■平沼拉致議連会長へ、特定失踪者家族からの手紙(8)小林榮さん(昭和41年8月、東京都内で
失踪)の弟さんである小林七郎さん
※それぞれの失踪状況については調査会のホームページをご覧下さい。なお、一部原文の語句の
誤りを訂正してあります。
(手紙)
平沼赳夫拉致議連会長殿・西村眞悟拉致議連幹事長殿
特定失踪者問題調査会(以下調査会、東京都文京区)では、北朝鮮による拉致の疑いが排除できない者を特定失踪者と定義しております。全国では現在470名もの方が調査会に届け出ております。その中で一番古い方は昭和23年といいますから実に60年も前のことであります。それから今まで国が拉致対策を怠っていたということは平成16年6月にも失踪者リストに載っていることからも推察されます。拉致対策を講じていたなら被害者にならずに済んだかも知れないと思うからであります。このことは非常に悔しく残念でならないことであります。
これらの多くの特定失踪者は女性であれば好きな男と駆け落ちしたといわれ、あるいは気がふれて自殺したのではないか。男であればサラ金に手をだし行方をくらました、会社の金を使い込んで姿を消したのではないかなどと、そんな世間の噂話や中傷に耐え、どんなに悔しい思いをしたことか分かりません。結婚話が進み結納の運びとなっても、家族うちの失踪を知るや否や破談となった話も聞かされました。就職にも触るのではないか、昇進にも障ると失踪を隠し通した人も大勢いたと思います。私の家族は兄のことになるべく触れず、親戚にも話すことなく肩身の狭い思いで長い間暮らしてきました。
そして、失踪年月の経る方の中には、人生のけじめと失踪日を命日と定め法要を続ける家族の方もおります。わが子の失踪の実態を知ろうと、探偵会社に退職金のすべてをつぎ込んだ方、探索のための広報チラシを数千枚印刷し都内のすべての警察、すべての派出所を回った父親、また、失踪した子供に対し子育てを間違ったのではないかと自分を責めるおや、高齢でからだの自由が利かなくなり何も出来ず床に伏す方々、兄弟を探していたが結婚してから時間的にも経済的にも
相手への気兼ねから集会などへも今までのように出られなくなった方も大勢います。
私の親も既にありませんが、子供のことがどんなに気がかりであったことでしょう。子供に会いたいとの、切ない思いを残し亡くなった方も少なくありません。
これら失踪が惹起する年月は失踪者本人と家族にとって長く不孝な人生の悲劇であります。こんなに長くこれほど大きな精神的苦痛また経済的負担を強いているのが拉致なのであります。
この長期にわたる苦悩を与えた国の責任は重大であると考えます。
ここに私は、特定失踪者の1日も早い奪還と、特定失踪者全員の拉致認定が叶うようお力添えいただきたいと進言致します。
平成20年9月11日
小林七郎
――――――――――――――――――――――――――――――――
氏名 小林 榮 失踪年月日 昭和41(1966)年8月21日
ふりがな こばやし さかえ 生年月日 昭和18(1943)年4月29日
性別 男 当時の年齢 23
身長 160センチ 体重 60キロ
公開 第5次公開
当時の身分 印刷会社社員
特徴 昭和41年頃ボクシングをやるためにジムに入ると言っていた。活動的で中学時代は陸上部に入りマラソンなどをしていた。
失踪場所 東京都千代田区
失踪状況 数日来体調を崩し仕事は休んでおり、当時住み込みで働いていた印刷会社から「医者に行く」と会社の者に言い残し外出したまま行方不明になっている。失踪する心当たりはなく、身の周りのもの、荷物などいつもの通りだった。失踪1カ月して勤務先の社長から失踪した旨の手紙が実家に来た。昭和35年頃から失踪当時の印刷会社で働いていた。
失踪)の弟さんである小林七郎さん
※それぞれの失踪状況については調査会のホームページをご覧下さい。なお、一部原文の語句の
誤りを訂正してあります。
(手紙)
平沼赳夫拉致議連会長殿・西村眞悟拉致議連幹事長殿
特定失踪者問題調査会(以下調査会、東京都文京区)では、北朝鮮による拉致の疑いが排除できない者を特定失踪者と定義しております。全国では現在470名もの方が調査会に届け出ております。その中で一番古い方は昭和23年といいますから実に60年も前のことであります。それから今まで国が拉致対策を怠っていたということは平成16年6月にも失踪者リストに載っていることからも推察されます。拉致対策を講じていたなら被害者にならずに済んだかも知れないと思うからであります。このことは非常に悔しく残念でならないことであります。
これらの多くの特定失踪者は女性であれば好きな男と駆け落ちしたといわれ、あるいは気がふれて自殺したのではないか。男であればサラ金に手をだし行方をくらました、会社の金を使い込んで姿を消したのではないかなどと、そんな世間の噂話や中傷に耐え、どんなに悔しい思いをしたことか分かりません。結婚話が進み結納の運びとなっても、家族うちの失踪を知るや否や破談となった話も聞かされました。就職にも触るのではないか、昇進にも障ると失踪を隠し通した人も大勢いたと思います。私の家族は兄のことになるべく触れず、親戚にも話すことなく肩身の狭い思いで長い間暮らしてきました。
そして、失踪年月の経る方の中には、人生のけじめと失踪日を命日と定め法要を続ける家族の方もおります。わが子の失踪の実態を知ろうと、探偵会社に退職金のすべてをつぎ込んだ方、探索のための広報チラシを数千枚印刷し都内のすべての警察、すべての派出所を回った父親、また、失踪した子供に対し子育てを間違ったのではないかと自分を責めるおや、高齢でからだの自由が利かなくなり何も出来ず床に伏す方々、兄弟を探していたが結婚してから時間的にも経済的にも
相手への気兼ねから集会などへも今までのように出られなくなった方も大勢います。
私の親も既にありませんが、子供のことがどんなに気がかりであったことでしょう。子供に会いたいとの、切ない思いを残し亡くなった方も少なくありません。
これら失踪が惹起する年月は失踪者本人と家族にとって長く不孝な人生の悲劇であります。こんなに長くこれほど大きな精神的苦痛また経済的負担を強いているのが拉致なのであります。
この長期にわたる苦悩を与えた国の責任は重大であると考えます。
ここに私は、特定失踪者の1日も早い奪還と、特定失踪者全員の拉致認定が叶うようお力添えいただきたいと進言致します。
平成20年9月11日
小林七郎
――――――――――――――――――――――――――――――――
氏名 小林 榮 失踪年月日 昭和41(1966)年8月21日
ふりがな こばやし さかえ 生年月日 昭和18(1943)年4月29日
性別 男 当時の年齢 23
身長 160センチ 体重 60キロ
公開 第5次公開
当時の身分 印刷会社社員
特徴 昭和41年頃ボクシングをやるためにジムに入ると言っていた。活動的で中学時代は陸上部に入りマラソンなどをしていた。
失踪場所 東京都千代田区
失踪状況 数日来体調を崩し仕事は休んでおり、当時住み込みで働いていた印刷会社から「医者に行く」と会社の者に言い残し外出したまま行方不明になっている。失踪する心当たりはなく、身の周りのもの、荷物などいつもの通りだった。失踪1カ月して勤務先の社長から失踪した旨の手紙が実家に来た。昭和35年頃から失踪当時の印刷会社で働いていた。