私が今組んでいる「時代屋」ユニットとしては11カ月ぶりのライブ出演になった「オトナの文化祭」。
私はこういうイベントに、かつての「フォーク村」みたいな匂いを感じている。
フォーク村、それは70年台当時にはあちこちにあった。
有名なのは広島フォーク村。ここからは、吉田拓郎が出ている。
あと、沖縄フォーク村も忘れ難い。ここからは佐渡山豊が出ている。
これらのフォーク村が隆盛を極めた頃、それに参加するには私はまだ子供だった。
一歩、世代的に乗り遅れてしまったわけだ。
ただただ、羨ましい気持ちを持って、それらのフォーク村の話を聞いていたっけ。
とはいえ、自分自身が参加したわけではないので、それらのフォーク村の内部がどのようなものであったかは分からない。
ただ推測するだけだ。
でも、その推測の中には羨ましさと同時に憧れもあったように思う。
今回参加した「オトナの文化祭」の雰囲気は暖かい。
そういう中にいる自分も、他の人の演奏を穏やかな気持ちで見ていられる。
時々思うのだが、もし若い頃にこういう集団の中に私が入っていたら、どう感じただろう。
人の演奏に対して張り合う気持ちが先にたっていたかもしれない。
事実、バンド活動してる時がそうだった。
ライブハウスでタイバンやった時は、相手のバンドのことはけっこうクールに見ていたと思う。
とはいえ、批判ばかりしていたというわけではない。
気に入ったバンドに対してはフレンドリーに接したつもりだ。
だが、気に入らないバンドに対しては・・・けっこう批判的だったと思う。
それが今は。
出てくるほとんどのミュージシャンに対して、その人(もしくはユニット)の「良い所」を見つけたいという姿勢に変わってきている。
上手い人はもちろんだが、そうでない人でも良い点ってのはある。
演奏が下手でも、作る曲が良い。
演奏が下手でも、歌がうまい。あるいは雰囲気を持っている。
作った曲は私の趣味じゃなくても、演奏が上手い。歌が上手い。
作詞の着眼点が面白い。
メロディの流れが上手い。
トークが上手い。
このまま続けていけば、独特の存在に成長しそう。
などなど、探せば、良い点はあるのだ。
こういうスタンスに変わっていくと、人の演奏をより楽しめるようになった。
もちろん、本当に素晴らしいと思ったものは、昔からその思いを隠すことはなかったが。
丸くなった・・ってことなのかな。
といいつつ「丸くなった」ということを自分の「いいわけ」にしたくないという気持ちもある。
ある意味、安直な表現だし。
自分では「視野が広がった」もしくは「大きな目で見れるようになった」と思いたい。
もちろん、ミュージシャンには良い点もあれば、悪い点もある。
良い点よりも悪い点のほうが多い場合も中にはあるだろう。
だが、出演者の悪い点ばかりを抜き出して批判ばかりしてると、それはそれを言っている本人にとっても損になるのではないかと思う。
そういう人に限って、自分が批判されると、やたらむきになる。
それなら、良い点を抜き出して、あわよくばその良い点を自分にもフィードバックできたら一番良いではないか・・と思っている。
要するに「良いとこ取り」をすれば、自分にも役にたつ。
人は社会で社会人として働いている時、減点法で見られる場合が多い。
組織によっては、それが顕著な場合もある。
その結果、つぶれていく人のなんと多いことか。
そこには嫉妬がうずまいていたせいもある。
足の引っ張りあいもある。
好むと好まざると。
私が加点法で見たいと思っても、まわりが減点法でものを見る人間ばかりだと、加点法の見方は分が悪かったりすることは多い。
だから・・・私は、自分が好きでやってる音楽の方には、そういう生々しいものは持ち込みたくない。
なるべく加点法で見たいと思っている。せめて、好きな音楽の趣味では、そういう雰囲気でいたい。なぜなら、それで飯を食べてるわけじゃないのだから。
ただ、加点法で見ながら、減点部分も素直に指摘できる関係になれたら、もっと良いとは思う。
減点部分だけでなく。
加点部分だけでなく。
どちらも合わせ持てるのが理想だよね。
なぜなら、加点部分も減点部分も指摘されることで自分に活かせるのだから。
活かせて、自分の中に何かに風穴を開けられれば、それにこしたことはない。
話はそれたが、「オトナの文化祭」。
これは、大学時代の音楽サークルやクラブが学園祭で発表会をやるような感じで、わきあいあいと音楽をやれる場だ。
社会ってやつは、「荒波」で人を揉みまくる。溺れさせることもしばしば。
だから、学生時代のような「凪」の中に身を浮かべてみたくなるのだろう。
普段「荒波」の中にいるからこそ「凪」のありがたみが染みるのかもしれない。
音楽をやるアマにとっての「凪」、それが「オトナの文化祭」。
私が昔、漠然と惹かれていた「フォーク村」ってのは、こういうものだったのかもしれない。
私はこういうイベントに、かつての「フォーク村」みたいな匂いを感じている。
フォーク村、それは70年台当時にはあちこちにあった。
有名なのは広島フォーク村。ここからは、吉田拓郎が出ている。
あと、沖縄フォーク村も忘れ難い。ここからは佐渡山豊が出ている。
これらのフォーク村が隆盛を極めた頃、それに参加するには私はまだ子供だった。
一歩、世代的に乗り遅れてしまったわけだ。
ただただ、羨ましい気持ちを持って、それらのフォーク村の話を聞いていたっけ。
とはいえ、自分自身が参加したわけではないので、それらのフォーク村の内部がどのようなものであったかは分からない。
ただ推測するだけだ。
でも、その推測の中には羨ましさと同時に憧れもあったように思う。
今回参加した「オトナの文化祭」の雰囲気は暖かい。
そういう中にいる自分も、他の人の演奏を穏やかな気持ちで見ていられる。
時々思うのだが、もし若い頃にこういう集団の中に私が入っていたら、どう感じただろう。
人の演奏に対して張り合う気持ちが先にたっていたかもしれない。
事実、バンド活動してる時がそうだった。
ライブハウスでタイバンやった時は、相手のバンドのことはけっこうクールに見ていたと思う。
とはいえ、批判ばかりしていたというわけではない。
気に入ったバンドに対してはフレンドリーに接したつもりだ。
だが、気に入らないバンドに対しては・・・けっこう批判的だったと思う。
それが今は。
出てくるほとんどのミュージシャンに対して、その人(もしくはユニット)の「良い所」を見つけたいという姿勢に変わってきている。
上手い人はもちろんだが、そうでない人でも良い点ってのはある。
演奏が下手でも、作る曲が良い。
演奏が下手でも、歌がうまい。あるいは雰囲気を持っている。
作った曲は私の趣味じゃなくても、演奏が上手い。歌が上手い。
作詞の着眼点が面白い。
メロディの流れが上手い。
トークが上手い。
このまま続けていけば、独特の存在に成長しそう。
などなど、探せば、良い点はあるのだ。
こういうスタンスに変わっていくと、人の演奏をより楽しめるようになった。
もちろん、本当に素晴らしいと思ったものは、昔からその思いを隠すことはなかったが。
丸くなった・・ってことなのかな。
といいつつ「丸くなった」ということを自分の「いいわけ」にしたくないという気持ちもある。
ある意味、安直な表現だし。
自分では「視野が広がった」もしくは「大きな目で見れるようになった」と思いたい。
もちろん、ミュージシャンには良い点もあれば、悪い点もある。
良い点よりも悪い点のほうが多い場合も中にはあるだろう。
だが、出演者の悪い点ばかりを抜き出して批判ばかりしてると、それはそれを言っている本人にとっても損になるのではないかと思う。
そういう人に限って、自分が批判されると、やたらむきになる。
それなら、良い点を抜き出して、あわよくばその良い点を自分にもフィードバックできたら一番良いではないか・・と思っている。
要するに「良いとこ取り」をすれば、自分にも役にたつ。
人は社会で社会人として働いている時、減点法で見られる場合が多い。
組織によっては、それが顕著な場合もある。
その結果、つぶれていく人のなんと多いことか。
そこには嫉妬がうずまいていたせいもある。
足の引っ張りあいもある。
好むと好まざると。
私が加点法で見たいと思っても、まわりが減点法でものを見る人間ばかりだと、加点法の見方は分が悪かったりすることは多い。
だから・・・私は、自分が好きでやってる音楽の方には、そういう生々しいものは持ち込みたくない。
なるべく加点法で見たいと思っている。せめて、好きな音楽の趣味では、そういう雰囲気でいたい。なぜなら、それで飯を食べてるわけじゃないのだから。
ただ、加点法で見ながら、減点部分も素直に指摘できる関係になれたら、もっと良いとは思う。
減点部分だけでなく。
加点部分だけでなく。
どちらも合わせ持てるのが理想だよね。
なぜなら、加点部分も減点部分も指摘されることで自分に活かせるのだから。
活かせて、自分の中に何かに風穴を開けられれば、それにこしたことはない。
話はそれたが、「オトナの文化祭」。
これは、大学時代の音楽サークルやクラブが学園祭で発表会をやるような感じで、わきあいあいと音楽をやれる場だ。
社会ってやつは、「荒波」で人を揉みまくる。溺れさせることもしばしば。
だから、学生時代のような「凪」の中に身を浮かべてみたくなるのだろう。
普段「荒波」の中にいるからこそ「凪」のありがたみが染みるのかもしれない。
音楽をやるアマにとっての「凪」、それが「オトナの文化祭」。
私が昔、漠然と惹かれていた「フォーク村」ってのは、こういうものだったのかもしれない。