市川龍子さんのお話 2
ご存知のように2002年の9月17日、本当に私たちにとっては大打撃でした。
植竹(外務)副大臣に本当に食って掛かりました。
主人はちょっと穏やかって皆さんおっしゃるんですが、私はもう怒りがもう頂点突き抜けてるんです、本当。
だから植竹さんにも食って掛かりました。
「殺したんでしょうが!」
ってですね。
植竹さんに言ってもどうしようもないんですけど、それくらいどこに怒りをぶつけていいか分からなかったんです。
2002年10月15日ですか、5人の方は帰って来られました。
あのメンバーのなかに修一がいたらなぁって。
もしかしたら安倍さんの後ろから出てくるんじゃないか?
誰か一人降りてくるんじゃないか?修一が降りてくるんじゃないか?って。
そういうかすかな期待もその時ありました。
でも残念でした。
その時は帰国者の喜びの涙と、無念の涙が入り混じった15日でした。
いつも私が歌を言うんですけどもこれも皆様ご存知でしょうか?
どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
星も凍てつく雪山に 母はひな鳥捨て置かぬ
腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
千里万里はいとわない 可愛い我が子に会えるなら
親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯がゆさよ
これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ
この歌があります。
本当に早紀江さんの心情、有本恵子ちゃんのお母さんの心情、うちの母の心情を本当に歌った歌だと思います。
でも安明進さんの目撃証言の後から、さっき主人が言いましたように母は修一の衣装箱を開けるようになりました。
毎年虫干しをするようになったんです。
今となっては着れる状態の服じゃないです。
センスも違いますし。
それでも毎年毎年、母は衣装箱の中から虫干しするようになったんです。
母はもちろんですけども、私たち夫婦も23歳のあの修一のこの顔しか私たちには思い浮かびません。
また私は自国民の救出に手をこまねいている日本国にあきれ果てて、腹を立てて、情けなくて。
拉致の実態を知ってもらうために横田代表たちと一緒にロスまで行かせて頂きました。
ロスの市民は怒っておりましたよ?
「それでも日本国か?日本国民か?どうしてあなたたちがここまで来なくちゃいけないんだ!」
と言ってですね、怒り狂っていらっしゃいました。
でも同情の涙、共感の涙に変わって、「ロスから修一さんたちを助け出してみせる」といってですね、固い約束もしていただきました。
ブッシュ大統領に3回手紙を書きました。
・助けてと頼みの綱はただ一人 三度(みたび)の便りに願いをこめて
本当に3回手紙を出しました。
それから自負かどうか知りません。
その、まあ、ブッシュの態度もちょっとこう、変わってきてるんじゃないか?と思ってるんですけども。(笑い声)
胡錦濤さんにも手紙を書きました。
でも中国に今馬鹿にされている状態ですよね?
これで日本国国家と言えますか?
私はこの後いつも主人に怒られるんです。
「お前は言い過ぎだ」と言われるんですよ。(笑い声)
「もう国のこと政府のことは西岡先生らに任せておけばいい」って言うんですけど、私は怒りが収まらないんです。
本当ですよ?
分かっていただけますよね?(拍手)
主人の父も90になるんです
ただひたすらわが子の帰りを待っているんです。
毎朝発する言葉はですね。
「お父さん、修一が帰ってくるまでは何としても元気な体で修一を迎えてやりましょうね」って言って。
自分で無農薬の野菜を作って食べていますよ?
お互いに食事に気をつけてですね。
お互いに二人で一人前だって言ってかばい合いながら、頑張っています。
30年同居しています、30年以上です。
もう手に取るようにわかります、私には。
もう切なくなってくるんです。
朝に夕な仏壇に手を合わせております。
母の背中もだんだんだんだん小さくなってきております。
食卓や部屋のあちこちとか庭の池の周りとかには、可愛い蛙の人形がですね、あちこちに置いてあるんです。
「修ちゃん帰る。必ず帰る」って私が全部、どんなちっちゃな蛙にでもですね。
もう何百個ってあります。
ちっちゃな蛙にも、手書きをしてですね。
その文句を入れて、あちこちに蛙が置いてあるんです。
最初この蛙を見たとき、母が泣き出したんです。
「泣くんだったら蛙引っ込めるよ、私は!」って私言ったんです。
そしたら
「いやそうじゃない龍子さん、このおどけた蛙の顔を見て、ちょっと慰められて笑みが出てくる」
って言ってですね。
泣き笑いをしております。
もう本当にもう私はたまりません、もう。
署名活動なんかでですね。
小さな子らが署名してくれたり、たどたどしい字で署名してくれたり、なけなしのお小遣いをポトンと入れたりしてくれます。
私はそんな子供たちが、子供や孫やひ孫がですね。
「安心して安全に遊べる日本列島にしてあげるからね、必ずするからね」って約束します。
それでなければ400人以上と言われてますが。
その400人が「日本人は目を覚ましてくれ!」って叫んでるんじゃないかな?って私は思ってるんです。(拍手)
るみ子ちゃんのお父さんが残念ながら亡くなりました。
私はるみ子ちゃんの(お父さんの)霊前で弔辞を読ませていただきました。
「お父さん、絶対に世界の世論を高めてるみ子ちゃんを助け出してみせるから、安心して逝ってね」
って、私は弔辞を読ませていただきました。
その通り今ボチボチとですが、北朝鮮の人権問題に世界が注視するようになっております。
なんとしてもこの独裁政権は打倒しなければ。
私たちは北朝鮮全体を打ちのめせって言ってるんじゃないんです。
むしろ北朝鮮の一般民衆を救ってやるのは今だと私たちは思って、この活動を続けているんです。(拍手)
今はですね、話は飛び飛びになりますが。
歩くことも困難になった父ですが私は車椅子を押してでもですね、羽田のタラップの下で修一を迎えさせてやりたい。
また母にはこの大島紬を着せてですね、修一を迎えさせてやりたい。
ただその一心で夫婦して頑張っておりますが。
いつも母が、私もお勤めしております。
お勤めの休みを返上して署名活動とかいろんなところに出かけて行きます。
母がいつも言う言葉は、
「気を付けて行ってね、頑張ってね、ご苦労さんね、お願いしますね、頼みますね」
って言って送り出すんです。
しっかり留守を守ってくれています。
本来ならば子や孫やひ孫に囲まれて楽しい余生を送っている歳です。
一日も早くこの母にですね、一刻も早くです。
母の胸に、病に伏せっている姉の胸に、弟修一を抱かせてやりたいただそれ一心なんです。
そして拉致被害者、特定失踪者、日本人全員の無事の帰国を、その日まで本当に皆さん今一度もう一歩、皆さんの声で世論の高まりで助けていただきたいと思います。(拍手)
短歌が好きなので詠ませてください。
これも聞かれたと思いますが、極寒の地でまた27年目の冬を迎えました。
・巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け春を信じて
・北の果て木々(木々だと思うのですがここだけはっきり聞き取れず)を偲びて
幾年(いくとせ)か 老いたる母のしわの重さよ
・故郷(ふるさと)に想いを馳せる弟よ 救いの手立てにいらだち募る
・遅々として進まぬ異国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は
・彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
・老いていくわが身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱く(いだく)夢見て
・彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして
・またしても騙され続ける日本国 国家の誇り取り戻せ今
皆さんもう一度、今一歩ご協力お願いいたします。
ありがとうございます。(拍手)
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ご存知のように2002年の9月17日、本当に私たちにとっては大打撃でした。
植竹(外務)副大臣に本当に食って掛かりました。
主人はちょっと穏やかって皆さんおっしゃるんですが、私はもう怒りがもう頂点突き抜けてるんです、本当。
だから植竹さんにも食って掛かりました。
「殺したんでしょうが!」
ってですね。
植竹さんに言ってもどうしようもないんですけど、それくらいどこに怒りをぶつけていいか分からなかったんです。
2002年10月15日ですか、5人の方は帰って来られました。
あのメンバーのなかに修一がいたらなぁって。
もしかしたら安倍さんの後ろから出てくるんじゃないか?
誰か一人降りてくるんじゃないか?修一が降りてくるんじゃないか?って。
そういうかすかな期待もその時ありました。
でも残念でした。
その時は帰国者の喜びの涙と、無念の涙が入り混じった15日でした。
いつも私が歌を言うんですけどもこれも皆様ご存知でしょうか?
どこに我が子がいるのかと 捜しましたよこの母は
すがる術ないしがらみで 涙こらえる忍冬(すいかづら)
星も凍てつく雪山に 母はひな鳥捨て置かぬ
腹を痛めた可愛い子を 命かけても連れ戻す
千里万里はいとわない 可愛い我が子に会えるなら
親子絆の赤い糸 手繰り続ける歯がゆさよ
これが地獄と言えぬなら 他に地獄がありますか
生きて子どもが帰るまで 望み捨てずに春を待つ
この歌があります。
本当に早紀江さんの心情、有本恵子ちゃんのお母さんの心情、うちの母の心情を本当に歌った歌だと思います。
でも安明進さんの目撃証言の後から、さっき主人が言いましたように母は修一の衣装箱を開けるようになりました。
毎年虫干しをするようになったんです。
今となっては着れる状態の服じゃないです。
センスも違いますし。
それでも毎年毎年、母は衣装箱の中から虫干しするようになったんです。
母はもちろんですけども、私たち夫婦も23歳のあの修一のこの顔しか私たちには思い浮かびません。
また私は自国民の救出に手をこまねいている日本国にあきれ果てて、腹を立てて、情けなくて。
拉致の実態を知ってもらうために横田代表たちと一緒にロスまで行かせて頂きました。
ロスの市民は怒っておりましたよ?
「それでも日本国か?日本国民か?どうしてあなたたちがここまで来なくちゃいけないんだ!」
と言ってですね、怒り狂っていらっしゃいました。
でも同情の涙、共感の涙に変わって、「ロスから修一さんたちを助け出してみせる」といってですね、固い約束もしていただきました。
ブッシュ大統領に3回手紙を書きました。
・助けてと頼みの綱はただ一人 三度(みたび)の便りに願いをこめて
本当に3回手紙を出しました。
それから自負かどうか知りません。
その、まあ、ブッシュの態度もちょっとこう、変わってきてるんじゃないか?と思ってるんですけども。(笑い声)
胡錦濤さんにも手紙を書きました。
でも中国に今馬鹿にされている状態ですよね?
これで日本国国家と言えますか?
私はこの後いつも主人に怒られるんです。
「お前は言い過ぎだ」と言われるんですよ。(笑い声)
「もう国のこと政府のことは西岡先生らに任せておけばいい」って言うんですけど、私は怒りが収まらないんです。
本当ですよ?
分かっていただけますよね?(拍手)
主人の父も90になるんです
ただひたすらわが子の帰りを待っているんです。
毎朝発する言葉はですね。
「お父さん、修一が帰ってくるまでは何としても元気な体で修一を迎えてやりましょうね」って言って。
自分で無農薬の野菜を作って食べていますよ?
お互いに食事に気をつけてですね。
お互いに二人で一人前だって言ってかばい合いながら、頑張っています。
30年同居しています、30年以上です。
もう手に取るようにわかります、私には。
もう切なくなってくるんです。
朝に夕な仏壇に手を合わせております。
母の背中もだんだんだんだん小さくなってきております。
食卓や部屋のあちこちとか庭の池の周りとかには、可愛い蛙の人形がですね、あちこちに置いてあるんです。
「修ちゃん帰る。必ず帰る」って私が全部、どんなちっちゃな蛙にでもですね。
もう何百個ってあります。
ちっちゃな蛙にも、手書きをしてですね。
その文句を入れて、あちこちに蛙が置いてあるんです。
最初この蛙を見たとき、母が泣き出したんです。
「泣くんだったら蛙引っ込めるよ、私は!」って私言ったんです。
そしたら
「いやそうじゃない龍子さん、このおどけた蛙の顔を見て、ちょっと慰められて笑みが出てくる」
って言ってですね。
泣き笑いをしております。
もう本当にもう私はたまりません、もう。
署名活動なんかでですね。
小さな子らが署名してくれたり、たどたどしい字で署名してくれたり、なけなしのお小遣いをポトンと入れたりしてくれます。
私はそんな子供たちが、子供や孫やひ孫がですね。
「安心して安全に遊べる日本列島にしてあげるからね、必ずするからね」って約束します。
それでなければ400人以上と言われてますが。
その400人が「日本人は目を覚ましてくれ!」って叫んでるんじゃないかな?って私は思ってるんです。(拍手)
るみ子ちゃんのお父さんが残念ながら亡くなりました。
私はるみ子ちゃんの(お父さんの)霊前で弔辞を読ませていただきました。
「お父さん、絶対に世界の世論を高めてるみ子ちゃんを助け出してみせるから、安心して逝ってね」
って、私は弔辞を読ませていただきました。
その通り今ボチボチとですが、北朝鮮の人権問題に世界が注視するようになっております。
なんとしてもこの独裁政権は打倒しなければ。
私たちは北朝鮮全体を打ちのめせって言ってるんじゃないんです。
むしろ北朝鮮の一般民衆を救ってやるのは今だと私たちは思って、この活動を続けているんです。(拍手)
今はですね、話は飛び飛びになりますが。
歩くことも困難になった父ですが私は車椅子を押してでもですね、羽田のタラップの下で修一を迎えさせてやりたい。
また母にはこの大島紬を着せてですね、修一を迎えさせてやりたい。
ただその一心で夫婦して頑張っておりますが。
いつも母が、私もお勤めしております。
お勤めの休みを返上して署名活動とかいろんなところに出かけて行きます。
母がいつも言う言葉は、
「気を付けて行ってね、頑張ってね、ご苦労さんね、お願いしますね、頼みますね」
って言って送り出すんです。
しっかり留守を守ってくれています。
本来ならば子や孫やひ孫に囲まれて楽しい余生を送っている歳です。
一日も早くこの母にですね、一刻も早くです。
母の胸に、病に伏せっている姉の胸に、弟修一を抱かせてやりたいただそれ一心なんです。
そして拉致被害者、特定失踪者、日本人全員の無事の帰国を、その日まで本当に皆さん今一度もう一歩、皆さんの声で世論の高まりで助けていただきたいと思います。(拍手)
短歌が好きなので詠ませてください。
これも聞かれたと思いますが、極寒の地でまた27年目の冬を迎えました。
・巡り来る凍てつく冬の到来に 断じて生き抜け春を信じて
・北の果て木々(木々だと思うのですがここだけはっきり聞き取れず)を偲びて
幾年(いくとせ)か 老いたる母のしわの重さよ
・故郷(ふるさと)に想いを馳せる弟よ 救いの手立てにいらだち募る
・遅々として進まぬ異国の話し合い 老いたる母に笑みの来る日は
・彼の国へ飛んで行きたい今すぐに 翼が欲しいと母の声かな
・老いていくわが身に鞭を打ちながら 愛しい吾子(あこ)を抱く(いだく)夢見て
・彼の国で助けを求める弟に 届けとばかりに声を枯らして
・またしても騙され続ける日本国 国家の誇り取り戻せ今
皆さんもう一度、今一歩ご協力お願いいたします。
ありがとうございます。(拍手)
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