栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801刊)、今日は画賛の部から一首、
樹下に辻君の絵に
辻君と木の下陰を宿とせははなや今宵の名残ならまし
平家物語「忠度最期」にある薩摩守忠度の歌の本歌取りである。引用してみよう。
「薩摩守今はかうとや思はれけん、「暫し退け、最後の十念唱へん。」とて、六彌太を掴うで、弓長ばかりぞ投げ退けらる。その後西に向ひ、光明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨と宣ひも果てねば、六彌太後より寄り、薩摩守の首を取る。好い首討ち奉つたりとは思へども、名をば誰とも知らざりけるが、箙に結び附けられたる文を取つて見ければ、旅宿花と云ふ題にて、歌をぞ一首詠まれたる。
行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし 忠度
と書かれたりける故にこそ薩摩守とは知りてけれ。」
これをふまえて貞国の歌をみてみよう。辻君とは、夜道に立って客を誘う下級の娼婦で、夜鷹とも言った。樹下に辻君の絵ということから、上の句の状況はわかる。しかし下の句、忠度の歌で「主」のところが「名残」になっているのがよくわからなくて、しばらく放置していた歌だ。きっかけは人倫狂歌集の「夜鷹そばうり」の歌を読んだ時にヒントになる歌があった。
はなのさき落るやうなるさむさには夜たかそはさへ恋しかりけり
よたかてふ名のつけはとてそは切の大根からみもはなへぬけたり
これだけでは、はっきりしないと思われるかもしれないが、この人倫狂歌集には「よたか」と題した歌もある。その中には、
月かけのさゆる夜鷹は折助か鼻のしやうしもはつすなるへし
春の夜のやみはあふなし辻君をかふ折助のはなやかくるゝ
入相のかねつき堂のよたからはいつしかはなも寂滅ときく
とあって、これではっきりしたと思う。折助は武家の下男で折助根性と揶揄されることもあって下級娼婦の辻君・夜鷹とはお似合いの取り合わせだったようだ。一首目の鼻の障子は鼻の左右の穴を隔てている壁で、夜鷹が折助の鼻の障子を外すとある。二首目は古今集の躬恒の歌、
春のよのやみはあやなし梅花色こそ見えねかやはかくるゝ
の本歌取りで、辻君を買う折助の鼻が隠れるとある。三首目に至っては夜鷹の鼻も寂滅と恐ろしい表現になっている。なお、この歌の「いつしか」は古文で習う意味というよりも今と同じ使い方のようだ。また、江戸で夜鷹、上方で辻君と書いたものもあるが、この歌集では二つが混在していて、意味の差ではなく文字数で使い分けているように思われる。
この三首はいずれも、辻君、夜鷹が感染している梅毒で鼻が落ちると詠んでいる。夜鷹そばうりの二首も、おそらく同じことを詠んでいるのだろう。貞国の歌もそれと同じ趣向で、辻君と一夜を共にしたら、鼻や今宵の名残、と詠んでいることになる。私なら、いくら辻君の絵であったとしても、このような賛を入れて欲しくないと思うのだけど、それは現代人の感覚との違いなのだろう。ぶつぶつ言っても仕方ないことだ。
人倫狂歌集には女郎と題した歌もあり、吉原の遊女が詠まれているけれど、こちらの二十首の中には鼻が落ちる歌は無い。ウイキペディアの梅毒の項をみると、「江戸の一般庶民への梅毒感染率は実に50%であったとも推測される 」とあって、それなら当然吉原の遊女もかかっていたはずだが、鼻が落ちると詠まれるのは辻君・夜鷹だけのようだ。当時の固定観念なのか、あるいは鼻に異状が出るのは末期の症状であることから辻君・夜鷹の過酷な労働状況がそうさせたのか、人倫狂歌集の夜鷹の他の歌には、
孝行のためにうられし夜鷹とてあたひを廿四とや定めし
あけ代は廿四もんにうれはにやしろくみえぬる辻君の顔
夜鷹に払う代金は二十四文、二八蕎麦が十六文であるから随分安く、その分、数をこなしたとも言われている。また、
そはの名のよたかの年は四十ても二八のやうにつくりてそ出る
鳥の名の夜たかといへは其中に四十からなるふり袖もみゆ
四十歳ぐらいと見られていたような歌もある。元は女郎だったのが落ちぶれたケースもあったのか。こうした労働条件からも、辻君・夜鷹の方だけ鼻が落ちると言われたのかもしれない。しかしまあ、当時の差別偏見とみるのが普通だろうか。
今回あまり気持ちの良いお話ではなかったけれど、遊女を詠んだ狂歌は数多くあり、雪月花と同じように題材の一つであり、狂歌を語る上で避けて通れないということでご容赦いただきたい。また、人倫狂歌集には下層の職業も出てきて、今の目からみると詠みっぷりは偏見差別にあふれているのだけれど、それが文字として、歌に詠まれた感情として今に残っているということは、それなりに意味のあることだと思う。