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拉致の解決を願って
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安明進氏の証言(通訳・西岡氏) その3

2005-09-25 | 東京集会
 拉致被害者は生きている!東京集会4

薫さんを目撃したのは講堂の行事の時だけではなくて別の時もありました。
政治軍事大学には勝利号と言う貨客船が所属していまして、その船で大学に必要な装備だとかそう言う物を日本から買ってきていたんですね。
日本人の拉致被害者たちは故郷の日本のニュースが聞きたいのか、あるいは何か日本の物を買って来てくれと頼んでいるのか。
勝利号が戻ってきて船員たちが大学に帰って来ると、その船員たちの事務所が大講堂の上の所に同じ建物にありましたから、大講堂の前のあたりに集まって来てですね。
船員たちの出てくるのを待って、良く話をしているのを目撃しました。

ですから彼は拉致された日本人の教官として(政治軍事大学に)いたわけです。
教官をやっていたとすれば政治軍事大学に居なかったとはありえない、論理的にもおかしいわけです。

そしてまたもう一つ、北朝鮮は拉致した日本人は13人だと発表したわけですね。
日本人の中でも純真な方はそれを信じていらっしゃる人もいるかもしれませんが、絶対嘘です。
先ほども申し上げたように30人の教官が政治軍事大学の中にいたんです。
それでも13人より多いんです。
それだけでもない。
実は拉致した人間の中から教官として使える人間を選抜して教官にしたんです。
ですから30人よりもっと多い人たちがいたのは間違いない。

帰国した5人の中でも私が目撃したのは薫さん一人だけなんですね。
教官が5人の中で一人だけだったとすれば、そういう比率であればもっと他に教官をしていない日本人がいるという計算になるわけです。

★ここより、西岡力氏のお話

大体以上が安さんの話ですが。
(後ろのホワイトボードに書かれた安氏の目撃した拉致被害者の名前の一覧を指し示しながら)この中でここまでが政治軍事大学の中で見たと言う人ですね。
11人。
この男性のどちらか一人が藤田進さんに似ていた。
藤田進さんの物と言われる出てきた写真ですね。
藤田さんが拉致された時の学生時代の写真では分からなかったんですが、亡命者がもたらしたと言われる写真ですね。
と似ていた。
この藤田さんは実は実は市川さんと良く歩いていて、安さんが市川さんからタバコを貰った時、横にいた男性Aと言う人がこの藤田さん。
と言う事ですね。

田口八重子さんについては91年まで金正日政治軍事大学、当時の名前は中央委員会直属政治学校の分校にいたわけですね。
射撃の教官が行って見たらば、別の招待所に移っていたと。
薫さんは家族の人に田口さんは86年に敵工地(てきこうち)と言う所にいたと言ってる。
これは軍の所属なんですが、91年まで政治軍事大学にいたと言うことは、まだ党の所属にいたと言うことで86年に軍の所にいてまた戻ってきたのか?
そこも若干、まだ解明出来てない部分なんです。

この中で日本の政府が認定しているのは、6人ですね。
17人のうち11人は認定されていない。
そのうち4人は全く分からない。
特定失踪者の写真を沢山見てもらってるわけですけども、その中に似た人がいない。
もちろん久米さんや原さんのように身寄りのない人を拉致しているケースは沢山ありますから、調べて欲しいと名乗り出ていない人の中でこういう所にいた可能性はあるわけですね。
田中実さんなどはそういうケースで選ばれて連れて行かれているわけですね。
張龍雲という工作員が自白をしなければ田中さんは名前が分からなくて、男性Cとかになってたんですね。
そういう点でも、つまり30人政治軍事大学にいると。
日本人は16人と日本政府は認定していて、あと14人認定していてもっといるじゃないかとそういうことじゃなくて。
つまりここで安さんが知ってる17人のうち6人しか特定できない。
認定できてないわけですから、認定以外の人が14人じゃなくてもっと多くなるんですね。
言う計算になるわけです。

そして今日有本さんたちがいらっしゃってるんですけれど、よど号の犯人たちが拉致した人間っていうのは別の日本革命村と言うところにいましたから、そこでよど号が拉致した人間たちは基本的に彼らが管理していたようなので。
高沢(皓司さん=「宿命」の著者)と言う人間は、田宮と言うよど号のリーダーから20人くらい拉致したと聞いてるわけで、今よど号ケースで3人しか認定出来てないんですね。
あと17人はこちらに、30人とは別の所にいる可能性が高いわけです。

そういうふうに考えていくと、もちろんこの二人(寺越昭二さん・外雄さんの事)は30人の中に入ってないわけですね。
寺越さんも殺されちゃってしまったわけです。
教官の中には入ってないわけです。
武志さんは教官じゃなくて、装備を運搬する仕事をしてたわけですね。
だからその30人の中に多分入ってないと思うんですが。
曽我さんのように結婚して外にいた人もいるので、こういうことからして我々は100人くらいはいるんじゃないか?と。
100人くらい今言ったような分かってる他に情報からすると、合わせて100人くらいになるんじゃないか?と。
金正日の言ってる13人というは絶対におかしいと。
日本政府の言ってる16人もまだまだ足りないと、言うふうに思っているわけです。

★ここより再び安氏の証言(通訳・西岡氏)

またさっき言ったようにですね。
70年代の半ばから82年くらいまで清津が全面的に拉致を行ったんです。
これで10何人というのはありえない。
具体的には分からないんですが、実はめぐみさんを拉致したと安さんに話している丁(チョン)教官は、もう一人自分は拉致していると言ってるんですね。
男をひとり拉致したといってるんですね。
でも学校にはいないと。
それから丁教官と同じような世代で同じような時期に再教育を受けた別の教官も、自分は2人拉致したと。
その2人も学校にはいないと。
そこで3人、学校にいない人の存在が出てくる。

拉致がなぜまだこんなたくさん行われていて解決できないのか?
もちろん、やった北朝鮮の責任が一番ですが。
しかし私が命懸けで拉致はあるんだと97年から証言を始めても、信じなかった大部分の日本社会の人たちの責任。
また北の工作船を発見しても発砲もせずに、ただ領海から追い出すだけで何もしなかった警備当局の責任もあるんじゃないかと思います。

今のような日本の警備体制であれば金正日が決心さえすれば、ここにいる皆さんだって拉致する事が出来る。
今現在でもそういうことが、日本の警備状況ではないかと思います。

次に死んだと言ってるわけですね、8人を。
市川さんは79年に死んだといってるわけですが、私は91年に見ているわけです。
これは矛盾する。

それから田口さんは86年に死んだと言ってるんですね、北は。
しかし91年に話を聞いていると。
ここで確実に生存を確認出来ると。

それからめぐみさんは私が向こうにいたときには、91年以降確認していませんが、ソウルに来てから入手した有力な情報によると95年前後の2年間、金正日の息子の誰かひとりの日本語教師をしていると。
95年が入ってるんですね。
めぐみさんは94年に自殺したといわれているんですが、95年前後の2年間、金正日の息子の一人の日本語教師をしていると、私がソウル入手した情報ですけれども、かなり信憑性がある情報によれば生きていると。

ここで死んでるか生きてるかと言うことを検証するまでも無くて、北朝鮮が死亡の証拠として出してきたのは判子、ゴム印を押した書類だけなんです。

遺骨も本物は一体も来てないんですよね。
北朝鮮は1950年に起きた朝鮮戦争で死んだの米兵の遺骨も、お金が欲しくて発掘してアメリカに売ってるんです。
50年代に死んだ人間の遺骨も出てくるのに、そのあと自分達が徹底的に管理していた日本人の骨が一体も出てこないことがあるでしょうか?

北朝鮮の発表を少しでも信じてしまおうとする日本人の思考方式をまず変えなくちゃならない。
北が死んでるからといっていちいち点検する必要性さえもないんだと。


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