国鉄時代、普通列車にも寝台車が付いていた時代がありました、接客態度が悪いとさんざん言われた国鉄でしたがこうしたハード面でのサービスは意外と良かったのかなぁ・・・なんて思っています。
画像 Wikipedia
さて、紀勢本線における夜行列車の歴史を遡ると戦前まで行ってしまうのですが、あまり古い話をしても面白くないでしょうから、紀勢本線電化前後の昭和50年頃からお話を始めたいと思います。
大阪から南紀方面への釣り客御用達の列車が現在は御坊止まりになっている天王寺23:00台に発車する列車で、当時は天王寺駅から直接環状線に乗り入れる経路は無かったので天王寺始発だったのですが、行止り式のホームどのようにして列車を入れていたのでしょうか?
紀勢本線直通の夜行列車の客車は竜華区所属であり、実は環状線よりの線路から阪和線ホームに上がる線路が当時は有ったのです。
現在は撤去されていますが、今でもその遺構を見る事が出来ます。
毎日、毎日、天王寺駅で機関車の位置を入れ替えて推進運転で昼間は普通列車の発着に使う7番・8番ホームに据え付けられるのでした。
特急・急行が1番・2番ホームに入って駅には中間改札が有り、いかにも優等列車の出発駅と言う風情だったのたいし、7番線で発車を待つ新宮行き(名古屋行き)普通列車(阪和線内はノンストップ)は、寝台車の検札以外は車掌も現れないのんびりした雰囲気だったのです。
さて、ここで時代の針を昭和51年頃に合わせたいと思います。
元々寝台列車の需要は、串本方面への釣り客の一部からの要望もあったことから最後尾に1両連結されていました。最盛期は2両あったような記憶もあるのですがその辺は不明瞭です。
なお、寝台券の発行に際しては、マルスではなく天王寺駅など一部の駅で昔ながらの手作業発券でした。
それが昭和51年3月、合理化の一環でマルスに収容することになったのです。
マルスは基本的に列車名と一意で紐づけされていたため普通列車と雖も指定席を導入する場合は愛称を付けてやる必要がありました。
現在も東海道本線を走る臨時運行の快速列車が「ながら」と言う愛称を付け、マリンライナーが快速でありながら愛称があるのは、そうした理由からです。
紀勢本線が全通する以前から天王寺始発の夜行列車は有って、天王寺方からの主な利用者は、串本方面に向かう太公望向であり、それ以外は和歌山まで行乗客で、和歌山市までの直通「最終快速」の役割も果たしていました。
余談ですが、昭和40年代にはサハ4801が夜行列車として、南海なんば駅から乗り入れて、和歌山駅で連結作業をしていました(乗入れは昭和47年には廃止)廃止後も、和歌山市発名古屋行きの列車は残されており、1両だけが機関車にけん引されて、和歌山市から和歌山駅まで走っていました。
(昭和45年の時刻表から 難波始発列車ありと明記されています。)
さて、当時寝台車を連結した普通列車は全国で4つの列車、北海道の「からまつ」、山陰本線の「山陰」。長崎本線を走った「ながさき」そして紀勢本線の夜行列車には「南紀」の愛称が命名されました。
実は、この南紀の愛称ですが名前が偉大過ぎたのか、昭和53年の時刻改正で天王寺~新宮間が電化されて、特急くろしおの運転系統が分断された際、勝浦から名古屋間を結ぶ特急列車の愛称に抜擢されてしまったのです。
これにより、新宮行き夜行列車は再び愛称を失ったのですが、今度は熊野速玉大社から取った「はやたま」の愛称で運転されるようになります。
その後約6年は安泰だったのですが、昭和59のダイヤ改正では老朽化した寝台車を廃止、同時に「はやたま」の愛称も廃止になります。同時に客車は12系に変更されました。
寝台車の廃止は残念でしたが、12系客車になったことは夏場の利用者にしてみれば快適性が増したことになりました。
その後、国鉄最後の改正と言われた昭和61年のダイヤ改正では、天王寺始発の列車は残ったものの、天王寺に5時に到着する列車が無くなってしまうとともに、12系客車から165系電車6連に変更、今までであれば和歌山市をこの列車に乗れば、天王寺5:00新大阪始発の新幹線に間に合わなくなってしまいました。
電車化のメリットはその加速性を生かして阪和線内も快速停車駅に停車することで利便性を図ったほか後ろ3両は田辺切り離しで、翌日の普通電車として運用に入っていましたが一番混雑する時間に3連で165系でしたからね、郵政局に通っているころよく利用しましたが大変でした。(^^♪
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結構な急勾配で無理やり繋いでたような感じでしたね。
コメントありがとうございます。
仰るとおり、9番線からの出発でした。
乗車を9番にしたのは、遠距離列車と言うことで敢えてそのように案内してたのでしょうね。
それと、竜華から一度、寺田町寄りの留置線に引き上げてそこから推進運転で8番・9番ホームに入って行ったらしいですね。
阪和線内は、通過する普通列車というのは豪快でしたね。
最近は、日根野に特急が停車するほか、時間帯によっては和泉府中や和泉砂川も特急が停車とか。隔世の感があります。
実家が美章園駅の近くだったので、子供の頃よく目撃していました。
明らかに普段の電車とは違うので、深夜に走る不思議な列車と言う印象でしたね。
初乗車は高校生の頃でした。
さて、寝台車ですが、最盛期は2両連結されていましたね。
天王寺駅では8番9番ホームから発車していましたが、降車ホームである9番ホームが乗り場になっていました。
通常の普通電車と区別するために9番ホームを乗り場にしてたのかもしれません。
もっともドアが手動の旧型客車なので8番ホームからでも乗れましたが。
天王寺を出ると和歌山まで無停車。
快速停車駅も通過するのに、なぜ「普通」なのか不思議に思ってましたね。
すみません気付いていなくて・・・。
DF50でに運用教えていただきありがとうございます。
いつも側線に1両ポツンと置いて有りましたよね。