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市川修一さんを救うぞ東京集会(3)

2005-03-10 | 市川修一さんを救うぞ東京集会
市川龍子さんのお話 1
皆様こんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
いつもご支援ありがとうございます。
私は修一の義理の姉に当たります。
修一は48年の3月に隣町の県立岩川高校の機械科を卒業しております。
私たち夫婦が横浜から引き上げてきたのが47年10月なので、あまり修一とは長くは住んでおりませんでしたけども。

私の長男と、修一の姉に当たります孝子って言うんですが。
主人から(みると)妹ですね、修一からは実の姉に当たるんですけど。
その姉孝子の長男と私たちとの長男が初節句が同時期だったもんですから。
そのときは修一は臨時職員として働いていたと思います。
郵便局に働いていたんですが。
なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな冑の置物ですか?
節句の、あれをプレゼントしてくれたことがあります。
修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。
それでも可愛い甥っ子のためにと言うことで、修一が贈ってプレゼントしてくれました。
また母にはですね。
初ボーナスで、もう見たくないんですけどここに持ってきました。
修一が初ボーナスで母に大島紬ですね。
これをプレゼントしてくれたそうなんです。(大島紬の着物を広げて見せる。会場より「あぁ素敵」と言う声)
これは一度も母は袖を通しておりません。
もう見ると涙が出るからって言って。
ずっとタンスの中にしまってありました。 今日初めてですね。
取材の方がいらっしゃったので母が初めてこの紬を抱いたんです。
初めてです。
27年にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。
もう本当にですね、酷だったかなぁと思ったんですがここに持ってくるということで。
母が初めて大島紬を手にとって泣いた時の姿は。
早く修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないと言う気持ちがまた決意が、ずんずんと湧いてきたんですけど。(会場のあちこちですすり泣く声、以後最後まですすり泣き続く)
修一さんが初ボーナスでお母様にプレゼントした
大島紬
また私の長女が2歳の時ですか。
修一は、そのうちの女の子がですね。
本当の兄ちゃんがいるのに、修一のことを「兄ちゃん兄ちゃん」というんですね。
まつわりついて、その、うちの長女も修一になついて可愛がってくれていました。

拉致されてからほとんど修一のことを話すことも無かったんです。
さっき主人が言いましたように、本当に禁句でした。
修一に関することはですね。
うちはお店をしているものですから、スーパーの方に切り替えた時にですね。
新装開店をしたのが58年の7月なんですが、盆とか暮れとかですね。
今は下火になってますけども当時は本当にですね、忙しいお店だったんです。
かき入れ時なんかはですね。
鹿児島市内からわざわざから帰ってきて、レジに立ったり、またお客様を送っていったり。

田舎はよく砂糖が出るんですよ。
砂糖の進物って言うんですか?
砂糖が2キロくらい箱詰めで、その当時はその箱詰めもきれいに包装して売り出してましたので。
修一はその箱詰めをですね。
嫌とも言わずに、物凄い数で進物としてね。
砂糖とか進物類を包装してくれたのを、私は覚えています。
お店が国道沿いにあるもんですから、道路を横切る近所のおばあちゃんたちをですね。
お買い物してくださった荷物を、沢山の荷物をですね。
持って、一緒に道を横切って交通安全に気をつけてですね。
おばあちゃんたちの安全を確認して一緒に渡っていって、よくしておりました。

話が飛び飛びになりますけども、また母の話によりますと魚釣りが好きでですね。
近くに大隈湖ってあるんです。
その大隈湖とかですね、錦江湾の方に良く釣りにも行っていたよ、と言って母が見せてくれたのがこのリールなんです。(リールを見せる)
釣竿もあったんですけどちょっと長いから持って来れなかったんですけど、これも修一が帰ってきたら返そうと思っています。

ボクシングの時にあの、大きな袋詰めのものを下げ・・・なんていうんですか?(会場より「サンドバッグ」の声)
私知らないんですが、そのサンドバッグっていうんですか。
それをベランダにぶら下げてよく叩いておりましたね。
そしてあと鉄の塊のこっちとこっちの、(会場より「ダンベル、鉄アレイ」の声)鉄アレイ、それからバネになってるぐぃ~んと伸ばすような、ああいうものをよく使って体を鍛えておりましたね。
目に浮かびます。
ボーナスと貯金をはたいてですね。
修一にとっては一世一代かと思います。
聞きましたら60万とか70万とか言ってましたけど、そんな豪華なステレオですか?
縦式に、あの当時は縦式にステレオを回すところがあって、なんかアンプがあってこう、なんか知らないけど機械がずらっと縦に並んだセットがありましたよね?
スピーカーも大きなスピーカーを4台そろえて、そしてここにこうしてですね。
LP盤って分かりますか?
ドーナツ盤って分かりますか?(笑い声)
レコードなんです、要するに。
CDとかMDとか知りませんからね。
そういうのを良くここにつけて(ヘッドフォンをつける仕草)静かに聴き入ってましたね。
今もLP盤とかドーナツ盤とかは金(かね)で出来たレコード差しって言うんですか?
若い方は知ってらっしゃらないと思います。
それが大事に置いてあります。
それも早く返さなきゃ、家が狭いです。(笑い声)
大きなですね、ガラス張りの書籍棚を自分で買ったんでしょう。
さっき言ってました妹孝子の敷地内に間借りしてたもんですから、そこにちゃんとあったんでしょう。
持って来ましたが。
その書棚の中には世界史とか日本史とか単行本とかいろんな本がね、ずら~っと並んでるんです。
レジを手伝ってくれる時はいつもレジで本を見てたよ、と近所の方が教えてくださいましたけども。
そういう面もあって、目撃証言にもあったようにいつも片手に何かをね。
辞書か何か知りませんが、いつも何かを持っていた。
市川先生はチョン、チョンなんでしたっけ?
なんとか先生はいつも片手に辞書か何かを持っていつも静かに本を読んでました、寡黙な方でしたよ、といわれたんですが。
確かにそうだと思います。
確かに余り余計なことはしゃべりませんでした。

私は義理の姉と言うこともあったんでしょうが、またその時は修一は若いですから、恥ずかしさとか遠慮さもあったんだと思います。
私も当時はまだ若かったですからね。(笑い声)
余計なことはしゃべりませんでしたけども、本当にその通り寡黙な青年だったと思います。
でも同級生によると、今日はですねその同級生もここに来るのをですね。
楽しみにしていたんですけど、なんか議会が始まってどうしても出られない、申し訳ない申し訳ないといってですね。
今日は欠席しておりますけども。
その同級生が言うには、反面悪いこともしてましたよと教えてくれましたけども。
バイクで学校へ行くまでいろんな抜け道をしながら近道を通りながら、遅刻をしたりとかそんなこともしてましたよって、修一の一面を教えてくれました。
横浜からですね、鹿児島へ主人と一時帰省した時があるんですが、そのとき主人と父と修一とで霧島の方にドライブにいったときの写真があるんです。
これは私がたった一枚です。
修一と共に写った写真はこれ一枚なんですよ。(手帳から写真を取り出す)
これは私がいつも手帳の中に入れて持ち歩いているんですけども、私もミニスカートはいてます。(笑い声)
考えられないんですが。
高校2年生くらいだったと思います。
修一と父と主人とで霧島の方にドライブに行ったことがあります。

修一は母が30代後半の頃に生まれた子ですので、歳をとって出来た子は特に可愛い、まぁ子供に変わりはないんですけども、特に可愛かったんだろうと思います。
当時はお店が忙しくてですね。
母はいつも嘆いております。
「余りかまってやれなかった、かまってやれなかった」といっております。
でも子供たちのために一生懸命、本当に一生懸命あの働いていた母でしたね。
修一が社会人になってからですね、それはそれは本当に親思いの修一だったよって、修一の姉の孝子が言っておりました。

主人とは9つも歳が離れていますから怖い存在だったかもしれないし、話が合わなかったかもしれませんけども4歳違いの姉、孝子って言うんですけども。
「姉ちゃん姉ちゃん」と何でも相談していたと聞いております。
鹿児島市内に住んでいた、姉のところから修一はいなくなったんですけども。
当時は電電公社に通勤しておりました。
食事も姉家族と一緒にとっていたんですけども、今日のこの日にですね。
姉の孝子も「出席して語りたい」と言ってたんですけど、今病に伏せっております。

修一が北朝鮮にいると分かってから、母はですね、(昭和)60年だったですかね。
韓国の38度線の鉄柵の前でですね、言っても聞き苦しいかも知れませんけども。
鉄柵の前でですね、あらん限りの声で叫びましたよ?
「修一どこにいるの~!顔を見せて~!声を聞かせて~~!」
ってですね。
むこうの方では断髪的に号砲がなり響くんです。
聞こえるはずも届くはずも無いんですけども、それでも母は叫び続けました。

今にも鉄柵を乗り越えてですね、修一を探したい、連れ戻したい。
そんな心境だったんでしょう。
もう後を振り返り振り返り、空しく国境線38度線を後にして日本に帰ってきましたけども。
子を思う親の気持ちは何処の国でも本当に同じです。
気が狂ってもおかしくないぐらいの状況の中で27年過ぎます。
私だったら気が狂っておりますね。
よく耐えてくれていると思います。
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