. 19 2008                    Mar. 03 2019

    

 

 オスマン帝国によって支配されていた時代(14世紀半ばから200年間)は

ほとんどの教会はモスク化されたが、唯一、聖母マリア教会だけはローマ・

カトリック教会として残されていた。

オスマン帝国の撤退時に、多くの宝物は持ち去られたが、幸い建物は破壊を

免れ、暫く廃墟となっていた。

よって、教会は内部よりは建物の外観構造に興味が持たれる訳である。

 

● 教会のファサード

  バロック様式    (以下の画像は、すべて Jan. 19 2008に撮影したもの)

 

 

● 教会の西側面

 

● 東側面と南門跡

   

 

● 教会背部(祭壇側)とその下にある像

   

 

<教会内部>

 主祭壇と入口側(オルガン2階席)

  祭壇は1947年、 説教台は1808年、 両サイドの聖母マリア像と

  聖ヨージェフ像は共に1900年製でさほど古くない。

 

  祭壇の天井は、ゴシック様式の典型リブ・ボールド (Rib vault) 工法を使っている

 が色彩が鮮やか過ぎて実際的じゃないような。

 

 これにて「ブダペストをスケッチ(4)司教区(聖母マリア)教会」はお終いです。

 本ブログへのご訪問、有難うございました。