NPO法人BIO de BIO (ビオ・デ・ビオ)  ~生物多様性のある循環の暮らしをめざして~

特定非営利活動法人BIO de BIO (ビオ・デ・ビオ)の活動レポートや情報をタイムリーに発信するためのブログです

被災地巡礼行へのお誘い

2012年05月31日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。

東日本大震災とフクシマから、14ヵ月経ちました。
あの日いったい何が起きたのでしょうか。
フクシマは今、何がどうなっているのでしょうか。
復旧は、どこまで進んだでしょうか。
復興は、兆しが見え始めたでしょうか。

未だに行方不明者の数は、減っていません。
これから何をどうすればいいのでしょうか。

みなさん、ご自分の眼で、ありのままの現実をご覧
になっていただくために、「明日は我が身の桜ライン」
実行委員会は、桜の植樹に適さない5月から10月ま
で、毎月1回の予定で、被災地巡礼行を催行します。

奮ってご参加ください。
特別に提供された大型プライベートサロンバスの定員
は、20名です。
ゆったり楽々の巡礼行に奮ってご参加ください。




桜の移植には適さない時期に入りました。11月まで、植樹行はお休みです。
代わって、被災地巡礼行を催行します。奮ってご参加ください。

被災地に就業機会が失われているため、平日の昼間からパチンコ屋が大繁盛で、夜
になると居酒屋が大賑わい、の現状をお伝えしたところ、個人事業主の方々や、中小
企業主の方々から、復興支援のために、一度現地を訪れてみたいとの要望も、寄せ
られるようになりました。
私たちに求められていることは、数限りなくあります。
「明日は我が身の桜ライン」の使命のひとつは、「被災地が何を求めているか」を、ひと
りでも多くの「明日は我が身の」私たちが、自分自身の目で見て、感じて、考えることで
す。
ここから真の復興が始まり、日本社会が何を目指し、どこへ行こうとするのかが、はじめ
て国民的課題になるのではないでしょうか。
動機はさまざまであろうと、自分の目で見ることから始めましょう。
何かが始まるはずです。

深い絶望の先にしか、新しい希望など生まれはしない、被災地巡礼行です。

6月1日金曜日夜、仲間の提供する大型サロンバスが浜松から出発します。
新東名、東名を走り、首都高、東北道と、約800kmから900km走って、2日土曜日朝
には、被災地近くのどこかのICに着きます。
そこから巡礼行が始まります。
前回もそうだったように、首都圏のかたがたは、どこかのSAやPAで待ち合わせです。
被災地の現場を訪れ、最初の桜ラインの一本も見たりして、夜は温泉です。
東北のよさの発見行でもあります。
6月3日日曜日のうちには、帰着するようにしています。

参加会費は、マイ桜基金5000円を含めて、ひとり30000円です。
バスは、24人乗りですが、ゆったり行きたいので、定員は18名とします。

今回の目的地は、最大の被災地石巻市、南三陸町、気仙沼市あたりです。
ほかにご希望があれば、おっしゃってみてください。

フクシマ20km~40km圏内の、無人の村を巡る、巡礼行も計画します。
少量ですが、放射線被曝の危険性がありますので、希望者だけの参加とします。
奮ってご参加の希望をお寄せください。必見です。

東日本大震災・フクシマから9ヶ月半

2012年01月13日 | ★代表理事 黒田より 
東日本大震災・フクシマから9ヶ月半
どんなに冬が長く厳しくても、
春があまりに遠くにあろうとも、
春の来ない冬はなかった。
・・・・・・・・・・しかし、
どんな春かが問われている。



予期もしない、望みもしない死を、突然迎えることになった
2万人にも達しようかというひとびと、瞬きする間もなく壊滅した町並み、
見るかげもなく荒廃した国土、そしてフクシマ。
3月11日は、私たちから何もかもを奪い去った。

あのテレビからあふれ出たリアルタイムの映像に、衝撃をうけなかった人はいない。
この世の現実とも思えなかった。
それが自分の現実だったらと、身体の芯まで凍りつくような恐怖を感じながら、
みんな想いを馳せたにちがいなかった。


(写真)大船渡市 2011/11/16

あれよあれよと言う暇もなく、ひとの命も、家も、商店も、工場も、港も、役所も、
何もかもが、荒れ狂う水にさらわれていった。
ほんの少し前まで、ひとびとの日常があったのに、津波が収まると、そこは賽の河原に変わっていた。

私たちの支援は、生き延びたひとたちに、一瞬でもいいから、ホッとしてもらいたい、から始まった。
あの惨状を知って、それ以上のことができるような気がしなかった。


(写真)柑橘を採りに行ったときの生口島の風景 2011/04/19

日本ではじめてレモンを栽培してきた、瀬戸内海の島生口島には、
農薬も何も使わずかんきつ類を育てているひとたちがいて、季節の最後に、今、山に残っているものは、
ひとつ残らず被災地の人たちに食べてもらっていいと申し出があった。


(写真)南三陸ベイサイドアリーナにて 2011/04/20

愛知の山の中から、トラックと大型のバンとで、一晩中走って、朝早く現地に着き、
早速全員で収穫して満杯に積み込んだら、今度は1300kmナイトランして、翌朝被災地に入った。


(写真)宮城県登米市避難所-鱒淵小学校にて 2011/04/20

隣町の登米市に避難してきている南三陸町の人たち百人あまりに、最初のミカンを届けた。
大きな安政柑を両手に抱えるようにして、涙ぐんだ女性が忘れられない。
一日かかって、地域ごとに分散した避難所に届けて回った。

事態を受け止めることさえ難しくて、何も手につかず、
呆然と立ち尽くしているひとたちの姿の多さに、
私たちの想像の及ばない経験が存在したと感じるばかりだった。

 
(写真)南三陸町志津川地区 2011/04/20

かんきつ類の全てを配り終えて、私たちははじめて、被災地に入った。
二晩寝ないで走ってきて、当面の目標をはたして、のどかな早春の山里をドライブしながら、
私たちの会話は、一仕事終わったような気分だったような気がする。
右カーブを曲がり下り、さらに左にカーブした途端、目の前に拡がり、見たものは、
私がヒロシマで経験した、何もかもが焼き尽くされたモノより、はるかに生々しく、


(写真)東松島市 2011/11/15

ただただ凝視する以外にはない、地獄というものがあるとすれば、まさにこのようなもののことだと思った。
誰もが言葉を失った。
誰が言うでもなく、辛うじて車を寄せられる場所に車を止めて、現場に立ち、ただ何かしら祈った。
営々と築き上げてきたもの、積み重ねてきたもの、ひとびとの日常といっしょに、全て破壊されていた。
ヒロシマと同じだった。
コウベもそうだった。


(写真)東松島市 2011/11/15

それぞれの土地には、その土地だけの魂があり、場の生命があった。
そこにひとびとの長い年月をかけて培った暮らしがあり、言葉があり、
伝統と歴史が形成され、その土地だけの文化にまで高められてきた。
志津川は志津川だし、歌津は歌津、女川は女川、田老は田老だった。
http://blog.goo.ne.jp/salonedelmonte/e/d6764538681a5364abec3da24b26c16b

1896年と1933年の、二度の大津波を経験した三陸地方が、津波の怖さを知らなかったのではない。
事実、港湾や海岸のいたるところに、高さ10mを超えるような、防潮堤や防波堤が築かれて、
ひとびとは安心しきっていたとも言えるかもしれない。
鉄筋コンクリートの防災センターや、避難所もつくられて、町は安全なはずだった。
21世紀世界は、情報時代と言われて、確実な情報が瞬時に、どこまでも届く手はずだった。
ひとびとは守られていて、安全だと信じていたのではなかったか。


甚大な被害を伴う災害とは、常に想定外の規模で発生するから、大災害なのではないか。
それに備えるためにこそ、学術研究の専門家があり、政治の、経済の、産業の、
各種専門分野の専門家が存在したのではないか。
それらの膨大な叡智と尽力と、投下された多大な資金の結晶が、長年の念願だった、
さまざまな防災施設の数々ではなかったか。
ひとびとの生命や財産を護り、文化や伝統を維持発展させるために、
それらの専門家の職責があったのではないか。


(写真)東松島市 2011/11/15

何回か夜走りして通い、現場に立ち、現場を巡りながら、
私たちの支援の方向と形が、次第にはっきりしてきた。
当面の急務である、瓦礫や屋内の泥の片付けや、物的支援、炊き出しではなく、
このような悲劇を繰り返さないために、天災が人災にならないために、
この生きた現場から、洗いざらい学びつくすこと、次のために準備すること、
を中心の柱に据えることにした。その上でもう一度現場に立ち戻り、
真の復興再生とは、誰が、何を、どうすることかを、自らに問い、余さず学び取り、
共に考え、共に働き、共に答を模索することにした。
同時にそれらが、長い年月を必要とするであろうことから、継続的な支援の道を探ることともした。

成功したとは言えないが、私たちがいち早く、現地の山の木を使って、
現地のひとびとの協働によって、短期的な仮設住宅ではない、
永住も可能な復興住宅の提案をしたのは、私たちの方針の、ひとつの具現化だった。


(写真)南三陸町志津川地区 2011/11/15

しかし被災地の現状は、まだまだ復興というには、程遠い。
大手企業や、コンビニが、いち早く再開しているのに反して、市民の暮らしは、
まだ方向さえ定まらないでいる。
それでも正月は、来てしまった。


(写真)南三陸町志津川地区 防災対策庁舎 2011/11/15

大震災以後9ヵ月半、「想定外」の一語によって、職務に伴う責任の何もかもが
問われることもない現状は、失われたものの大きさを思うにつけ、
不可思議きわまりない事態と言わざるを得ない。
また同時に、想像することも不可能な喪失の真っ只中にあるひとびとと、
ほとんど何も喪失しなかったに等しい善良なひとびととを、「絆」の一語でくくって、
生暖かい空気で包み込もうとするマスコミや、言葉で生きるひとたちの、安直な危うさも、
何かを生み出すエネルギーになるとも思えない。


(写真)東松島市 2011/11/15

復興とは、あの望まない死を遂げたひとびとの無念さや、希望や、夢や、志を、
体現するものでなければならず、それらのひとびとの累々たる亡骸の上に構築されることを忘れてはならず、
それ故に、生き残った者たちの目の前の利益に奉仕するものであってはならず、
ましてや巨大災害や、それがひき起こした大悲劇を、
願ってもないビジネスチャンスとみなすような者たちの荒稼ぎを許すようなものであってはならない。


(写真)東松島市 2011/11/15

疲労困憊の極にある現地のひとびとにとって、真の支援とは、
そのような復興への長い道のりの同行者であり続けることではないか。
どこにいようと、「明日はわが身」の私たちの支援は、自助に対する共助の形をとって、
今始まったばかりだと、私たちは自分の心に誓う。
そして、共に誓い合えるひとびとの輪が、もっともっと大きく強固になっていくことを、心の底から願っている。


(写真)陸前高田 2011/11/16

フクシマでは、もっと無責任なことが、起き続けている。
いちばん伝えられなければならない情報が、隠蔽され続けてきた。
形も見えず、無味無臭の放射線に、怯えることさえ知らないままに、
ひとびとはなすすべを知らず、何も知らされないで右往左往してきた。
もう10ヵ所以上も、避難先を移り歩いているひとたちがある。
この先がどうなるのかもわからない。何も見えない暗黒の中にいる。
住み慣れた家に戻りたい、と願っていても、それが実現しないのかもしれないと、
限りない不安にさいなまれている。
口先だけの安心が、振り撒かれている。
外部被曝のこともよくわからないまま、内部被曝も、はっきりと知らされないままに、進行している。
この先、何がどうなるのか、何年続くのか、何十年なのかもわからない。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマと、世界で日本だけが経験した、この深刻な放射能被害に、
国や県や専門家たちの、真剣に対応しようとする真摯な姿勢や対応を、誰も感じていない。
究極の無責任が続いている。

私たち日本人は2011年、国家から、行政から、経済界、政界、産業界、学問研究の世界から、
棄民されたと言っても、過言ではない。

私たちは、自立して、自律的に、協働して生きるよう求められている。
原発が要らないのなら、自分たちの力で、それを取り除くようにしなければならないと、私たちは教えられた。
誰かにお願いすればいい、のではないと教えられた。

自助と共助の輪を広げよう。


(写真)陸前高田駅の線路跡 2011/11/16


春の来ない冬はない、としても、どんな春を迎えるかが問われている。
無責任で、その場しのぎの、投げやりな春を迎えるくらいなら、まだ冬の寒さに耐えることを選ぼう。

東日本大震災から1年目の3月10日には、現地から遠い愛知県でも、これから続く長い支援のための
「菜の花コンサート」が開かれる。
私たちはここでも、既に風化し始めた東日本大震災やフクシマが、まだ何も終わっていないことを、
多くの人々に伝え、明日はわが身と覚悟を新たにし、東日本大震災やフクシマへの継続的支援が、
遠くないいつの日か、そのまま自分たちに跳ね返ってくることに、豊かな感性を働かせるよう呼びかける。



(写真)千羽鶴や花やお供えが積みあがった南三陸町志津川地区 防災対策庁舎。
黙祷を捧げる人々。 2011/11/15


共助は、いつかは自助になる。

そして、春が来る。


(写真)南三陸町志津川地区 防災対策庁舎 2011/11/15

text by 黒田武儀

「山の力」webマガジンをご覧ください。
http://yamanochikara.com/column/2905/


20世紀型の国づくり

2011年11月13日 | ★代表理事 黒田より 
高速移動から低速移動へ〜21世紀型交通

20世紀型の国づくり、高速交通網の整備を見直し、
環境の21世紀は、都市中心市街地から始めて、
日本中に「自転車専用道」網の整備こそが、
ふさわしい !!


最近とくに、新聞やテレビで、自転車がやり玉に挙げられることが多い。
事は、今始まったわけでもないのだが、「歩道を、わがもの顔に走る自転車が危ない」、
「ブレーキのないバイクが、猛スピードで走って来て、事故」、など、とかく
「自転車は、走る凶器」という論調が目立っている。
環境の21世紀象徴する代表格として、にわかに脚光を浴びたのも束の間、今度は、
警察による大掛かりな取締りの対象となっている。

確かに、バイクの側にも、問題がなくもない一面はある。
作手のような、山間僻地の交通量の少ない公道で、車も歩行者もいないと
決め込んでいるらしいライダーから、傍をすりぬけざまに「バカヤローっ !!」
と怒鳴られたりすることもある。
渋谷の駅前の歩道で、前から突っ込むように走ってきたピストバイクに
「どけーっ !!」とにらまれたこともあって、屈辱的な気持ちと、
同じバイク乗りとして、顔が赤くなる想いで
恥ずかしかった。
私たちのバイクライダーとしての、マナーやルールの欠如や、やさしさや節度のなさが、
多くの人々を傷つけている事実から、目をそらしてはならないと思う。

しかし、それらの改善されるべき事実の存在と、新聞やテレビの報道の姿勢や
論調との間には、相当な開きがあるような気がする。
社会の公器としての報道機関が、取締りを強化しようとしている警察発表を
受け売りして、バイクの凶器性だけを論じるのは、決して的を得た報道とは言えない。
地球温暖化やエネルギー問題が、21世紀に、人類が乗り越え、
解決に向かわなくてはならない根本課題のひとつであることは、
既に衆知の事実であり、バイクが、とりわけ都市部での、
中近距離移動手段の中心の一つになるであろうこともまた、衆知の事実と言っていい、
とすれば、誰にとっても安全で快適なバイクでの移動を、

どうすれば確保できるかに、焦点が絞られなければならない。

いったいバイクは、どこを走ればいいのだろう。
ひとが歩くことが前提の、歩道だろうか。
車と言っても、自動車専用道のように誰もが思い込んでいる、車道なのだろうか。
歩行者用道路でもない、自動車用道路でもない、第3の道は、ありえないのだろうか。

ほとんどのバイク乗りは、今は、車道を走っている。
誰もが、生命の危険を感じるような経験を、少なくとも何度かしながら、走っている。
大型トラックや、キャリアカーに、トンネルの中で幅寄せされて、
何100メートルか併走されて、生きた心地がしなかったという経験は、
そこらじゅうで耳にする。
都市の交差点での恐怖の体験、出会い頭の車の飛び出し、など数え上げればきりがない。
バイクは、自動車から、無視されているか、敵視されている。
バイクを敵視したり、無視する自動車の側もまた、もっと別の大きな力から、
無視されたり、道具扱いされているからなのかもしれない。

私たちは今、ひとが、安全に快適に移動する権利を、
社会的に確立する時に生きているような気がする。
歩行者は、身の危険を感じることなしに、安全に歩くことが保障されていなければならない。
同じように、ベビーカーや車椅子は、もっと手厚く保護され、
安全を保障するのでなければならない。
自動車は、自分が凶器になることのないよう、また自分の生命が
脅かされることのないよう、その通行が保障されなければならない。
今はまだ全く、その安全も快適性も保障されていないバイクにとっても、
その保障を確保されるのでなければならない。

環境の21世紀の交通政策とは、道路政策とは、高速移動よりも、
大量輸送よりも、ゆっくりと移動することを尊重し、重要と考え、
その安全と快適さを保証することが、第一義とならねばならない。
いったんは、超高速を手に入れた人類が、その結果として、
進化すべき次の段階とは、実は、低速であることの大事さの認識と回帰であった。

都市の中心市街地の中にも、まだ歩道の整備されていない場所は多い。
まして、バイクレーンやバイク専用道の整備は、ようやく始まりかけているだけで、
まだエピソードの域にも達していない。
このふたつの課題を、最重要課題として、自動車最優先から、
低速移動の重視へとシフトを促進することが、実は、日本の未来にとって、
必要不可欠な施策であることを確認しよう。

今日本では、過疎化、少子高齢化が、存亡にかかわる危機として言われて、
何の対策も効果を上げないまま、もはや、用語としては風化し始めている。
解決は無理、という認識が、一般的になりつつあると言ってもいいだろう。

歩行者やバイクのような、低速移動の重視は、そのあまりに大きな課題の解決への、
何らかの手がかりになりうるのだろうか。
交通弱者と言われる、乳幼児やこどもたち、妊婦や高齢者、
病弱者や障害者が保護され、大事にされるということは、
地域社会のありかた、ひいては日本社会全体のありかたを、
ゆっくりとではあっても確実に、変革する。ひとびとの意識も変わる。
こどもや高齢者や弱者に対する意識も、変化する。
こどもや高齢者の、社会の中での、存在意義が大きくなる。
社会的強者がよしとされる社会から、強者も弱者もひとつのコミュニティの
回復の可能性が芽生える。
大都市であっても、農山村であっても、自動車の普及によって
広域化するばかりだった傾向に歯止めがかかり、歩ける範囲、
自転車で行ける範囲の、小さな、真のコミュニティの再生に向かい始める。
この動きは、衰退傾向にあった地方都市にとって、再生の、
大きなきっかけになるかもしれない。
もともと地方の中小都市は、その地域の歴史と伝統と、
独自の文化に支えられた、その地域の中心だった。
何もかもが世界基準の大都市中心の流れの中で、その存在意義を失いかけていたのが、
もういちど見直される契機となることは、疑う余地がない。
ゆっくり移動することで見えてくる地方地方のよさが、いっぱい詰まっているのが、
そんな街なのだから、自動車や新幹線、飛行機での移動になじまないのは、言うまでもない。
大都市にはないよさが見直されれば、そして、弱者が手厚く遇される社会になれば、
高齢者は生き生きしていき、こどもを生みたくもなる。
ちいさな地域社会が回復再生すれば、これまでのように
多額の金銭を必要としない暮らしが、可能になる。
その傾向は、大都市よりも、中都市、中都市よりも小都市、
それよりももっと農山村に、顕著になる。
とすれば、過疎化の問題にも、ひとつの光が差し込むことにもなる。

「風が吹くと、桶屋が儲かる」という、分かるような、わからないような話がある。
しかし、「自動車道の整備はほどほどにして、日本全国、歩道を整備して、
バイク専用道を整備すれば、ライフスタイルが変わり、日本が変わり、
過疎化、少子高齢化に歯止めがかかる。日本は、奇跡的に再生する。」は、
もう少しわかりやすい。

やさしくて、ゆったりした町づくりが進めば、マナーの悪い、
下品なライダーたちも、品のいいレディやジェントルマンに変わって行く。
彼らのマナーの悪さや品のなさは、私たちの生きている社会の、
マナーの悪さや品のなさの、反映なのだから。

text by 黒田武儀「山の力」より
http://yamanochikara.com/featured/2801/

東日本大震災7ヵ月、現場からの報告

2011年10月17日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。
東日本大震災7ヵ月の、現場からの報告、をお届けします。
大震災から7ヵ月を経て、厳しい冬を間近にして、いろいろな動きが出てきています。
また、見えてきたこともあります。
ごいっしょに、このような大災害に、どう対応し、対処したらいいか、考えたいと思い
ます。
ご一読ください。



東日本大震災7ヵ月、現場からの報告


千年に一度の大災害には、
1000年後の暮らしを見据えた対処と対応が、必要なのかもしれない
見渡す限りの荒野が広がり、所有者があり勝手に処分できない
形骸となった自動車が、そこここに見える。


時に、小型漁船があったり、農機具の残骸が転がっている。
金属部分が真っ赤に錆び始めていて、7ヶ月の歳月を感じる。
あれだけあった瓦礫は、大分撤去が進んで、震災当時の、
あの生々しさと、あの鼻をつく匂いは、消えかけている。


日本で有数の穀倉地帯に、実りの秋は来なかった。
それでも、かけらほどにせよ、新しい発見があった。


海水と海砂と瓦礫に、滅茶苦茶にされた荒野の中に、異種の光景があった。
瓦礫に囲まれた小さな畑、青々と育ったダイコンなどの秋冬野菜。
そこだけが以前と同じ田んぼの、刈入れ直後の稲の株の列。
畦や水路を作り直そうとしている人たちの、軽トラックの群れ。


ささやかでも、部分的でも、ひとびとは動き出している。
1ヵ月前に比べたら、人の姿が見え、人の動きが感じられる。


そしてもうひとつの大きな発見は、
地盤沈下して、海水が溜まったままの水田群の広大な拡がりが、
バードサンクチュアリになっていたことだった。
人の姿が近くにないこととも重なって、水鳥たちの天国になっている。

生き物の存在を、身近に感じられるというのは、
ひとの気持ちをここまで高め、安らぎを与えるものかと、あらためて思い知った。
同時に、「そうか、ここはもともとそういう湿原だったんだ。
今ここに葦が生えはじめているように、もとはそういう場所だった。
川が氾濫すれば、遊水地となり、津波や高潮がくれば、
被害を最低限に食い止める、自然の防潮原だった。」とも思い至った。


これは、千年に一度の大災害に対する
私たちの対処のしかたを示唆する、重要な発見かもしれない。

川が氾濫して、しばしば水路が変わってきたように、
海もまた、津波や高潮で海岸線や氾濫原や遊水原を変化させて来たのではないか。
そして人々も、その変化に適応し、順応しながら、
次の千年の暮らしを築いたのではなかったか、と感じた。

近代の工業世界が築き上げてきた、コンクリートと鉄で、
自然を固定しようという考え方そのものが、今、厳しく問われているのではないだろうか。
田んぼの真ん中に、巨大なコンクリートの防潮堤の塊りが転がる
荒涼とした風景の中の、鳥たちの平和な生命の営みは、
不思議ではあるが、とても自然なものに感じられた。


津波に家財道具の全てを流されて廃屋となり、吹き込む風に、
引きちぎられたカーテンがはためき揺れるのを見るのは、何回見ても辛い。
そのすぐ近くの家では、波に突き破られた壁を補修し、
屋直しして、新しいアルミサッシュを入れている風景もある。


また今回目立ったのは、壊滅した被災地の元の場所に、
新築された住宅だった。
行政が、住宅再建予定地の計画を示しきれないまま、
以前建っていた場所に自宅を新築したのが目立った。
どれもこれも3ヶ月で完成するプレファブ住宅ばかりで、
心が痛むが、家も何もかも失い、避難所や仮設住宅で、
厳しい東北の冬を迎えることを思えば、
プレファブ住宅であろうとなんであろうと、我が家が嬉しいに決まっている。


阪神淡路大震災の後、神戸や芦屋の高級住宅街に
プレファブ住宅が林立していった光景を、
いま再びここで見ることになるであろうことは、容易に想像できる。



これから百年後、二百年後、三百年後の日本の家並み、
町並みが、人の暮らしの風景が、どうあればいいか、
どうありたいか、ライフスタイル、資源、環境、廃棄物、
健康などなどの視点から、きちんと議論されるべき時が来ている。
建築にたずさわる専門家は多い。事業者も多い。
そこに生き、暮らすことになる市民を交えて、
関係する広範囲な専門家たちや、関心を寄せる全ての人たちの手で、
議論を尽くし、実験し、持続可能な新しい方向性を見出すのは、今だと思う。
とりわけ住宅建築にかかわる、研究者やデザイナー、
建築家の奮起を促したい気持ちが、身体から
溢れそうになるのを押さえきれない想いだった。


破壊されつくして、枡形の土台だけが続く、
かつての住宅地の中に、ぽつんと取り残された全壊か半壊の家がある。
隣の家は流失して跡形もないのに、半壊の家が何軒か立ち並んでいたりする。
この違い、この差が、どこから生じたのか、
どんな原因や理由があって、そうなったのか。
誰も感じるその不思議を解明することは、
これもまた、千年に一度の大災害への、私たちの対処と対応を考える上で、
大きな示唆となるはずだと思っている。

同じ大災害による「壊滅」と言っても、
家も何もかもが失われてしまうのと、家屋の基本部分が残存しているのとでは、
復旧の容易さが違う。
地域の形から作り直すのは、地域に培われてきた
歴史や伝統をも、作り直すことを意味する。
津波は、家屋といっしょに、地域の文化を流し去ってしまう。
全てを失うのではない家づくり、街並みづくり、
町づくりを模索するときではないかと思う。
高台に、全ての住宅を移転させることなど、考えることはあっても、
実現することは困難だとわかっている。
それが町の復興、再建、再生とは違うものになることも、わかっている。
全く違う、新しいニュータウン建設になることが、わかっている。
できることなら、これまでの町を再生、復興させたいと、
みんな願っていることも、わかっている。


何回も通いつめて、千年に一度の大震災に対する、
私たちの対処や対応が、もっと自然への畏敬と敬意に立脚して、
圧倒的な自然の力に、膨大なコンクリートと鉄で対抗するのではなく、
自然を受け入れ、自然に従い、自然の命ずるように、
柔らかい受け止めかたに転換することが、実は、
できた試しもない「災害を完全に防ぐ」ことではなく、
「災害を最小限にとどめる」ための、
最善の処方箋ではないかと考えるようになった。

同じ津波を真っ向から受けて、辛うじて残った
家屋の仔細な調査と分析から、その原因と理由を探り出すことは、
今ならできる「被害の最小限をめざす、新しい対処と対応」への
基礎研究の根幹であり、出発点ともなると考えている。

今私たちが、全力を尽くすべきポイントが、はっきりしてきたように思う。
私たちが向かうべき方向と道が、見えて来はじめている。

膨大な作業が待っている。
中心になる人たち、いっしょに協働する多くの人びと、
組織、資金、どれもこれも重くのしかかる難問ばかり。
はたしてできるだろうかと思案するより、
今日の一歩を踏み出すことが、いちばん大切ではないかと、
勇気を奮い起こす人たち、「この指とまれ」。


夢千年の暮らしWebマガジン「山の力」
http://yamanochikara.com/
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原発の要らない暮らし はじめよう !!!

2011年09月24日 | ★代表理事 黒田より 
written 2011年09月01日
みんなで考えてみよう、明日の私たちの暮らし。
BIO de BIO 代表 黒田武儀



原発の要らない暮らし はじめよう !!!
大震災に負けない暮らし はじめよう !!!



山でたきぎを拾い集め、かまどで炊いた、熱々ごはんを食べながら、
みんなで考えてみよう、明日の私たちの暮らし !!!

今後30年以内に、必ずやってくると言われ続けた東海地震。
過去の例によれば、東海地震と、東南海地震、それに南海地震も連動して、
いっしよにか、相次いでか起きるとも言われている大震災。
日本列島の中央部であり、人口の密集度も高く、基幹産業が集中し、
主要交通網も列島を東西に結び、浜岡原発を筆頭に、
西にも北にも東にも、原子力発電所が立地する関東、
東海、北陸、近畿、中四国、九州に、広範囲の大災害をもたらすと
予測されている地域の、真っ只中で暮らす私たち。

私たちは、逃げ出せばいいのでしょうか。
逃げ出したくても逃げ出せないひとびとは、どうすればいいのでしょうか。
私たちの備えは、じゅうぶんでしょうか。

あまりに大きな出来事だとわかっているだけに、
とても自分たちだけで対処できるわけもないと、
ほとんどあきらめ気分で、投げやりになって、
思考停止しているひとが多いのではないでしょうか。

私たちも、一個の生きものです。
周りの野生動物たちを見てください。
誰の助けも借りることなく生きて、繁殖して、
次の世代に生命を継承しています。
生きものには、それぞれ自分の生命を、自分で護り、
維持する力が備わっています。
私たちヒトだけが、いつの間にか金銭で、他人の力を借り、
誰かがつくったもので生き延び、代わりに、
自分の生存能力を売り渡していたのではないでしょうか。
貨幣というものが、あんな一枚の紙っきれが、
そんな大きな力を持っているなんて、信じられませんね。

大震災に備えるのに、いろいろと買い揃えたり、
避難に備えたりと、たいへんですが、今もっと必要なことは、
自分自身の内部にあったはずの「生存力」を取り戻すことです。
どんなことがあっても、生き抜く力です。

焦らずに、少しずつ取り戻しましょう。
そうする意思さえあれば、誰にでも、きっとできます。

9月から、少しずつ始めます。
ひとつひとつ、自分にできることを増やしていきましょう。

食べもの、水、エネルギーを確保すること、
雨露寒さを防ぐこと、これがほんとうの意味の「自給自足」です。
私たち山の力は、仲間の力も借りて、助け合う「他給自足」も含めて、
大きな「自給自足」のネットワークをつくりたいと考えています。

目的は、どんなことがあっても生き抜く力を養うことです。
目標は、当面予測される大震災の前までに、
生存力を具現する技術や技能を身につけることです。
昔から経験によって培われてきた智恵の集積である、
技術や技能を支える、すこしばかりの知識も必要かもしれませんね。



さぁ、始めましょう。
来年からは、もう少し本格的に、「食べるものを自給する」する予定です。
それまでにやっておかなくてはいけないことが、いろいろあります。

冬の寒さにも備えなくてはいけませんね。
薪づくりや、炭焼きの準備もありますね。

自分の力で生き抜くということは、忙しいということです。


text by Yamanochikara

夢千年の暮らしWebマガジン「山の力」
http://yamanochikara.com/




被災地は今・・・

2011年07月19日 | ★代表理事 黒田より 
先週4日間、
BIO de BIO 代表の黒田が、自分の脚で被災地を歩いて見てきた
被災地の現状をレポートします。

********************************************************


黒田です。

3月11日以来、日本は、国の存立の根底から、問題が噴出してしまいました。
思うだに怪しげな、なにやら意図的な「節電キャンペーン」の中、
ますます暑い夏になりそうです。

東日本大震災の被災地では、4ヶ月を経て、未だに何も起きていません。
ひとびとは、深い失望と絶望のあまりに、怒りさえも忘れたように見えるほどです。
瓦礫の片付けも、進んでいる地域もあれば、変化がないように見える地域も、
そこら中にあります。
とくに、報道されることもない、ちいさな集落などは、
ほとんど震災直後に近い状態です。
都市の中でさえ、今でも、電気も水もない地域があります。
高台で、難を逃れた家々のひとびとも、コミュニティは壊滅していて、
町の機能は失われ、仕事もなく、日常の生活を支えるすべもなく、
救援物資などの災害支援の対象からも外されています。
これは、仮設住宅に入居しているひとたちも、避難所を出た瞬間から、
同じ立場に置かれています。
行政は、そして給料を毎月支給されている行政マンたちは、一日も早い
「自立」に向かってもらうために、支援を打ち切るきまりになっている
と言い放ちました。

一時期は、全国からやって来た自衛隊、警察、消防、ボランタリースタッフの姿が、
瓦礫の町に溢れていました。
今は、その姿も少なく、ただ瓦礫と廃墟の町や村が広がっています。

「日本は、滅亡しかけている」と、私は強く感じました。

原発の大事故周辺地域は、もっとたいへんです。
強制的に避難することを命じられたひとびとは、明日の展望が全く持てないまま、
転々と避難所を移り住む日々が続いています。
避難地域の中に入れないため、報道されることもない荒廃が、
広い地域にひろがっています。

放射能被害は、既に、もっと深刻です。
地域差も、個人差も大きいことは、ヒロシマの被爆者の私がよく知っています。
これからも拡大して、長く続きます。
原発は、世界中で、全てやめなければなりません。
どこの地域の誰が、同じような悲劇を経験しても許されない、
100%人為の災害だからです。
私たちが、電気を必要とする生活をしている限り、原発はなくなりません。
キャンペーンを張ることより、「原発の要らない暮らしの、実現と実践」こそが、
とくに都市住民の、そのような「実行」こそが、原発を廃止させる原動力です。
原発を支えているのは、経済と産業の構造そのものなのですから、
講演会やチラシでは、経済、産業構造への打撃にはなりません。

実践の広がりは、まず実践ありきです。
飛び歩いていてはダメなのが、反原発運動です。

ドイツがなぜ、原発全廃に到達できたかを、じっくり見極めることが必要です。

暑い夏の気晴らしに、クーラーの要らない作手は、最適です。
LEON BIKE Test V.4.0 も、試乗可能です。
都市の明日を変えるかもしれない、Forcal44も展示してあります。

夏休みは、被災地に立って、今自分がどんな位置にいる存在であり、
未来に向かって何をなすべきかを、じっと想うのも必要だし、
原発の要らない暮らしを、自分の暮らしの中で、どう実現するかを考えるもよし、
(だからと言って、熱中症はバカげているし)
疲れて、寝苦しければ、クーラー要らず、夜明けは寒いくらいの作手に来るもよし、
です。

この機会に、なぜ私たち一家が、何もかもを捨てて、作手に移り住んだかを、
自分自身の日常の上に重ねてごらんになるのも、何かの足しになるかもしれませんね。

今日のこの日は、必ず来ることが、誰にでも予測できました。



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世界に原発がある限り、明日は我が身

2011年05月06日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。

原発の問題は、放射能汚染の危険性や、その汚染が長期間に
わたって続くことの恐ろしさだけでなく、原発の立地そのものに
起因する、民の心を蝕み、曇らせ、腐敗させ、緩慢に殺してしま
う空恐ろしさに、満ち満ちていることです。

静岡の浜岡原発周辺の小さな町御前崎、柏崎原発、福島原発、
美浜原発、敦賀原発、伊方原発、、、どこでもそうですが、町の
たたずまいには似つかわしくない豪壮な公共建築群が、見る者
を圧倒します。
そして町のひとびとは、ほくそえむように、静かに笑うのです。
まるで幸せを、独り占めにしているように、豪邸の門前に佇むの
です。

死と、いつも背中合わせになった静かな平和の様相に、ぞっとし
ながら車を走らせていると、これこそが原発の、ほんとうの恐ろし
さだと、心が締めつけられるような息苦しさを感じます。
早く通り抜けてしまいたい衝動に駆られるのです。

福島原発は、思いがけない大震災で、はからずも仮面を剥ぎ取
られたのです。
平和と繁栄は、一瞬で吹き飛びました。
起きてほしくないことが、起きてしまいました。
原発の本質は、ひとびとの心の底の底まで蝕み、腐らせ、自分
自身で立ち上がる気力も底力も喪失させることです。

私たちは、自分たちの町や村に原発が立地するのではないこと
で、他人事にしてしまってきた「つけ」を支払わなければならない
時が、突然来たことを自覚しなければなりません。
実は原発は、立地している町や村のひとびとだけを蝕むのでは
なく、遠く離れた私たちをも蝕み続けてきたことを思い知らされる
ことになりました。
私たち自身の心の死と、向かい合う時が来ました。

安穏と平静を装うことはできない日が来ました。

ひとと生まれて、自分が真に「ひと」の名に恥じないように生きる
時が来ました。
余暇の支援者ではいられない日々を、今私たちは生きています。

今すぐ、全ての原発に、"NO !!!"を言いましょう。
その発言が実効力を持つように、原発の要らないライフスタイル
を確立しましょう。
情報を隠し通している政府や東京電力、そして中部電力をはじめ
とする電力各社に、"NO !!!"と言いましょう。
全ての真実を明らかにして、あらゆる責任を全とうするように要求
しましょう。
被害がこれ以上拡大しないよう最善を尽くすことを、日本中のひと
びとの責務だとして、確認し合いましょう。
そのために被災者と、苦労を分かち合う覚悟をしましょう。

世界に原発がある限り、明日は我が身です。

真実は、隠されているところにある。

2011年03月23日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。

私たち日本人は、ヒロシマ、ナガサキから、何を学んだので
しょうか。
ノーモアヒロシマ、ノーモアナガサキと叫んできたのは、何を
求めていたのでしょう。

美浜原発の細管破裂破断事故など、隠そうとしても隠し切
れない大事故が、これまでも何回も起きているのに、私たち
は何もしないできました。

ますます、電気がなくては困る暮らしに埋没しながら、見たく
ないことからは眼をそらし、聴きたくないことには、耳をふさい
できました。

ヒロシマの爆心地で、何十回も死ねるほどの放射線を、3日
間浴び続けて、生きていることが奇跡と言われる私は、
原水爆もNO !! なら、原発もNO !!
と言い続けてきましたが、誰も耳を貸しません。

以下に、原発工事現場で、20年現場監督として働いた、原発
メーカー日立製作所の(故)平井憲夫さんの「原発がどんなも
のか知ってほしい」(全文)を、ファイルしました。

http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html 
(原発がどんなものか知ってほしい)

少し長いのですが、読んでみてください。

そして今の、福島原発で報道されていることと、比較してみて
ください。

2010年元旦は、吉兆の雪で明けました。

2010年01月01日 | ★代表理事 黒田より 
2010年元旦は、吉兆の雪で明けました。

明けましておめでとうございます。

元旦から雪が静かに降り積もるのは、雪の白い色がめでたいだけでなく、

いちばん欲しい春から夏の水が、じゅうぶん確保できる希望につながりました。

米の白、小麦粉の白、塩の白、砂糖の白、カタクリや葛の白、昔から純白は、

穢れなく尊く気高い存在でした。

大晦日の夜から静かに降り摘む雪は、その昔、出雲の地に左遷された大伴家持が、

「新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事」と詠んだように、

豊作や安泰の吉兆でした。

みなさんいかがお過ごしですか。

昨年暮れのBIO de BIO 吉例迎春餅つき大会は、とうとう60人を超える

大盛況のうちに、賑やかに過ごしました。



今朝のお雑煮を、BIO de BIO ノンケミカル杵つき餅で祝った家庭が

多かったことでしょう。

2010年12月26日日曜日を、今からカレンダーに書いておいてください。

2010吉例迎春餅つき大会の日です。

民主党圧勝に沸いた夏から半年経ちました。

ひとびとの一票が、政治を動かす力を持っていることはわかりました。

しかしまだ、決定的に「変える力」を持っているかどうかは、

今のところ検証できていません。

民主党政権が、日本をどうしたいのかが、誰にも見えていないからです。

思いつきで国づくりはできません。

21世紀の日本の国の土台が何であり、ずたずたになってしまった国土や自然、

国民の暮らしの根幹をどう再生するかが、何も見えないうちは、

何も起きていないのと同じです。

BIO de BIO の主張が、少しずつ理解され始めている、と言うより

「無視はできない」と思われ始めているのは、NHK 特別番組

「生物多様性のある田んぼづくり」の取材
が始まったことでも、

国土交通省が河川利用計画立案のための意見聴取と意見交換したい

と言ってきていることにも、表われているかと思います。



まっすぐにブレないことが必要な時代です。

これからの時代は、

"Toughness" "Wildness" and more "Tenderness" の時代です。

何はともあれ、体を鍛え上げることから始めましょう。

「若者よ、身体を鍛えておけ。
 美しい心が、たくましい身体に辛くも、支えられるときがいつかは来る。
 その日のために、体を鍛えておけ、若者よ。」

この歌のような時代がやって来ました。

美しい心は、たくましい身体に支えられますが、たくましい身体をつくる力は、

身体の内奥に貯えられた文化から得られます。

文化が国の力です。

2010年、いい一年にしましょう。

NPO法人 BIO de BIO 代表 黒田 武儀


愛知県新城市作手黒瀬字下山37-30
TEL 0536-37-5111
Fax 0536-37-5115




「新香」と「古香」について。

2009年03月21日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。


日本人の言葉の豊かさを支えてきた、季節感や色彩感の繊細な豊かさが

衰えていると、多くの人が感じています。


日本には、色の名前を言う言葉が無数にあると言っても過言ではありま

せん。色名だけでも辞典ができているほどです。

季節を示す言葉の豊富さも、世界に類がありません。俳句の季語だけの

辞典が、これまた存在するくらいです。

言葉がこれほど衰えた、今日の日本でも、「紅葉」「黄葉」などの言葉

は、誰でも使う日常語ですが、英語にもフランス語にも、それに相当す

る言葉はありません。Falling leaves かAutamn leaves か、

Dead leavesです。 

民俗学者の神埼宜武さんが、それに触れて、とても面白い発言をされ

ていましたので、みなさんにご紹介します。

神崎さんは、「言葉の豊かさ」は、「感性の豊かさ」を示すものだと

言います。

そして、最近の日本人が、著しく季節感を失っていることは、日常の

食事のときの用語の混乱にも表れていると言っています。

たとえば漬物のことを言うのに、古い日本語には、ふたつの言葉があ

って、「新香(しんこう)」と「古香(こうこ)」を使い分けていました。

「新香」とは、浅漬けのことで、野菜の新鮮な味を残した漬物を指し

て言う言葉です。お客様をもてなすために、時折漬けた、「ハレ(特別

な日)」の日のための漬物を示す言葉でした。

「古香」は、たくあんに代表される保存用の漬物です。年間を通して、

少しずつ出して食べる「ケ(日常)」の日の副菜でした。

今では、言葉の混同が起きていて、たくあんのことも、「お新香」と

呼ぶ人も一般的で多くなりました。

逆に「古香」という言葉は、地方によっては残っていても、多くの

地方ではもうほとんど使われない言葉になりました。

それも漬物のことを言う、ていねいな言葉として「お古香」と言う

ことが多いようです。

また「お古香」という言葉が残っている地方でも、「お新香」と

使い分けることは、既になくなっています。

「お古香」も「お新香」も同じに、漬物を指して言う言葉として

使っています。

また、ハレの日の主食は「ご飯」と言って、「ご」という丁寧語

をつけて呼びます。

いっぽう、ケの日の主食は「飯(糅飯」(かてめし)」という、少

量の米に雑穀や根菜などを炊きこんだものでした。「ご」はつけ

ません。

また、汁についても、ハレの汁が「お吸いもの」や「おすまし」

で、ケの汁は「実汁食(みつけ)」という、具だくさんの味噌汁で、

これを「おみつけ」「おみおつけ」と呼ぶのは、比較的近年のこ

とです。

このように「御=お、み、ご」を言葉の頭につけて呼ぶのは、ハレ

の料理に限られていて、ひと昔前までの日本人は、言葉を繊細

に使い分けていました。

近代の始まりとともに、生活様式も大きく変化し、季節感も変わ

りました。

既に消えてしまった言葉も多く、残っていても、使われ方が変わ

った言葉があり、また、本来の意味とは違う意味で理解されてい

る言葉も多くなりました。

私たちは、季節感や色彩感を多様多彩に感じるDNA を持つ民族です。

それを見事に言い表す言語能力を備え持つ民族でもあります。

世界をリードしうるだけの美意識を持つ民族であることを、肝に

銘じて生きることを心がけましょう。


text by Leon Cloder

「設楽ダムは要らない」

2009年02月10日 | ★代表理事 黒田より 
NPO BIO de BIO は、全市民の自立した取り組みによる、「ダムは要らない」水の解決を提案します。

ダム建設の10分の1の予算があればいい。
市民の日常の営為が、ライフスタイルが、水問題を解決する。

解決策の最初は、「山林」の持つ重要な機能である「保水力」を回復することです。同時にそれは、その機能の延長線上にある「大量に溜め込んで、ゆっくりと一定量の水を吐き出す機能と力」を回復することになります。
水量の確保だけでなく、集中的な豪雨のときの鉄砲水の防止もここに入ります。

二つ目は、「田んぼ」や「ため池」、「自然護岸の蛇行する河川や水路」の持っている「貯水力」と「地下浸透力」の回復再生です。
貯え、流速を緩やかにし、地表面上により多く長く貯えるだけでなく、田んぼやため池ばかりでなく、地表面を流れる水をも地下に誘導して、地下水として貯留する考え方です。
これらの田んぼやため池、河川や水路の周囲や縁に、小さな森や林(河畔林や水辺の森や林)があれば、もっとその効果を増すことができるでしょう。

三つ目は、雨水利用による中水活用です。年間2000mmもの雨水が屋根に降り注ぐ
のを最大限に活用して、トイレや庭や菜園の水やり、洗車などに利用しようというものです。
この問題提起はさらに「都市での節水」「水を汚さない」「必要以上に汚れていない水の再利用」というところに行き着くはずです。

この提案は、きわめて大きな意味のある提案です。
この二つ目と三つ目の提案は、設楽町のような過疎の中山間地にだけ「水問題」を押しつけるのではなく、中下流域でも、都市でも、水問題に一定の解決策を講じられる可能性があり、またそうすべきだという、とても重要な問題の提起になるはずです。
設楽ダム問題を解決するためにも、都市の生産性を回復して自律的で自立した都市づくりを進めるためにも、都市の中に縦横に自然護岸の水路や河川が走り、田んぼや畑があり、鎮守の森や河畔林やまとまった山林があることが、必要不可欠です。

私たちが今、子々孫々のために残せるかけがえのない宝物を、「かけがえのない ふるさと遺産」と呼んで大切にしましょう。

「悠久の千年を想起させる豊かな森」「その森からしみ出る、湧き出る豊かな清水」「山の間を縫うように流れる清流」「森や水が育む、無数の生きものたちの生命の営み」「鳥の鳴き声や飛び交う虫たちの姿」「豊かに実る田や畑」「点在する農家の静かなたたずまい」「ひとびとが土に生きる姿」「はじけるようなこどもたちの笑い声」「語り継がれ、伝えられてきた季節行事や祭り」・・・・これらの全てをひっくるめて、私たちは、「かけがえのないふるさと遺産」と呼びたいのです。

私たちは既に多くのものを失いましたが、少なくともまだ奥三河には、豊川水系、天竜川水系の上流には、私たちが「かけがえのない地域遺産」と呼ぶのにふさわしい、歴史と伝統に支えられた自然と人と生きものたちの世界が、今も息づいています。

豊川流域を世界遺産にという運動が始まりましたが、BIO de BIO は、風景や手つかずの自然だけでなく、もっと身近で、毎日の暮らしの営みとそのスタイルをも含む、自然と人と生きものたちが織りなしてきた生きて動いている情景そのものを、「かけがえのないふるさと遺産」と呼んで、「そっくりそのまま保全する」という提案をしたいのです。
保全には、何がしかの制約と、そのための努力がつきものですから、それに対して一定の対価を地元に支払うことが条件になると思います。

「設楽ダムは要らない」の意思を、私たちの具体的な行動で伝えましょう。

「設楽ダムは要らない」という私たちの意思表示として、地元負担金に相当する金額を、自分が直接納める市民税や県民税、国税の中から差し引いて納めるという提案を、私たちNPO BIO de BIO からします。
たとえ少数の人たちの意思表示の行動でも、社会的にインパクトのある方法が、今は必要だと思います。
ただし私たちは、ただ不払い運動を展開しようと呼びかけているのではありません。
不払い宣言をした人は、「設楽ダムが要らない」ならどうするか、に応えなくてはなりません。不払い宣言と同時に「節水を具体的に誓ったり」「雨水利用を実行したり」、自分にできる「ダムは要らない対策」を宣言して実行することが、不可欠の条件です。

それと最後になりましたが、私たちは設楽町議会と町長が、ダム建設を受け入れたことによって、設楽ダム問題はもはや設楽町民だけの問題ではなく、私たちの問題になった、全愛知県民の問題であり、全国民の問題でもある、と考えています。
自由に考え、自由に発言し、自由に行動することができるようになったという意味で、「設楽ダムは要らない」運動は、今始まりました。
これからです。

NPO法人 BIO de BIO 代表理事 黒田 武儀 

「世界が平和でなければ、
社会が安定していなければ、ひとは健康に生きられない」
「食糧、水、エネルギーの完全自給をめざす」
  
愛知県新城市作手黒瀬字下山37-30
☎ 0536-37-5000 
fax 0536-37-5115
 
mail★biodebio.or.jp
★を@に変えて送信してください。

黒田です。明けましておめでとうございます。

2009年01月04日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。

波乱万丈の2009年が明けました。
みなさん、正月はいかがでしたか。
きれいに晴れ渡って、明るい初日の出でした。

正月早々イスラエル軍は、ほとんど丸裸同然のガザ地区に、戦車と重装備の
装甲車を先頭に、地上攻撃をしかけました。
ガザ地区には、外から入ることもできず、出ることもできない状態で、食糧も、
医薬品も、極端に不足しています。
電気は切られたままです。暖房もありません。
砲撃とロケット弾で、建物は破壊されつくしています。
今すぐ、このような虐殺と破壊をやめるべきだと、私は大声で叫びたいのです。
戦火に逃げ惑うのも、徹底的に殲滅されるのも、みんな小さな国の人たちです。
こんなことが21世紀に許されていいはずがありません。

これが2009年です。
世界は、破滅に向かって転がり落ちているように見えます。
BIO de BIO は、不動心であり続けたいと思います。
自分たちが負っている重責を果たしましょう。

そんな中で、ECOLE de BIO が開講します。
リポーターは、小川さんです。
私たちの自立のために、どうすれば「食糧、水、エネルギーの完全自給を達成
できるか」を、いっしょに考えます。


※参考
パレスチナでは、連日、アメリカ製最新鋭F-16戦闘爆撃機の
ロケット砲攻撃によって、すさまじい殺戮と破壊が続いています。
現地ガザからのレポートを転送します。

2008年から2009年へ、何が起きても不思議ではない時代の始まり。

2009年01月01日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。
いろいろとお世話になりながら、ご無沙汰してしまった方には、
お詫びかたがた、2008年暮れと2009年の夜明けの
ご挨拶を申し上げます。

世界市場経済体制が、既に終わっているという認識は、
もう何年も前から多くの人々の胸のうちにありました。
しかし私たちの不幸と不運は、それに変わる新しい世界像を
描ききれないままに、手を拱き続けるしかなかったことでしょう。
遅ればせながらNPO BIO de BIO は、「世界が平和でなければ、
社会が健全でなければ、ひとは健康に生きられない」と呼びかけて、
「食糧・エネルギー・水の完全自給をめざそう !!」と、
実現に至る具体的なプログラムを描こうとし始めています。

「社会は、世界は、時代は変わらなければならない」とも主張していますが、あまりの非力のために、何もなし得ないままに、今日の事態を招いてしまいました。

こうなるとわかりきっていた絶望的な金融政策の破綻は、何かを糊塗する余裕もなく、あまりにあっさりと底を見せてしまいました。「つくられた景気」に踊る以外に道が見えないほど、世界が壊れてしまっているのに、私たちは盲目的に、流れに身を任せてしまいました。

新しい大統領の下でアメリカは、なりふり構わず自己保身に走るでしょう。既に用意されている新しい青色の紙幣の発行は、これまでの緑色の紙幣を無意味な紙切れにするための序曲だと、私は考えています。アメリカ経済の健全化とは、膨大な対外債務と貿易赤字を解消することにあると、誰もが思うことを、オバマ大統領は、誰がなんと思おうが、大胆に実行する以外に有効な政策を持っていないことは、はっきりしています。これまでアメリカに頼り、信頼を寄せてきた国々は、間もなく、長い氷河時代が訪れる覚悟をしなければならないでしょう。

今、パレスチナのガザ地区で起きている言うべき言葉もない大量虐殺と破壊、ジンバブエの現実となった、国が社会が、手のつけようもなく、ここまで無残に壊れてしまう惨禍、この瞬間の遠い現実は、やがて世界を覆いつくす可能性があることを、私たちは知らなければなりません。

朝の来ない夜はありませんし、春の来ない冬もありません。
しかし今はまだ、夜でさえなく日暮れの始まりです。これから暗い夜です。
冬はまだ来ていません。まだ秋の初めです。

今こそ、「かけがえのない自然に敬意を払い、自然と共に、自給的に、自立をめざして、自律的に、手を結び合って協働する」暮らしに向かうときです。
大いなる危機は、かけがえのないチャンスでもあります。
今こそ、都市と山村が手を結ぶときです。
村では、自給的と言えば、自分で田んぼや畑をやることですし、山で薪を取ったり、炭を焼いたりすることです。
一方、都市ではそれは、季節や時期や旬とは関係なく、自分がどこの誰であるかとも関係なく、自分の暮らしが誰に負っているかなど考えたこともない暮らしへの、訣別を意味しています。
「地産地消」「旬産旬消」「真冬に室温10℃の暮らし」「無駄に捨てない暮らし」「節約倹約の暮らし」「他者へのまなざしと心づかいの暮らし」への転換です。

このような暮らしは、私たち日本人にとっては、そんなになじみのないものではありません。ついこの間40年位前までは、みんなそうして暮らしてきました。
みんな貧乏でしたが、ご近所とのつき合いもあって、しみじみ、ほのぼの感がありました。この40年間は、脱貧乏のための40年でしたが、富だけを追いかけた結末が今です。 もういちど昔の貧乏に戻るというのではなく、有り余ることを善しとする暮らしから、必要にして最低限十分な、心豊かな暮らしへの転換です。

2009年新年に当たり、長く寒い冬に備えて、さわやかに「大転換」を決意したいものです。私たちに与えられた自然は、私たちが考えているよりずっと、豊かで智恵に満ちていて、私たちを生かしてくれるのにじゅうぶんな恵みを、用意してくれているような気がします。

私たちが、譲り合い、補い合い、助け合い、さえすれば、道は必ず見つかります。
人類はこれまでそうして生き抜き、生態系の頂点に立ち続けてきました。
今こそ私たちも、生物多様性の世界の中に、きちんと身を置くときが来たのだと、
心を新たにしましょう。

I wish all of you, you, youuuuuu a HAPPY new year !!!

現地ガザからのレポート

2008年12月31日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。
お祭り騒ぎが大好きなニューヨークでも、さすがに今年は、
あの馬鹿げたクリスマス商戦も鳴りをひそめ、日本でも
「あれっクリスマスだった??」というありさまの、
世界の年の暮れですが、パレスチナでは、連日、アメリカ製最新鋭
F-16戦闘爆撃機のロケット砲攻撃によって、すさまじい殺戮と破壊が
続いています。

現地ガザからのレポートを転送します。

なお、豊田市在住の日本人報道写真家が、この事態を黙ってみているのは
罪悪だと、1月1日元旦現地に向けて出発します。
「生きて帰ってこられるかどうかは、全て運だ」と言い残しました。
今は、ガザ地区に入ることさえもが、大きな危険とリスクを伴なう事態です。



> ガザや西岸、パレスチナのの窮状が、哀愁をたたえたウードの音色とともに
> YouTubuで観ることができます。転送して広めていただけますか。
>
> http://uk.youtube.com/watch?v=DSzn7XLLM7c&eurl=&feature=player_embedded
> これは、Sonjakarkarの作品です。
> http://uk.youtube.com/user/sonjakarkar
> 画面でも訴えているイスラエル商品のボイコット(スターバックス、マクドナル
> ド、コカコーラ、ネッスル、インテル、マイクロソフトなど)は、こちら。
> http://www.inminds.co.uk/boycott-mcdonalds.html
>

> ==8==送信日時:2008/12/29 13:25
> ガザのアブデルワーヘド教授のメール、転送します。
>
> ***********転送・転載歓迎***************
>
> 今のところ無事だが・・
>
> 私も家族も無事だが、緊張が続き疲労している。自家用発電機のトラブルのせい
> で、依然、電気なしの状態。2時間前、隣接するビルがヘリから小規模なロケッ
> ト砲で攻撃された。標的は7階のアパート。私のアパートは4階だ。それから、
> 通りの向かいにあるビルの5階のアパートも攻撃された。耐え難い状況だ。住民
> は正真正銘のパニックに襲われている!昨晩、F16型戦闘機がアル=アクサー
> 衛星放送局を攻撃した。同局は粉々になり、周囲のビルも多くが居住不可能に
> なってしまった!ビルの持ち主も住人たちもよそへ移らなければならない!シ
> ファー病院の向かいにある小さなモスクも粉々になり、その攻撃のせいで周りの
> 住宅も深刻な被害を受けた。私の友人の家もその一つだ。何が起きたのか、言葉
> では言い表せないと?! ?[この文字化けは「彼」と思われる(寺尾記)]は
> 言う。彼の家は重篤な被害に見舞われた。56歳になる姉は重傷を負った!さらに
> 英国の委任統治時代に英軍が建設した庁舎(アル=サライヤ)もやられた。標的
> になったのは刑務所だった。収容されているのは政治犯や一般の囚人だというの
> に!メディアは死者280名と報道しているが、シファー病院で医師をしている
> 友人の一人は、死者は約500名に達し、負傷者も1000人以上にのぼるとい
> う!ラファの国境地帯でも攻撃はエスカレートしている。
> トンネルを破壊するための作戦が展開されているのだ。何百人ものパレスチナ人
> が怒涛のようにエジプト国境に徒歩で押しよせているが、エジプト人官憲の発砲
> に遭って、誰もエジプト側に入れないでいる。
>
> ==9==件名:ガザより(8)
>      送信日時:2008/12/29 13:26
>
>
> ***** 転送・転載歓迎 *******
>
> 数分前、複数の地点を狙ってまた空襲があった。死傷者多数。
> うちの窓ガラスも砕け散った。税関事務所と入国管理事務所も
> 先刻、破壊された。飛行機やヘリがまだ上空で作戦を継続中。
>
> ==10==件名:ガザより(9) 破壊
>      送信日時:2008/12/28 11:48
>
>
>
> ***** 転送・転載歓迎 *****
>
> 破壊
>
> F16型戦闘機がガザ最大の、公安関係のビルを破壊した。アラファトの身辺警
> 護のためにEUが建設した一群のビルだ。
> 4発のミサイルを受けてビルは粉々になった。各地の警察署も攻撃され、今日、
> すべて破壊された。230もの地点がイスラエル軍用機の標的になっているとい
> う話だ。今日の攻撃で、子どもを含む大勢の民間人が死傷した。ラファの国境地
> 帯ではパレスチナ人が一人射殺された。さらに発砲があり、エジプト人官憲が一
> 人撃ち殺された。国境の状況も悲惨だ。
> イスラエルによる地上攻撃もありうる!