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(大きな拍手の中、曽我ひとみさんをはじめとする登壇者がステージ上に登場)
※西岡力氏
皆さんこんばんは。(会場より「こんばんは」の声)
時間になりましたので、「曽我ミヨシさんを救出するぞ!東京集会」を開きたいと思います。
よろしくお願いいたします。(大きな拍手)
曽我さんっていうとだいたい日本人は曽我ひとみさんを思い出すんですが、今日はひとみさんにも来ていただいてますけども、曽我ミヨシさんのことをみんなで考えようと。
曽我ミヨシさんを私たちが全力を尽くして救い出そうと、そういう集会です。
曽我ミヨシさんの家族として、曽我ひとみさんが佐渡から今日来てくださいました。
まず東京に出てきて、何の目的で出てきたのか?
そのことを一言ひとみさんに話していただいて集会を始めたいと思います。
☆曽我ひとみさん
(拍手)
皆さんこんばんは。(「こんばんは」の声)
お忙しい中、こうしてお集まりいただきまして本当にありがとうございます。
今日私が東京の方に出てきたのは、私にとって本当に一人しかいない母を、皆様のお力を借りてまた静かな佐渡で私たちと一緒に暮らすことが出来るように、お願いに上がりました。(拍手)
※西岡氏
あんまり長い話をするのは慣れてらっしゃらないと言うことなので、掛け合い方式でお話を聞こうと思います。
自己紹介が遅れましたが救う会の西岡です。
よろしくお願いいたします。(拍手)
曽我ミヨシさんの救出を訴えるために東京にいらっしゃったんですが、その本題に入る前にですね。
最近の帰ってこられた家族との佐渡での近況を少しお話をしていただいて、国民の皆様にご挨拶をしていただきたいと思います。
☆曽我ひとみさん
こうして皆様方のおかげで私たち家族4人は佐渡で楽しく生活をしております。
娘二人も4月から新潟の大学の方で勉強させてもらっております。
友達も少しづつ出来始めて。
最初は人が、大学で生徒たちが沢山いるんで、最初はちょっとびっくりしていましたけど、だんだん今は慣れてきて学校の生活もとても楽しいと言っております。
そして夫の方ですけども、最近は暖かくなってきたので畑で野菜(作り)を一杯やっています。
私は真野支所の方で、検診のお手伝いをして、今一番忙しい時期です。
検診が始まったので。
一生懸命頑張ってます。(拍手)
※西岡氏
それでは本題に入って、曽我さんがこの世界で一人しかいない愛するお母さん。
先ほど言いましたけども、曽我ミヨシさんがどんな人だったのか?
この連続集会でずっと皆さんにもお話をしていただいてますけども、曽我ミヨシさんの思い出を話していただきたいと思います。
☆曽我ひとみさん
私の母は本当に物静な働き者の母でした。
いろんな話があるんですけど。
私が多分3歳か4歳くらいの時だったと思うんですけども、皇居の方に勤労奉仕で行ってました。
その時私が小さかったんで、一緒について行きたかったんですが、「ついていきたい」とわんわん泣いたこともありました。
うちの生活が貧しかったため、母は昼間は土建業って言うか、ヒューム管で油とセメントなどをいじって本当に大変な仕事を毎日しておりました。
それから夜帰ってきてからは12時くらいまで内職でざるを作っていました。
そのざるを作るのも自分の休みの日に山に行って、その頃は車なんかもなかったですから、一人でリヤカーを引っ張って山に竹を切りに行って。
それで一生懸命私たちを育ててくれました。
母はあまり怒ることがなくって、私たちきょうだいに手をあげることもほとんど無く、本当に優しい優しい母でした。
私たちきょうだいには、自分がどんなに苦しくても辛くてもそういう顔を見せずに本当に優しく育ててくれました。
そんな母でしたけど、時にはやっぱりやるせないこともあって、夜中ひとりで布団の中で泣いていることもありました。
私の父がお酒が大好きだったもんで、それについても色々と母は苦労したと思います。
それで私があるとき「こんなにお酒飲むんだったら、別れてしまえば?」と子供ながらに母に言いました。
そしたら母は笑っていました。
その笑い顔、微笑を私は今でも忘れていません。
それと私が今手にはめている時計ですけど、まぁ見ると男物の時計なんですけど、私にしてみると、この26年間母であり、時計というよりは私の母だと今でも思っています。
丁度あの日。
思い出したくも無い、あの日です。
母と別れた日に、その日からずっと私の腕にはこの時計がありました。
それで向こうに行って10年くらいはこの時計をずっと身に付けていました。
今ちょっとはっきりは覚えていないんですけど、10年少し経ったくらいで時計が動かないようになってしまいました。
その時もちろん機械だから壊れることもあるだろう。
それは普通なんですけど、私にとってはこの時計が母と同じ存在だったので、その時すごく心配しました。
お母さん、どこかで病気でもしてるんじゃないか?と。
なんかこの時計が教えてくれたのかなぁ?と本当にやるせない気持ちになりました。
その後直すことが出来なかった時計も皆様方のおかげで、私が日本に帰ってから、このように動くようになりました。
だから私はこの時計が直った時に思いました。
絶対母もこの時計と同じように、どこかで絶対に元気で生きていると。
そして今も私は母の帰りを一生懸命待っています。
ぴろんさんのテキストです。参照話の花束
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