テリー・キャス Terry Alan Kath
【パート】
ギター、ヴォーカル
【生没年月日】
1946年1月31日~1978年1月23日(31歳没)
【出生地】
アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
【経 歴】
ビッグ・シング/The Big Thing(1967~1968)
シカゴ・トランジット・オーソリティ/Chicago Transit Authority(1968~1969)
シカゴ/Chicago(1970~1978)
アメリカン・ロックの代表的バンドのひとつ、「シカゴ」のオリジナル・メンバー。
シカゴではギター、リード・ヴォーカル、作詞作曲を担当、バンドの中心人物として1960~1970年代のシカゴを支えた。
ギターのほか、バンジョー、ベース・ギター、アコーディオン、ドラムも演奏するマルチ・プレイヤーである。
貧しい農家に生まれる。正式な音楽教育は受けていないが、育った家庭はみな音楽好きで、テリーも幼いころからバンジョーやアコーディオンに親しんでいた。
1950年代の終わりにヴェンチャーズが登場すると、テリーはたちまちヴェンチャーズ、そしてヴェンチャーズのギタリスト、ノーキー・エドワーズに夢中になり、独学でギターをマスターした。この間ケニー・バレル、ジョージ・ベンソン、ハワード・ロバーツなどのジャズ・ギタリストのレコードも聴きあさっていたという。その後1年ほどジャズのレッスンを受ける。
1963年頃、「ジミー&ザ・ジェントルメン」に参加。このバンドで終生の親友となるウォルター・パラザイダーに出会う。
1964年頃、ABCの人気番組『アメリカン・バンドスタンド』のホスト、ディック・クラークが率いていた「キャラヴァン・オブ・スターズ」にベーシストとして参加。このグループの前任ベーシストが、のち「シカゴ」のプロデューサーとなるジェイムス・ウィリアム・ガルシオであった。
その後ウォルター・パラザイダーと「ジ・エグゼクティヴス」を結成。このバンドでダニエル・セラフィン(drums)と出会う。
「ジ・エグゼクティヴス」は「ミッシング・リンクス」へと発展したのち1966年に解散したが、テリーとウォルター・パラザイダーは自分たちの「ホーン・セクションを入れたロック・バンドを作る」という構想に合ったミュージシャンを探し始め、ジェイムス・パンコウ(trombone)、リー・ロックネイン(trumpet)、ロバート・ラム(keyboard, vocal)を仲間に加えて、1967年2月に「ザ・ビッグ・シング」(The Big Thing)を結成した。
ザ・ビッグ・シングはイリノイ州メイウッドにあったウォルター・パラザイダーの母の家にある地下室でリハーサルを重ね、オリジナル曲を増やし、中西部でサーキットして、徐々にその知名度を上げていった。
1967年12月、ザ・ビッグ・シングのメンバーにピーター・セテラ(bass, vocal)が加わり、バンドは7人編成となる。
1968年なると旧知のプロデューサー、ジェイムス・ウィリアム・ガルシオがザ・ビッグ・シングのマネジメントとプロデュースを手掛けることになり、バンドは活動の幅を広げるために本拠地をロサンゼルスに移す。
ザ・ビッグ・シングのユニークな音楽はロサンゼルスの音楽業界でも知られるようになり、紆余曲折を経て、ジェイムス・ウィリアム・ガルシオの尽力でコロムビア・レコードと契約を結ぶことに成功した。そしてザ・ビッグ・シングは「シカゴ・トランジット・オーソリティ」(=シカゴ交通局)と改名し、1969年1月からファースト・アルバムの制作を開始する。
優れたオリジナル曲を多く持っていたシカゴ・トランジット・オーソリティーのファースト・アルバムは、当時標準だったLPレコード35分に収まりきらなかったため、新人バンドとしては異例の2枚組アルバムとして1969年4月にリリースされた。これが『シカゴの軌跡』である。
アルバム・リリース後はツアーに次ぐツアーを行った結果、「シカゴ・トランジット・オーソリティ」のパワフルでユニークな音楽性は広く認知されるようになった。アルバム『シカゴの軌跡』も全米チャート17位を記録、ゴールド・アルバムを獲得する好セールスを記録した。
この1969年、シカゴ市の運輸部門からバンド名に対してクレームがついたため、バンド名は「シカゴ」と改められる。
1970年にリリースしたセカンド・アルバム『シカゴと23の誓い』でバンドは大ブレイクする。シカゴはこの『シカゴと23の誓い』から10作連続して全米アルバム・チャートのトップ10に送り込んだが、とくに『シカゴⅤ』から『シカゴⅨ』まで5作連続して全米アルバム・チャート1位を記録している。
シカゴはアメリカン・ロックの頂点に立つ巨大バンドへと成長したが、その中にあってテリーは大きな柱としてバンドを支え続けた。
テリーは、ファースト・アルバム発表時からギタリスト、ヴォーカリスト、そしてソングライターとして活躍しており、以後もバンドの中枢部を担い続けることになる。
彼のギターは、パワフルで荒々しく、圧倒的な存在感を誇っている。ロックやジャズのエッセンスを存分に吸収、昇華させたプレイは高く評価されている。
テリーはジミ・ヘンドリックスを崇拝していたが、そのジミはテリーを「俺よりうまい」と称賛している。1968年9月、ウィスキー・ア・ゴーゴーでのシカゴのライヴに当時絶頂期だったジミ・ヘンドリックスが現れ、「(シカゴの)ホーン・セクションの息はぴったり、ギタリスト(テリー)は俺よりうまい。俺の前座をやってもらいたい。」と語った、という話が残っている。ちなみに、テリーとジミは、ふたりの共作アルバムを制作する、というプランを持っていたという。
また親友のひとりでもあったロバート・ラムは、テリーのギターについて「ぼくはテリーほどうまいリズム・プレイヤーを見たことがないし、彼のリード・ギターは当時としては世界的レベルだった」と語っている。
またバンド内では、ロバート・ラム、ピーター・セテラと並んでリード・ヴォーカルのポジションをも担っていた。
『イントロダクション』などのハードなナンバーでの男くさいヴォーカルはまさに「ロック」そのものだが、『リトル・ワン』『明日へのラヴ・アフェア』などのバラードで聴かれる、温もりのある歌声も評価が高い。
テリーは、表面上はアメリカを代表するバンドであるシカゴの主要メンバーであったが、メディアから正当に評価されていないという不満を抱えていた。また人間関係に疲弊しつつあったうえに、ドラッグへの依存が深刻化しており、精神的な余裕が失われつつあった。
1978年1月22日の夜、テリーは親友のウォルター・パラザイダーの家を訪ねていた。テリーはガールフレンドと大喧嘩していたうえに数日間ほぼ眠っておらず、疲れていたようだったという。心配するウォルターの家をあとにしたテリーは、翌1月23日にシカゴのスタッフのひとりであるドン・ジョンソンの家を訪れた。
テリーはガン・マニアでもあり、銃の分解や組み立てが好きで、ジョンソンの家でもピルトルの手入れをしていたという。
午後5時頃、テリーの様子を心配したジョンソンはテリーに「ベッドへ行って休むよう」忠告したが、テリーはクリップ(挿弾子)を抜いてある自動拳銃を見せ、「まだこれにはクリップが入っていないんだ」と言った。テリーは空のクリップを銃に装填し、その銃を頭の上で振り回していたが、その時指が引き金を引いてしまった。銃からクリップを抜いてはいたが、実は銃内の薬室には実弾が1発が残っており、テリーはその弾丸で自らの側頭部を撃ち抜いて即死した。まだ31歳の若さであり、32回目の誕生日のわずか8日前のことであった。
テリーは、死亡した翌日から、ファースト・ソロ・アルバムに向けてのリハーサルを行う予定だったという。
なおテリーの死後に後任としてシカゴに加入したのは、元スティーヴン・スティルス・バンドのドニー・デイカスである。
【ディスコグラフィ】
<シカゴ>
1969年 シカゴの軌跡/Chicago Transit Authority(アメリカ17位、イギリス9位)
1970年 シカゴと23の誓い/Chicago(アメリカ4位、イギリス6位)
1971年 シカゴⅢ/Chicago Ⅲ(アメリカ2位、イギリス9位)
1971年 シカゴ・アット・カーネギー・ホール/シカゴChicago at Carnegie Hall(アメリカ3位)
1972年 シカゴⅤ/Chicago Ⅴ(アメリカ1位、イギリス24位)
1972年 シカゴ・ライヴ・イン・ジャパン/Live in Japan
1973年 シカゴⅥ(遥かなる亜米利加)/Chicago Ⅵ(アメリカ1位)
1974年 シカゴⅦ(市俄古への長い道)/Chicago Ⅶ(アメリカ1位)
1975年 シカゴⅧ(未だ見ぬアメリカ)/Chicago Ⅷ(アメリカ1位)
1975年 シカゴⅨ(偉大なる星条旗)/Chicago Ⅸ:Chicago's Greatest Hits(アメリカ1位)
1976年 シカゴⅩ(カリブの旋風)/シカゴChicago Ⅹ(アメリカ3位、イギリス21位)
1977年 シカゴⅪ/シカゴChicago Ⅺ(アメリカ6位)