昨日のメモにも書いたように、このあと新しい歌を探すのは時間がかかりそうな見通しなので、ここで一度参考文献を整理しておきたい。今回は、貞国の狂歌が記載してある文献を順不同で。
「近世上方狂歌叢書 九」 西島孔哉 編
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」都立中央図書館本の全編を収録し、西島先生による広島の狂歌壇についての解説も載っている。
「狂歌逍遙 第2巻 」 吉岡生夫 著
「狂歌家の風」から代表作9首を引用して語句を解説してある。
『狂歌桃のなかれ』書誌・影印・翻刻 中野眞作 著
桃縁斎貞佐の芸備の門人による歌集で柳縁斎貞国の歌は12首入っている。参考文献に「狂歌家の風」享和二年版の存在が記してある。
「尚古」 広島尚古会 編 参年第八号 「栗本軒貞国の狂歌」 倉田毎允 著
貞国の歌を37首記載してある。長い詞書を持つ歌も数首あり、歌集かそれに近いものからの引用もあったと思われるが出典の記述はない。貞国が苫の商いで裕福であったこと、京都の門人360人によって辞世の碑が建てられたのとの記述もあるが、これらもソースは書かれていない。貞国没から百年経っていない時期の著述であり、伝承の可能性もある。
「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」 柳井市立柳井図書館 編
貞国の歌12首を収録、出典は書かれていないが周防の弟子たちの資料による晩年の作が入っていると思われる。貞国から周防に伝えられたとする柳門の系譜を詳しく書いてある。
「広島県大野町誌」 大野町郷土誌編さん委員会 編
妹背滝で詠んだとされる貞国の歌一首が載っているが、出典の記述はない。大野村にあったという貞国を師匠とする狂歌連「別鴉郷連中」の記述があり、寛政二年の人丸社の勧請はこの狂歌連が願主となって行われたとある。年表によると、「松原丹宮代扣書」または「人丸社棟木札」のどちらかに「別鴉郷連中」の記述があるようだ。また、大野村の門人であった大島家蔵の「玉雲流狂歌誓約」や貞国筆の掛け軸(判読困難)の写真、さらに追加で貞国の歌があるという文化三年の歌会の文書の存在も記されている。この大島家文書には、まだ活字になっていない貞国の歌が残されているように思われる。
「五日市町誌 上巻」 五日市町誌編集委員会 編
「芸陽佐伯郡保井田邑薬師堂略縁起並八景狂歌」に追加として載っている貞国の歌一首、保井田村の門人佐伯貞格に与えた「ゆるしふみ」の写真にも「柳門正統第三世栗本軒貞国」の歌一首、また貞格詠「狂歌あけぼの草」梅縁斎貞風による序文冒頭に置かれた貞国の歌一首の記載もある。さらに、すべて尚古と重複する貞国の歌7首の記載があるが、出典の記述はない。表記を比較したところ、尚古を引用したと思われる芸備先哲伝から引用したようだ。それから柳門四世貞風という記述もあり、玖珂の栗陰軒貞六だけでなく広島にも柳門四世を名乗る門人がいたことがわかる。
「沼田町史」 広島市 編
伴村出身で大和国で開業していた医師の天保年間の日記、「岡本泰祐日記」に冠字披露のすりものにあったという貞国の歌一首の記載がある。また、天保四年に貞国の死をしらせる書状を受け取ったという記述もある。
「加計町史 上巻」 加計町 編
文化年間に貞国が吉水園を訪れた時の歌二首(吉水録)と、龍孫亭書画帳に貞国が記帳した歌一首が記載されている。
「内海文化研究紀要 11号」 広島大学文学部内海文化研究室 編
永井氏蔵の屏風に張り付けられた貞国の懐紙と短冊の写真があり、各一首ずつ歌が入っている。短冊は狂歌家の風にもある寄張抜恋の歌を辞世の碑と同じ五段に分けて書いている。懐紙には柳縁斎貞国とある。
「徒然の友」 味潟漁夫 (入沢八十二) 編
「貞国のはなし」に貞国の歌一首、また「仏護寺といふ事」の中に貞佐の歌一首(辞世ではない)も見えるがどちらも出典の記述はない。
「日本庭園史大系 第24巻」 重森三玲 著
吉水園の来遊者の資料として吉水録にある貞国の歌二首の記載がある。加計町史とは一文字だけ読みが違う箇所がある。
「柳井市史 各論編」 柳井市史編纂委員会 編
「柳井地区とその周辺の狂歌栗陰軒の系譜とその作品」にもあった貞律入門時の貞国の歌一首がある。また、貞国を経て周防へ伝わったとする柳門の系譜を載せている。
「山県郡史の研究」 名田富太郎 著
貞国は狂歌の指導のためにしばしば加計を訪れたとあり、道中で詠んだ歌二首と山県郡都志見村の駒ヶ瀧で詠んだ歌二首をのせている。出典は、「都谷村 石川淺之助氏所蔵古文書」とある。また、吉水園の項に「加計町史」と「日本庭園史大系」が吉水録から引用した二首と同じ歌が載っているが、出典の記述はない。注目されるのは、この二書と同じ詞書のあとに「栗の本の貞国」と二書にはない作者名が入っていることで、これは私の家に伝わる掛け軸の「栗のもとの貞国」と同じ書き方になっている。
「広島県人名事典 芸備先哲伝」 玉井源作 著
種々の通史に引用されているが、尚古からの引用が多いようだ。聖光寺の辞世の歌は散るや残らぬが漢字を使っていなくて、尚古と同様に「人さへも」の「も」が欠落している。また、辞世以外にも尚古にある歌の中から六首をのせていて、これらも尚古とは漢字の使い方が違っている。しかし辞世の表記を見る限り、別資料からの引用というよりは、尚古から引用する際に漢字の使い方は筆者の好みに書き換えた可能性が高いように思われる。すると京都の家元から号を得たとか87歳没も尚古からの引用だろうか。