「消えた277人」より
ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。
◆改めて、田口八重子(たぐちやえこ)さん
昭和30(1955)年8月10日生まれ
昭和53(1978)年6月頃、東京都で失踪。当時22才、飲食店店員。
東京都高田馬場のべビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま消息を絶った。
昭和62年の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮の元工作員・金賢姫(キムヒョンヒ)は、李恩恵(リウ乙という女性から日本語や日本人の振る舞い方を学んだと証言。
この女性の似顔絵が八重子さんに酷似、また、会話内容などからも八重子さんの当時の状況と合致したことから北朝鮮による拉致が発覚した。
北朝鮮側は、八重子さんは昭和55年に拉致された原救昆さん(後述)と結婚し、その数年後に自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料などの提供はなされていない。
なお最近になって、八重子さんは宮崎県の青島海岸で拉致されたとする報道がなされた。(2007年3月8日付け「日本経済新聞」)。
「子供と抱き合う姿を早く見たい」 飯塚繁雄さん(兄から)
日本から北朝鮮につれて行かれた田口八重子へ。
、
朝群名はコ・ヘオクと呼ばれているよぅですが、また一時李恩恵ともいう名前でこちらにはシラされています。
私はあなたの兄の飯塚繁雄です。1978年6月に八重子がいなくなって、1989年に北朝鮮にいると分かったとき、とても驚きました。それ以降、日本に帰国させるための活動をいろいろやってきましたけれども、北朝鮮は断固として返してくれません。八重子がいなくなってから27年も経ってしまい、毎日毎日北の国でどうしているか、心配でたまりません。
話したいことは山ほどありますが、まず八重予が一番心配しているお前の子供のことですが、長男の耕一郎はもう28歳、長女のあやは二十9歳になって、とても元気に育ちました。
耕一郎は私繁雄の養子として人れ、他の子供たちと何隔たりもなく仲良く生活し、本人も21歳になるまで養子であることも気がつかず、また実の母である八重子の状況も話してありませんでした。耕一郎はその全てを知ったときに、大変大きなショックと戸惑いを感じ、心の中で自分の置かれている不幸を悲しみ、また母である八重子の姿を全て話してあげましたけれども、全く記憶にない八重子を母と呼べない心境でおります。
この実態を理解しつつ、逆に母である八重子のことを気にかけ、自分の意思でなく強引に北朝鮮に連れて行かれた母を何としても日本に取り戻したいという気持ちでいっぱいです。そしていま現在でも、私とともに救出活動に力を注いでいます。
耕一郎はまだ結婚していませんが、会社の仕事は一生懸命に頑張り、いまでは優秀な技術者として立派に独り立ちしています。
一方長女のあやは、お前の姉が養子にとり、この年まで元気に育てました。やはりまだ結婚 はしていませんが、自分で全てが判断できる大人になりました。
女であるということで、この母親の救出問題では表には出しておりませんが、二人とも実の母である八重子との生活を夢見て、結婚もせずに待っているのだと思っています。
私たち兄弟はいまも健在で、八重子の帰りを待っています。お前ももう50歳になってしま いましたね。
ですから兄弟たちも歳をとって、私は67歳にもなってしまいました。
私たち兄弟の母親であるはなも、13年前にお前の帰りを待ち佳びながらあの世に逝ってし まいました。
八重子の人生の最も大切な27年間という長い時間を北朝鮮に奪われてしまっ たのは本当に哀しいことでもあり、大きな怒りでもあります。
またこんなに長い間日本に帰国 させることができなかった日本国の対応も非常に残念です。
北朝鮮で一緒に暮らしていた地村富貫恵さん家族、蓮池さん家族、そして曽我ひとみさん家族は三午前に帰って来ました。その 人たちの話で、八重子はとても明るく頑張っていたと聞いています。
しかし夜になると予供たちのことを思い泣いていたとも聞いています。
いろいろつらいことも多かったが、それでも北 朝鮮の言うことを聞いて、いつかは帰れることを祈って頑張っているということも聞きました。
同じ拉致被害者である5人が帰れて、なぜ八重子や横田めぐみさんや増元るみ予さんや市川さんや有本恵子さんが日本に帰れないのか?まだまだ多くの日本人が北に連れて行かれているのが実態です。
多分八重子も他の日本人を見たことがあると思います。
北朝鮮は「それらの人たちは皆亡くなった」と言っていますけれども、その報告は全て嘘であり、私たちは皆生存していると堅く信じています。
もう少しです。頑張って下さい。
きっと日本に帰ってこられるよう、日本の多くの国民もあらゆる手段をもって活動しています。
そして八重子とお前の愛する二人の子供たちが日本で抱き合う姿を早く見たい。
私たち兄弟も、皆がそれを待ち焦がれています。
このラジオ放送が八重子の耳にぜひ聞こえるよぅに祈ります。本当に、迎えに行くまで頑張ってね。
「きっとお前を取り返すから」 本間勝さん(兄から)
私は八重子の兄の勝です。
八重子が何らかの事情で昭和五十三年に北朝鮮に連れて行かれてから長い年月が過ぎてしまいました。
八重子の兄弟たちみんな、帰ってくるのを何よりも待っています。
八重子たち日本人が多数北朝鮮に連れて行かれ、そのまま帰れなくなってしまった人々を、日本の国民、政府が「今すぐ全員返せ」と救出運動を北朝鮮・金正日政権に対して行っています。
いつ帰れるだろうかと待っていると思います。体に気をつけて頑張って下さい。八重子の子供も立派に大きくなりお母さんの帰ってくるのを1日も早く待っています。
早く帰ってきて!きっとお前を取り戻すからね。
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失踪当時22才 拉致されてから29年 現在52才
ご家族のメッセージの記載がある方を、順次ご紹介しています。
◆改めて、田口八重子(たぐちやえこ)さん
昭和30(1955)年8月10日生まれ
昭和53(1978)年6月頃、東京都で失踪。当時22才、飲食店店員。
東京都高田馬場のべビーホテルに3歳と1歳の幼児を預けたまま消息を絶った。
昭和62年の大韓航空機爆破事件で有罪判決を受けた北朝鮮の元工作員・金賢姫(キムヒョンヒ)は、李恩恵(リウ乙という女性から日本語や日本人の振る舞い方を学んだと証言。
この女性の似顔絵が八重子さんに酷似、また、会話内容などからも八重子さんの当時の状況と合致したことから北朝鮮による拉致が発覚した。
北朝鮮側は、八重子さんは昭和55年に拉致された原救昆さん(後述)と結婚し、その数年後に自動車事故で死亡したとしているが、これを裏付ける資料などの提供はなされていない。
なお最近になって、八重子さんは宮崎県の青島海岸で拉致されたとする報道がなされた。(2007年3月8日付け「日本経済新聞」)。
「子供と抱き合う姿を早く見たい」 飯塚繁雄さん(兄から)
日本から北朝鮮につれて行かれた田口八重子へ。
、
朝群名はコ・ヘオクと呼ばれているよぅですが、また一時李恩恵ともいう名前でこちらにはシラされています。
私はあなたの兄の飯塚繁雄です。1978年6月に八重子がいなくなって、1989年に北朝鮮にいると分かったとき、とても驚きました。それ以降、日本に帰国させるための活動をいろいろやってきましたけれども、北朝鮮は断固として返してくれません。八重子がいなくなってから27年も経ってしまい、毎日毎日北の国でどうしているか、心配でたまりません。
話したいことは山ほどありますが、まず八重予が一番心配しているお前の子供のことですが、長男の耕一郎はもう28歳、長女のあやは二十9歳になって、とても元気に育ちました。
耕一郎は私繁雄の養子として人れ、他の子供たちと何隔たりもなく仲良く生活し、本人も21歳になるまで養子であることも気がつかず、また実の母である八重子の状況も話してありませんでした。耕一郎はその全てを知ったときに、大変大きなショックと戸惑いを感じ、心の中で自分の置かれている不幸を悲しみ、また母である八重子の姿を全て話してあげましたけれども、全く記憶にない八重子を母と呼べない心境でおります。
この実態を理解しつつ、逆に母である八重子のことを気にかけ、自分の意思でなく強引に北朝鮮に連れて行かれた母を何としても日本に取り戻したいという気持ちでいっぱいです。そしていま現在でも、私とともに救出活動に力を注いでいます。
耕一郎はまだ結婚していませんが、会社の仕事は一生懸命に頑張り、いまでは優秀な技術者として立派に独り立ちしています。
一方長女のあやは、お前の姉が養子にとり、この年まで元気に育てました。やはりまだ結婚 はしていませんが、自分で全てが判断できる大人になりました。
女であるということで、この母親の救出問題では表には出しておりませんが、二人とも実の母である八重子との生活を夢見て、結婚もせずに待っているのだと思っています。
私たち兄弟はいまも健在で、八重子の帰りを待っています。お前ももう50歳になってしま いましたね。
ですから兄弟たちも歳をとって、私は67歳にもなってしまいました。
私たち兄弟の母親であるはなも、13年前にお前の帰りを待ち佳びながらあの世に逝ってし まいました。
八重子の人生の最も大切な27年間という長い時間を北朝鮮に奪われてしまっ たのは本当に哀しいことでもあり、大きな怒りでもあります。
またこんなに長い間日本に帰国 させることができなかった日本国の対応も非常に残念です。
北朝鮮で一緒に暮らしていた地村富貫恵さん家族、蓮池さん家族、そして曽我ひとみさん家族は三午前に帰って来ました。その 人たちの話で、八重子はとても明るく頑張っていたと聞いています。
しかし夜になると予供たちのことを思い泣いていたとも聞いています。
いろいろつらいことも多かったが、それでも北 朝鮮の言うことを聞いて、いつかは帰れることを祈って頑張っているということも聞きました。
同じ拉致被害者である5人が帰れて、なぜ八重子や横田めぐみさんや増元るみ予さんや市川さんや有本恵子さんが日本に帰れないのか?まだまだ多くの日本人が北に連れて行かれているのが実態です。
多分八重子も他の日本人を見たことがあると思います。
北朝鮮は「それらの人たちは皆亡くなった」と言っていますけれども、その報告は全て嘘であり、私たちは皆生存していると堅く信じています。
もう少しです。頑張って下さい。
きっと日本に帰ってこられるよう、日本の多くの国民もあらゆる手段をもって活動しています。
そして八重子とお前の愛する二人の子供たちが日本で抱き合う姿を早く見たい。
私たち兄弟も、皆がそれを待ち焦がれています。
このラジオ放送が八重子の耳にぜひ聞こえるよぅに祈ります。本当に、迎えに行くまで頑張ってね。
「きっとお前を取り返すから」 本間勝さん(兄から)
私は八重子の兄の勝です。
八重子が何らかの事情で昭和五十三年に北朝鮮に連れて行かれてから長い年月が過ぎてしまいました。
八重子の兄弟たちみんな、帰ってくるのを何よりも待っています。
八重子たち日本人が多数北朝鮮に連れて行かれ、そのまま帰れなくなってしまった人々を、日本の国民、政府が「今すぐ全員返せ」と救出運動を北朝鮮・金正日政権に対して行っています。
いつ帰れるだろうかと待っていると思います。体に気をつけて頑張って下さい。八重子の子供も立派に大きくなりお母さんの帰ってくるのを1日も早く待っています。
早く帰ってきて!きっとお前を取り戻すからね。
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失踪当時22才 拉致されてから29年 現在52才