NPO法人BIO de BIO (ビオ・デ・ビオ)  ~生物多様性のある循環の暮らしをめざして~

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東日本大震災7ヵ月、現場からの報告

2011年10月17日 | ★代表理事 黒田より 
黒田です。
東日本大震災7ヵ月の、現場からの報告、をお届けします。
大震災から7ヵ月を経て、厳しい冬を間近にして、いろいろな動きが出てきています。
また、見えてきたこともあります。
ごいっしょに、このような大災害に、どう対応し、対処したらいいか、考えたいと思い
ます。
ご一読ください。



東日本大震災7ヵ月、現場からの報告


千年に一度の大災害には、
1000年後の暮らしを見据えた対処と対応が、必要なのかもしれない
見渡す限りの荒野が広がり、所有者があり勝手に処分できない
形骸となった自動車が、そこここに見える。


時に、小型漁船があったり、農機具の残骸が転がっている。
金属部分が真っ赤に錆び始めていて、7ヶ月の歳月を感じる。
あれだけあった瓦礫は、大分撤去が進んで、震災当時の、
あの生々しさと、あの鼻をつく匂いは、消えかけている。


日本で有数の穀倉地帯に、実りの秋は来なかった。
それでも、かけらほどにせよ、新しい発見があった。


海水と海砂と瓦礫に、滅茶苦茶にされた荒野の中に、異種の光景があった。
瓦礫に囲まれた小さな畑、青々と育ったダイコンなどの秋冬野菜。
そこだけが以前と同じ田んぼの、刈入れ直後の稲の株の列。
畦や水路を作り直そうとしている人たちの、軽トラックの群れ。


ささやかでも、部分的でも、ひとびとは動き出している。
1ヵ月前に比べたら、人の姿が見え、人の動きが感じられる。


そしてもうひとつの大きな発見は、
地盤沈下して、海水が溜まったままの水田群の広大な拡がりが、
バードサンクチュアリになっていたことだった。
人の姿が近くにないこととも重なって、水鳥たちの天国になっている。

生き物の存在を、身近に感じられるというのは、
ひとの気持ちをここまで高め、安らぎを与えるものかと、あらためて思い知った。
同時に、「そうか、ここはもともとそういう湿原だったんだ。
今ここに葦が生えはじめているように、もとはそういう場所だった。
川が氾濫すれば、遊水地となり、津波や高潮がくれば、
被害を最低限に食い止める、自然の防潮原だった。」とも思い至った。


これは、千年に一度の大災害に対する
私たちの対処のしかたを示唆する、重要な発見かもしれない。

川が氾濫して、しばしば水路が変わってきたように、
海もまた、津波や高潮で海岸線や氾濫原や遊水原を変化させて来たのではないか。
そして人々も、その変化に適応し、順応しながら、
次の千年の暮らしを築いたのではなかったか、と感じた。

近代の工業世界が築き上げてきた、コンクリートと鉄で、
自然を固定しようという考え方そのものが、今、厳しく問われているのではないだろうか。
田んぼの真ん中に、巨大なコンクリートの防潮堤の塊りが転がる
荒涼とした風景の中の、鳥たちの平和な生命の営みは、
不思議ではあるが、とても自然なものに感じられた。


津波に家財道具の全てを流されて廃屋となり、吹き込む風に、
引きちぎられたカーテンがはためき揺れるのを見るのは、何回見ても辛い。
そのすぐ近くの家では、波に突き破られた壁を補修し、
屋直しして、新しいアルミサッシュを入れている風景もある。


また今回目立ったのは、壊滅した被災地の元の場所に、
新築された住宅だった。
行政が、住宅再建予定地の計画を示しきれないまま、
以前建っていた場所に自宅を新築したのが目立った。
どれもこれも3ヶ月で完成するプレファブ住宅ばかりで、
心が痛むが、家も何もかも失い、避難所や仮設住宅で、
厳しい東北の冬を迎えることを思えば、
プレファブ住宅であろうとなんであろうと、我が家が嬉しいに決まっている。


阪神淡路大震災の後、神戸や芦屋の高級住宅街に
プレファブ住宅が林立していった光景を、
いま再びここで見ることになるであろうことは、容易に想像できる。



これから百年後、二百年後、三百年後の日本の家並み、
町並みが、人の暮らしの風景が、どうあればいいか、
どうありたいか、ライフスタイル、資源、環境、廃棄物、
健康などなどの視点から、きちんと議論されるべき時が来ている。
建築にたずさわる専門家は多い。事業者も多い。
そこに生き、暮らすことになる市民を交えて、
関係する広範囲な専門家たちや、関心を寄せる全ての人たちの手で、
議論を尽くし、実験し、持続可能な新しい方向性を見出すのは、今だと思う。
とりわけ住宅建築にかかわる、研究者やデザイナー、
建築家の奮起を促したい気持ちが、身体から
溢れそうになるのを押さえきれない想いだった。


破壊されつくして、枡形の土台だけが続く、
かつての住宅地の中に、ぽつんと取り残された全壊か半壊の家がある。
隣の家は流失して跡形もないのに、半壊の家が何軒か立ち並んでいたりする。
この違い、この差が、どこから生じたのか、
どんな原因や理由があって、そうなったのか。
誰も感じるその不思議を解明することは、
これもまた、千年に一度の大災害への、私たちの対処と対応を考える上で、
大きな示唆となるはずだと思っている。

同じ大災害による「壊滅」と言っても、
家も何もかもが失われてしまうのと、家屋の基本部分が残存しているのとでは、
復旧の容易さが違う。
地域の形から作り直すのは、地域に培われてきた
歴史や伝統をも、作り直すことを意味する。
津波は、家屋といっしょに、地域の文化を流し去ってしまう。
全てを失うのではない家づくり、街並みづくり、
町づくりを模索するときではないかと思う。
高台に、全ての住宅を移転させることなど、考えることはあっても、
実現することは困難だとわかっている。
それが町の復興、再建、再生とは違うものになることも、わかっている。
全く違う、新しいニュータウン建設になることが、わかっている。
できることなら、これまでの町を再生、復興させたいと、
みんな願っていることも、わかっている。


何回も通いつめて、千年に一度の大震災に対する、
私たちの対処や対応が、もっと自然への畏敬と敬意に立脚して、
圧倒的な自然の力に、膨大なコンクリートと鉄で対抗するのではなく、
自然を受け入れ、自然に従い、自然の命ずるように、
柔らかい受け止めかたに転換することが、実は、
できた試しもない「災害を完全に防ぐ」ことではなく、
「災害を最小限にとどめる」ための、
最善の処方箋ではないかと考えるようになった。

同じ津波を真っ向から受けて、辛うじて残った
家屋の仔細な調査と分析から、その原因と理由を探り出すことは、
今ならできる「被害の最小限をめざす、新しい対処と対応」への
基礎研究の根幹であり、出発点ともなると考えている。

今私たちが、全力を尽くすべきポイントが、はっきりしてきたように思う。
私たちが向かうべき方向と道が、見えて来はじめている。

膨大な作業が待っている。
中心になる人たち、いっしょに協働する多くの人びと、
組織、資金、どれもこれも重くのしかかる難問ばかり。
はたしてできるだろうかと思案するより、
今日の一歩を踏み出すことが、いちばん大切ではないかと、
勇気を奮い起こす人たち、「この指とまれ」。


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