阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

短歌 その4 (2011年)

2014-04-19 11:23:53 | 短歌(まとめ)

 

 

       安佐サッカー大会 

  せり合ったあかしの深きあしあとをならすトンボに春の風吹く

 

       悲震災

  双葉なる市町村会提供の絵皿かかげた十七の君

  優勝の幸せ胸に見た海がなぜ家をのむなぜ祖母をのむ 

  東電とかかわり深き場所なれどピッチの上のヘリぞかなしき 

  今月は会えぬ君から頼まれたJヴィレッジの良太の写真

 

       応援心

  90分叫び続けて1センチ押せたかどうか でもたぶん愛

 

       牧のうどん

  博多なる牧のうどんの汁吸いて麺増えゆくをひたすらに食う

 

        啓太君母上曰

  牛肉はノムラじゃないと 子供らの胃袋語る三篠川橋

 

       夏夕猫 

  川土手の石にひっついてる猫の気持ちわからぬ夏の夕闇

 

        すし蔵浜田本店

  イカ納豆置かぬ寿司屋にゃ行かないっと決まり文句で もう一皿じゃ

 

        李忠成は立ち上がりのゴール多ければ

  友の会ナルミさんらが見逃したチュン君ゴールは前半2分

  あっち側チュン君ゴールの解説は一番遠目がきくハルキ君

 

       サンカレー 

  八丁堀福屋の裏のサンカレーは水を飲まずに上あごで食え

 

       Nちゃんと打ち上げ

  O型と思っていたよとゆっている芋焼酎は二杯目にして

 

      タイミング 

  キーパーのキャッチのたびに声止めて左目で見る君の横顔

 

       あんかけスパ

  三口まで微妙なれどもじわじわと名古屋に染まるあんかけスパかも

 

       1年生

  GKのフィードをトラップふりむいて低く走ればヒビキの見せ場

  右上にループを決めてワッと叫ぶトワをし見れば物思ひもなし

 

        逃恋

  荷物のけ隣を指せば体よじりウナギのように逃げてゆく君

 

 


ランダムにサンフレ昔話 その10 洋次郎の海

2014-04-19 09:49:33 | サンフレ昔話

 数日前に洋次郎がパパになったといううれしいニュースが入ってきた。今回は洋次郎が故郷に錦を飾った2003年8月3日のクラブユース選手権決勝(Jヴィレッジスタジアム)について書いてみたい。ご存知のように3年前の大震災で大津波がこの地域を襲い、洋次郎の実家や家族にも大変な被害があった。また、この大会の会場であったJヴィレッジは東電の資金で作られており、今や原発事故と無関係に語るのは難しい。しかしながら、2011年3月11日のことをふまえて03年のJヴィレッジのことを書くのは、私の能力を超えている。そこで03年当時書いた文章をそのまま読んでいただくことにする。したがって、内容がおちゃらけているのはご容赦いただきたい。選手の説明を本文に挿入するのは面倒なので、最初に予備知識として書いておく。当時のチーム構成は、3年に田村祐基、西山貴永、田坂祐介、2年が藤井大輔、洋次郎、一誠、森脇、くわしん、佐藤アキ、冨成慎司、大屋翼、1年に槙野というのが主なベンチ入りメンバー。2年前田俊介はJヴィレッジに入ってから怪我して離脱、1年柏木陽介はまだベンチ外だった・・・

 土曜日の平塚でのゲーム前、ユースの準決勝はとっくに終わってるはずなのにS子さんも知らないし情報が入って来ない。メインスタンドの向こうに夕焼けの富士山が美しかったけど、ちょっとイライラしながらサポの後ろに加わった。

 ゲームは相手前半唯一のシュート決められてこっちは動き悪い。一人だけ元気で動きのいい茂木はシュート入らん、ってぶつぶつ言いながらハーフタイムの集合場所にしてたS子さんの席に行ったけど見当たらない。しばらくそこでぼんやりしてたら、サポのたすきの中から走って戻ってくるのが見えた。かなり向こうから、いい知らせだとわかった。「勝ったよ、Vゴールだって!」 なんとS子さん、サポの中にいた吉田安孝さんに思い切って聞いてみたそうで、そしたらゴリさんに電話してくれたそうだ。私にはそういうことはできんな。昨日の朝、中電坂Gでトップの前日練習見てそのまま海田市から鈍行で東へ向かったから、家を出るときはメンバーわからず幕3枚(龍朗、洋次郎、ユース必勝)ともカバンに入ってる。もしユース負けてたら1枚も出さずに無駄に持ち運んだ事になるところだった。トップはぶさいくなゲームでそのまま1点が返せずタイムアップ。でも、私は落ち込んではいられない。ブーイングし始めたサポから抜けて自分の荷物まとめてS子さんの下田幕のところへ。相手サポは「ラララ~」って勝手にシンドバッド歌ってる。幕をくるくる巻くの手伝って外へ。

 シャトルバスは出たばかりで、Yさんから満員にならないと出ないと聞いてたのでタクシー拾って平塚21時29分発の東京行きに間に合った。「品川が好き」というS子さんの意見で品川で乗り換えて御徒町でS子さんと別れてカプセルホテルへ。滞在時間が短いからネットカフェでもいいんだけど、昨夜も大垣夜行で汗ベトベト足パンパンだから、風呂入ってお尻以外のところつけて寝たい。フロの中で今日一日を振り返ると、トップは全然ダメだったけど、久しぶりにS子さんや運良く東京駅で新潟へ向かう栗原ファンのYさんにも会えたし、そして何より、ユースの勝利で帰りの夜行に乗らずにすんでフロに入れて明日はJヴィレッジのスタジアムで決勝見れる。昨日は中電坂Gの前日練習で龍朗も洋次郎も入ってなくてH軍団の人にぶつぶつ言っちゃったけどね、平塚だけで帰る人には悪いことしちゃったな・・・。カプセルに戻ったら11時半、5時半にアラームをセットして、まあ、ぐっすり寝たと思う・・・

 ふと目がさめたら4時18分、常磐線の始発に間に合う。早く行って情報収集するのもいいかなと思って急いでカオ洗って着替える。もちろん洋次郎の35番レプリカ。外へ出て、線路と平行に上野駅に向かって歩く。改札で18きっぷに8月3日の日付入れてもらって9番ホームへ。前の方にロングシートじゃない車両あったからそこに座る。同じボックスに座った人が話しかけてきて、その人は柏サポだという。Uちゃんはレプリカ着た私と一緒に歩きたくないと言うけれど、レプリカ目印に話しかけてくる人もいるから、レプリカ着ての一人旅も面白いと思うけどな。私は昨夜のJ1ファーストステージ最終節の結果知らないから聞いてみたらこの人も他所の結果は興味ないから知らないと言う。サンちゃんやケンさんの話してたら柏に着いて降りていった。

 7時48分高萩で下車。1本遅らせてもどうせいわきで一緒になるから、始発に乗れたときは降りてみようと思ってた。まず窓口で入場券を買う。昨日だったら洋次郎の誕生日だったのに、トップのへぼ試合を見たばっかりに・・・スポーツ紙買ったら、今日の相手は浦和ユース、J1はFマリのVってやっとわかった。10分後の次の電車に乗るために再びホームへ。女子高生のグループがこっち見てるから、わざと背中向けて「萩洋次郎」って洋次郎が書いてくれたサインを見せる。しっかり名前覚えとけよって感じだけど、広島で太郎さんはルンペンの名前だから、高萩にもそーゆー人がいたらイヤだな・・・

 さらに20分乗って、福島県の最初の駅が関所で有名な勿来、その次が植田、洋次郎の中学校と同じ名前で、実家もこのあたりなのかな。

 8時50分いわき着。駅前で朝食買って2両編成のワンマンカーに乗り込む。システムは芸備線と同じだけど、ドアの開閉は乗客がボタンで行うみたいで、「無人駅では、後ろの車両のドアは内側からは開きません」というアナウンスは独特だ。9時41分、木戸着。駅前の酒屋の向こうの三叉路を左に折れて歩いていく。ちょっと坂道を登って振り返ると水田の向こうに太平洋が広がっている。2年前に田森君を応援に来たときも見たはずの風景だけど、洋次郎のふるさとの海だと思うとちょっと違って見えた・・・

 15分歩くとJヴィレッジのセンター棟が見えてくる。ロビーに入るとダイスケの母と姉がいて、昨日は洋次郎のVゴールだった事を知る。トップのへぼい試合を選択したばっかりに、洋次郎17歳のバースデーVゴールを見逃してしまったと思いっきり後悔。そのあとは、スタッフが通りかかる度に笑顔で挨拶。塩さん、寮長さんと握手。トレーナーのナベさんによると、俊介が怪我で帰ってしまった以外は怪我人も出場停止もなく調子は上々とのこと。高橋シンさんも聞きもしないのに「大丈夫!」って自信ありそうだ。ゴリさん「勝ちます」こっちはあまり当てにならん。選手たちも一回チェックアウトしないといけないみたいで、荷物の移動のためロビーを横切った。洋次郎はまっすぐこっちを見て「こんにちは!」もう気合が入ってるようだ。ほかの選手も表情が明るい。去年のJユース決勝で長居スタジアムに入っていく選手たちを見送った時とは全然違う。今日は違う色のメダルがもらえるんじゃないかという期待がますます大きくなる。12時前までロビーでトーナメント表を眺めたりして時間をつぶしてからスタジアムへ移動。くぼ地の1番ピッチの横から遊歩道がつながっていて、アップダウンがけっこうあったけど、ヤマユリや桔梗が咲いてて荷物さえなければステキな山道だった・・・

 最後の上り坂を上がったらそこはメイン側の一般人は立ち入り禁止区域で、関係者受付の人になんでそっちから来るんだという目で見られたけど、わたしゃ案内板どおりにたどって来ただけだからね・・・。はいはい出て行きますよってアウェイゴール裏にある入り口に回って12時半の開門を待つ。パンフ売りのおっちゃんたちと話したら、やっぱりここは福島県、茂木の知名度抜群だね。そしてご当地選手の洋次郎も。また背中見せたらびっくりしてた。

 開門直前に前田カズと桂ちゃんのママも到着。2年前田森君の時の準決勝敗退が今までで最高の成績だったから、ユースがJヴィレッジのスタジアムでゲームをするのは初めて。ずっとここでやりたいと思ってたんだよね、って話をしているうちに開門。気がつけば50人以上の人、楽しみにしている地元の人も多いようだ。スポンサーのサントリーからダカラ、アディダスからスパイクのキーホルダーもらって、次は幕を張らなきゃ。今日は必勝幕のほかに、洋次郎幕も初めて出そうと思う。実はこの幕、ほかの父兄の目もあるし(トップの小野監督が3年生を全然評価してくれないからね、2年生ばっかりひいきしてって・・・)、ユースでは出さずにトップで出たときにデビューさせようと思ってた。だから、今回もユースで出すためじゃなくてトップで出る可能性を考えて持ってきていた。でも、さっき、洋次郎の海(勝手に命名)を見たときに、ここで出したい、という気持ちが強くなった。幕2枚持ってバックスタンドホーム側にしっかり張った。

 ホームのゴール裏は通れないからぐるりと回ってメインホーム側のペナのあたりに荷物を置く。桂ちゃんパパやウマパパも今回は行けるんじゃないかと口をそろえる。トオルも私のところに来て、今回20人(今は俊介帰って19人)のメンバーに入れなくて自費で来たと言う。コウジや駒野も1年生の夏はBチームで全広島に出てたんだよって得意の昔話をしてたらピッチから槙野が近づいてきて、「フラッグ余ってませんか?」って。どーしてか聞いたら、ゴリさんのシナリオでは、V決定の瞬間、槙野がフラッグ振りながらピッチに乱入する事になってるらしい。ゲーム前にそういう話をしてるところがゴリさんらしいけど、そんな事してもいいんだろーか?とにかく、ロスタイムにベンチ横に私のフラッグ持って行く約束をした。

 1時57分、選手入場。そのときバックスタンドの後ろから10発ほど花火が上がる。私も気合を入れ直してフラッグを掲げる。コイントスに勝った桂ちゃん向こうのピッチ取って前半はこっちに攻める。キックオフ直後から、洋次郎がサイドにいいパス出して何度もチャンス作る。馬屋原のポストプレーから西山のドリブルも出ていいリズムになってきた。最近守備で苦戦してる田坂も前でプレーしてるから問題ない。「まだこれからだ、顔上げろ」相手選手の声が飛ぶ。まだ0-0なのに、かなりのプレッシャーを受けているようだ。勝負には相手の嫌な事をするって要素が重要だっていつも言ってるんだけどね、洋次郎はそういう事がわかってる選手で、きれいに点を取ろうなんてあまり考えてないようだ。今日の洋次郎はピッチのどこにでも顔を出してしつこく相手にプレスかけて、たちの悪い借金取りのよう。相手からは鬼のように見えただろうね。

 前半30分、左サイド一誠の前のスペースに逆サイドから大きなパスが出て、中へのファーストタッチでDFを抜き去りGKと1対1、左足のシュートは中腰になったGKが前に出した両手をかすめるようにゴール右上のネットゆらした。 一誠らしい、気持ちの入ったまっすぐなシュートだった。一誠ふり返って大声出しながらベンチに走ってくる。ほんとに嬉しそう。私もうれしい。チャンピオンシップ、3度の天皇杯決勝、去年のJユース、タイトルのかかったゲームで私の見たゲームはことごとく無得点。初めて見る、タイトルへ向けてのゴールだった。

 その後も一方的に押しまくって、西山や馬屋原の惜しい場面もあった。守備はほとんど中盤で片付けて佐藤アキは声出すだけ。そして37分、左CKからのこぼれを田坂が押し込んで2点目。ユースに入った頃の田坂はフィニッシュのところで技におぼれて失敗することが多かったけど、最近こういうゴールが増えてきたのはいい傾向じゃないかな。このゲームは40分ハーフ給水付で、2分のロスタイムを経て2-0でハーフタイム。2点差は油断できないけれど、プリンスリーグの時とは見違えるような動きで、選手たちが頼もしく見える。落ち着かないけど焦っても仕方ないから私も腰をおろして給水タイムにした。

 後半が始まると、さすがに相手も必死になって攻めてきて自陣でゲームをする時間が長くなった。しかし、洋次郎と後半から入った田村がボール追いかけて決定機を与えず、2-0のまま時間が過ぎて、いや何回時計見ても時間がたたなくて困ったけど、とにかくゲーム終盤へ。20分の給水のあたりから相手が落ちてきて、再びこっちのペース。田村が何度もチャンス作って72分に自分で決めて3点目、優勝をぐっと引き寄せた。79分にレフェリーがロスタイムの合図を出すのを見てフラッグをベンチの後ろに落として槙野に目で合図、あとはタイムアップを待つだけだ。

 初優勝の瞬間、槙野はすぐには出て行かずに中央での挨拶が終わってからベンチ全員がダッシュ、スタンドにいたトオルも加わった。歓喜の輪の中に私のフラッグがあるのがうれしい。よく、そのきちゃない旗をなんとかしろって言われるんだけどね、双子や駒野や洋次郎のユース時代のサインが入っていて、Jヴィレッジのスタジアムのピッチのど真ん中で槙野が振ってくれた旗だから、そう簡単に換えるわけにはいかないんだよ・・・。ゴリさんは、優勝のシナリオを書いてただけあって、胴上げのとき空中で変な踊りを踊ってた・・・

 

(まずベンチのメンバーだけで喜んでから)

(ピッチ中央へ)

 閉会式、待望の優勝メダル、そして副賞が結構多い。桂ちゃんから並んでる順番に受け取っていったら、相馬の馬追いが描かれた双葉地方町村会提供の優勝絵皿は洋次郎の番。これは地元出身の洋次郎にぴったりだね。洋次郎受け取って高々とスタンドにかかげたあと、落としそうになっておっとっと、危なかった。このとき、スタンドのサポと多分ゴリさんの脳裏には9年前のチェアマン杯の悪夢が甦った。(落として割った犯人と噂されたゴリさんは今でも無実を主張している。)

 記念撮影を何枚も撮って、最後は父兄も降りて行ったけど、サポはピッチに降りるわけにはいかないから、幕を外して外で待つ。でも、胸が一杯で洋次郎には「おめでとう」ってひと声かけただけ。バスを見送って、再び遊歩道をセンター棟に向かって歩く。人気のない道端で見事な花をつけているヤマユリが、まだ世間にはあまり知られてないけれど素晴らしいプレーを見せてくれるユースの選手たちと重なって見えた。

 

 センター棟で土産にJヴィレッジサブレ買って、S子さんに優勝の報告の電話かけたあと、再び木戸駅に向かって歩く。朝来たときよりずっと、洋次郎の海が美しい。これからここに来るたびに、17才になったばかりの洋次郎のプレーを思い出すだろう。



 木戸駅17時49分発の電車で帰路につく。ここから広島までは18きっぷだと22時間だけど、勝ったあとは頭の中でゲームをリプレイしてればいいから来るときよりはずっと楽。いわき駅の食堂街でラーメン食って(洋次郎にうまい店聞くの忘れた)、再び電車に。勝田でイベント帰りの人がどっと乗ってきたけど全然苦にならない。臨時の夜行の始発の品川駅で、座席の夜行で変な格好で寝ると背番号が痛むから35番ユニ脱いでていねいにしまった。次はトップの試合でこのユニ着たいな・・・。若者たちがホームでだらっと待ってたけど、私はまだまだ元気。結果がよかったから、私も品川駅が好きかもしれない。


ランダムにサンフレ昔話 その9 クレドのPV

2014-04-18 18:55:55 | サンフレ昔話

 今回は02年の降格について書いてみる。この年を総括する能力はないので、いくつかのシーンを点描してみたい。この年の誤算がヴァレリー監督の突然の辞任から始まったのは明らかであるが、そこは他の人も書いているところだから省略する。

 私が最初にガジエフ監督を疑問に思ったのは開幕前、2月27日の天津との練習試合(ビッグアーチ)だった。開幕4日前ということで久保、大木はスタートではなくて、2トップは梅田直哉と中山元気だった。梅ちゃんはポストプレー、元気はサイドに流れて起点にはなっていたけれど、この組み合わせでは点が取れそうになかった。ガジエフはフィジカル重視、それだけではなくて日本人の特性がよくわかってないのではないかと感じた。4日後の開幕札幌戦のスタメンを書いておこう。システムは4-4-2で中盤はダイアモンドだった。

 

FW 10久保、20大木

MF 11主税

MF 7コウジ、16梅田

MF 8カズ

DF 3沢田、31ビロング、2川島、5駒野

GK 1下田

 

 開幕戦は5-1で快勝、右MFに抜擢された梅ちゃんは3節京都戦で決勝ゴールをあげてチームは2勝1敗のスタート。しかしそのあとは4試合で1点しか取れなかった。3月23日、リーグ戦のない週に吉田でJFL愛媛FCと練習試合があったが互角の内容で2-2、愛媛FCの大西貴選手兼監督に「サンフレやばいんじゃないか」と言われてしまう。

 W杯の中断期間に入って、5月3日のユースの試合の時に今西総監督と話す機会があった。今西さんの話によると、守備がしっかりしていないのが一番問題。ビロングは試合に出てないところを急に呼び寄せたためオーバーウエイトだった。しかも体重を急に落としたために体調がよくない。実力はロシアリーグでトップクラスのDFである。そして、現状はリーダー不在で声が出ていれば防げた失点が多い。闘志のあるトゥーリオを起用してはどうかと助言していると話された。今西さんの総監督という立場は現場の監督に対してこういう話をする権限があったことがわかる。翌年、今西さんが降格の責任をとって辞任したあとに高田さんをGMとした理由について「織田(強化部長)はまだ若いから高田さんにGMとして来てもらった。日本人監督(小野さんのことを指す)になったら総監督は必要ない」と今西さんは言われた。このことから、今西さんの概念では総監督はGMより広い権限を持っていたということがわかる。昨年今西さんがEスタに来られたときに元GMという肩書きだったと思うが、私の記憶では今西さんはずっと総監督でGMと呼ばれていた時期を知らない。話がそれた。

 そのあと5月25日のアイルランド代表との記念マッチ(出雲浜山)は久保のゴールで先制したもののロビーキーンの2ゴールで1-2、しかしこのゲームはトゥーリオ、ビロング、川島の3バックがよく守っていた印象がある。

 私が印象に残っているのは6月15日のSC鳥取との練習試合(吉田)。ベストメンバーを組んで臨んだが素人目にもダメな内容だった。主税とミロのゴールで2-0だったけど、この2人以外のモチベーションは高いとは言えなかった。Bチームならともかく、トップチームのモチベーションがここまで低いのを見るのは初めてだった。今西さんと目が合って、今西さんもさえない表情だった。突っ込んで聞かなかったけれども、監督交代に動くのは間違いないと思った。

 しかし、ガジエフ監督の辞任が発表されたのはそれから一ヶ月近くたってからだった。違約金がかからないようにしたいふところ事情があったのかもしれないが、中断中のキャンプをガジエフでやってから交代というのはいかにももったいないことだった。中断明けの第8節は木村ヘッドコーチが指揮をとり、9節から木村監督ということになる。しかし、1stステージはガジエフ監督の7試合で勝点7、木村監督の8試合で勝点3であった。シーズン通してみれば、この時期の不振が降格につながったともいえる。中断期間中にすばやく対応できなかったことが悔やまれる。

 2ndステージに入って、小野剛コーチが就任。ウィキによると、9月に就任して10月に監督権限を委任されたとある。しかし、私が見た9月13、27日の前日練習は両日とも小野コーチが仕切っていた。小野さんは生き生きとエネルギッシュで小野さんのワンマンチームという印象だった。当初はそれまでの4-4-2をベースに、シーズン終盤には小野さん得意の1トップ2シャドウも見られた。

 しかしながら、チームは劇的には好転せず、降格の日が近づいてくる。11月2日、吉田での紅白戦では、Bチームに入っていたトゥーリオがAチームに向って「いい攻め全然なーい」と怒鳴る。この年の特徴として、見に行ったら誰か1人が目立ってる。梅ちゃんだったり、主税だったり、小野さんだったり、トゥーリオだったり。ってことは全体的にはモチベーションが上がってないということなんだろう。小野さんの評価は低かったのかもしれないが、この時期のトゥーリオは使ってみてほしい選手だった。

 そして11月30日の最終節札幌ドーム、私は基町クレドのPVに参加した。自力残留はなく、残留のためには順位を逆転しなければならない神戸や柏の得点シーンが映し出されて絶望的な状況、4-4で延長に入った瞬間に降格が決まった。この試合ではGK下田が負傷して林卓人がJ1デビューとなった。ゲームはVゴール負け、翌年J1は延長が廃止されたから、Jリーグ最後のVゴール負けと言われている。2ndステージは15試合で勝点16、通年で勝点26は一つ上の神戸に勝点5足りなかった。

 私の隣で見ていたアテネ世代の女性3人は試合終了後泣き出してしまって、そしたらテレビカメラが寄って来た。それで思わず石井のモモちゃんにあっち行ってよと言ってしまった。その時はそう言うしかなかった。

 翌12月1日、私はユースの天皇杯を応援するため大分市営に向った。トリニータは逆にJ1昇格を果たしたシーズンで、駅前のビルには祝J1の懸垂幕がかかっていた。開門後幕を張って準備していたら知り合いの大分サポや大分市在住の鳥栖サポが来て慰めてくれた。「J2は楽しいよ」と言う人もいた。実は他サポに慰められてるこの時が、一番つらかった。以来私は降格した他サポに対しては、何も声をかけないことにしている。

 そのあと12月22日、天皇杯Fマリノス戦(愛媛県陸)で久しぶりにサンフレの勝利を見て、この時は本当に嬉しかった。サッカーは、明るく楽しくないといけないと思った。そのためには、できるだけ降格したくないもんじゃね。あるいはゴリさんが平塚で降格して「明るくてすみません」と言ったように、次回は明るく降格してみるか。その前に、07年についても書かんといけんね・・・

 

 

 


ランダムにサンフレ昔話 その8 2000年サテ開幕戦

2014-04-17 18:41:36 | サンフレ昔話

 7回目がコウジだったから8回目はカズの事と思ったけれど、一番書きたいカズのデビューは一回で書ききれないのでGWにとっておくことにして、今回は2000年3月12日のサテライドリーグ、セレッソ戦(舞洲セレッソG)の話。写真20番はカズ。

 2000年の新人はユースから森兄弟と駒野、外部から山形恭平、松下裕樹、八田康介、中山元気と年代別代表経験のある選手7人をそろえてスーパーセブンと呼ばれた。カズは前年11月にプロデビューして元日の天皇杯まで出場したがその頃から腰痛があったそうでちょっと出遅れて前日3月11日のJ1開幕戦はベンチ外だった。そのJ1第1節は神戸ユニバで1-0の敗戦。この年はラストの天皇杯も神戸ユニバでヴィッセルに1-0で敗れ、最初と最後が同じ場所同じ相手に同じスコアだった。

 サンフレのメンバーであるが、スーパーセブンのうち山形と松下は高校選抜の合宿で欠場、残りの5人が出場した。この日驚いたのはサテライトリーグであるのに正規の背番号をつけていたこと。97年に固定番号になったあとも、サテライトリーグでは古いユニの若い番号で出るのが普通であった。だからトップで出場機会がないとイヤーブックの写真撮影の時だけ自分の番号を着てゲームでは袖を通さないままサンフレを去る選手もいた。それがこの2000年からサテでも自分の番号の、しかもその年のユニで出場するようになったわけだ。システムはトムソンの3-5-2、前回にならって両サイドはダブルボランチと同列に書くことにする。

 

FW 15上野優作、32ミゲル

MF 33栗原圭介

MF 22コウジ、9山口敏弘、20カズ、23駒野

DF 28八田、2宮澤浩、16川島眞也

GK 12加藤竜ニ

 

(以下途中交代)

12加藤→21佐藤浩

22コウジ→30宮崎光平

16川島→29吉田幸生

15上野→27中山元気

9山口→24石川裕司

 

 セレッソのメンバーはメンバー表がなくてわからない。コウジの左サイドは山口、栗原がサテに回ったせいで押し出された格好で、このあとのノートを見てもこの年左サイドはやってないようだ。スタメンを見ていただいてわかるようにサテライトというにはベテランが要所にいてゲームは立ち上がりからサンフレが優勢。その中でルーキーたちが良い動きを見せて強風で観戦しづらい環境ではあったが十分満足できる内容だった。

 サンフレの得点はCKのこぼれからミゲル、同じくCKを八田が頭で押し込んで2-0で開幕戦を勝利で飾った。サテとはいえスーパーセブンの公式戦初ゴールは八田ということになった。

 ルーキーイヤーのJ開幕戦でベンチ外となったカズは「調子が悪い」と発言して先輩に怒られたという記事を読んだ。しかし、このあとのカズはトップに定着してこの年はJ1リーグ24試合出場3得点の記録が残っている。駒野は右サイドのレギュラー沢田を脅かす事はできずリーグ戦の出場はなく、ナビスコで先発したが対面三浦淳宏(当時横浜Fマリノス)に苦戦して広スタのバックスタンドから多くの野次を浴びせられた。なお、広スタのバックスタンドは昔から野次が多くて11年の名古屋戦の仮設スタンドの時もひどかった。構造的なものだと思うが、新スタジアムへの研究課題かもしれない。これは余談。とにかく、駒野がレギュラーをつかむのは翌01年まで待たなければならなかった。コウジもコンスタントに出場機会を得るのは02年から、しばらくはサテライトと代表のゲームでのチャレンジが続いた。

 双子駒野のプロとしての最初のゲーム、先にも書いたが、私にとってサテでは初めて見るおニューのユニとともに記憶に残っている。サテライトリーグがなくなってもう何年もたった。去年からJの試合の翌日に仙台や浦和で日帰り練習試合をするなど意欲的に若手の強化が行われているが、やはり公式戦の緊張感もほしいところだ。何か準公式戦みたいな有料試合があっても面白いと思う。小口のスポンサーを集めて数日間の小さな大会をやれないものだろうか。

 


短歌 その3 (2010年)

2014-04-15 20:54:44 | 短歌(まとめ)

 

 

       ユース練習@吉田

  背丈ほど積まれた雪にシュート打つ君にかけよう2010年 

  霧深み宗近追へばセナ消えて右に左に迷ひつつ見る

 

       ユース練習試合@修道大学

  右サイド長く走って追いついた越智のクロスにセナが飛び込む

  キックオフしたあと「ひとり足りません」行方不明の選手は誰だ

  書割のようなBA背に負ひてガクトのパスにマコが抜け出す 

  痛いという声も気にせず柳川はぶつかりながらドリブルで抜く

 

       寄蹴球恋

  タオルかぶり頬赤くして天仰ぐ君を見ていたそんな前半

  二点目のゴールで思い出したよに頬のしずくをぬぐってる君

  気のきいた言葉もなくてサッカーを車のランプ見ながら語る

  最後まで楽しんでいる君がいて嘘泣きしながら手を振っている

 

      啓太君離席 

  何人も抜き去るようなステップで階段登る我がヒーローくん

 

      旧大社駅前大梶 

  蕎麦強くつゆも立ちたる大梶の割子五枚で出雲ごきげん

 

       果蹴球観戦

  川土手をひとり帰れば ひぐらしも蛙も鹿もみな君の声


      ナビスコカップ準決勝第1節 

  洋次郎のループ決まれば口々に決勝の日の予定言い合う

 

        カキフライ

  小麦色にはぶてた君がかわいいから五粒は食べるカキフライかな

 

       ホーム最終戦

  場所取りのシートたたんで返す手を三秒つかまえている最終戦

 


 

 


ランダムにサンフレ昔話 その7 11番コウジ

2014-04-15 18:54:01 | サンフレ昔話

 今回はコウジを初めて見た、1997年7月20日の全広島サッカー大会準決勝、広島経済大学vsサンフレユース(広域一球)のお話。写真はアップの様子で中央11番のパンツがコウジ、その左は島卓視コーチ。

 私がユースのゲームを初めて見たのは95年12月のJユースカップ決勝、しかしこれはテレビ観戦であった。生では翌96年11月17日、トップの天皇杯ブランメル仙台戦(広島スタジアム)の試合後引き続きJユースカップ予選リーグ鳥栖フューチャーズ戦を見た。小林伸二監督のユースを見たのはこの2試合だけということになる。しかし、ゲームは2試合とも面白かった。ユースを見に行きたいという気持ちが大きくなっていたのは間違いない。

 今回のお話の全広島サッカー大会というのは天皇杯予選を兼ねていて、全国的には96年から天皇杯予選に2種チームの出場が可能になった。しかし、今回これを書くにあたって天皇杯パンフの予選のところを調べてみても広島県では96年に2種が出たという記録は見当たらなくて、どうやら97年からの対応になったようだ。

 私は新聞の日程を見て一球に出かけたけれど、選手等の予備知識は全くない状態だった。スタンドには2年続けて天皇杯決勝のチケットを電話対応していただいたサンフレの事業部長さんがいらっしゃったので(当時は事務所で売っていた)、その隣で観戦した。ユースは1回戦2-0ヤマコーFC、2回戦3-1ルネス学園大竹SCのスコアで準決勝進出。しかし、この準決勝はクラブユース選手権の全国大会とかぶってしまってBチームでの出場だという。まあ、私は選手を1人も知らないのだから、そんなことはあまり関係がなかった。事業部長さんもわかる選手は一人だけ。大怪我をして留年を余儀なくされた雨野裕介(現鳥取U-15監督)が復帰していると教えてもらった。雨野は本来なら大学1年生の年齢であとのメンバーは1年生が多かった。

 ゲームは経大が優勢で前半2失点、ところが1年生FW小坂が倒されたPKで1点返したところから流れが変わり後半追いつく。後半はユースの1年生たちの技術が光っていた。80分過ぎてユースが疲れたところで経大に決勝点が入って2-3で敗戦となったが、面白いゲームだった。今西さんも明るい表情で「楽しみだねえ」とふり返った。

 私が気になったのは11番の選手。2種のゲームはあまり見たことがなかったし、技術がどうとかはわからない。ただ、ピンと来るものがあったとしか言えない。名前を知りたいと思ったが、この頃のユースはピッチでの声はあまり聞こえなかった。片付ける時にコウジと呼ばれているのがやっと聞こえてきて、「11番コウジ」とメモして帰った。

 その日何枚か撮った写真を見ると、駒野は写っているけれどカズの姿は見当たらない。あるいは、1年生でただひとりAチームの遠征メンバーに入っていたのかもしれない。

その後、当時クリスタルプラザにあったVポイントにユースの会報「みつや通信」が貼ってあり、そこに新入生の氏名一覧がのっていて初めて双子の兄がいることを知る。カズのプレーを見たのは9月のJユースカップが始まってからだった。この大会では双子と駒野の3人が1年生ながらスタメンに名を列ね、年末の本戦では準優勝だった(Jユースカップは今でもグループリーグを予選リーグと呼んでいる)。この年は右サイドに行友亮二(現徳島U-18監督)というタレントがいて駒野は左サイド。決勝の清水戦では対面の市川大祐(当時2年)にかなりやられてしまったが、市川は翌年のフランスW杯の候補になるような選手だったから当時としては仕方ない事だった。

 この日コウジに出会ったことは、私にとって大きなターニングポイントとなって、次第にユース中心の観戦に変わって行った。コウジに注目したことは大変なビギナーズラックだったけれども、今でもこういう出会いを大切にしたいと思っている。素人のカンもね。先日のホームゲームでコウジの復帰を願う幕が掲げられたのをテレビで見て、この日のことを書いてみようと思った。私もコウジの復帰を心から願っている。


 


ランダムにサンフレ昔話 その6 タムのゴール

2014-04-14 18:27:10 | サンフレ昔話

 今日は10年前に田村祐基が初出場初ゴールを決めた日。2004年4月14日ビッグアーチ19時キックオフのJ1ファーストステージ第5節名古屋戦をふりかえってみる。画像は翌日の中国新聞。

 タムはユース9期生。Jrユースからの同期に田坂祐介がいる。前年2003年ユース3年の時のタムは、レギュラーというわけでもなかった。当時のユースの3トップは前田俊介、西山貴永、馬屋原の3人が先発する事が多く、タムは俊介が代表に行った時や途中出場が多かった。しかし2年途中まで監督だった中村重和さんから、タムは2年生の時はまだ背が伸びていて成長痛があったそうで将来は上に行く可能性があるという話を聞いたことがある。この03年に16歳の洋次郎がJ2デビューしたことはよく知られているが、春のキャンプから小野監督は洋次郎、一誠、俊介、佐藤昭大と2年生を召集、タムや田坂の3年生は蚊帳の外であった。であるから、3年生からのトップ昇格はないだろうと思っていた。ところがどういう理由かわからないが3年生からも1人上げようという機運が出てきて、3年生選手の進路の意向や小野監督がドリブラーがあまり好きではないことも影響があったのかもしれない、田坂や西山ではなく候補はFW2人にしぼられた。強化部は迷ったみたいで決定は遅れたようだ。結果は将来性を重視してタムに決まり、サンフレジュニアユースから初めての昇格となった。

 さて、4月14日のゲームに移ることにする。小野監督といえば1トップ2シャドウの元祖みたいな存在で最初は4-5-1が基本であったが03年の途中からは3バックや2トップ、試合中に変化することもしばしばあった。このゲームもスタートは3-6-1、高木和正が入った65分以降は4-5-1と変化した。どちらも前は1トップ2シャドウ、両方書いてみよう。3バック時のサイドは前回同様ボランチと同列に書いてみた。


スタート

FW 27中山元気

MF 8カズ、7コウジ

MF 17服部、6サンパイオ、16ハンジェ、14佐藤一樹

DF 28吉田恵、2リカルド、19井川

GK 1下田

(SUB) GK21タクト、DF22大久保裕樹、MF15高木、FW9眞中、32タム


65分(佐藤一樹→高木和正)以降

FW 32タム

MF 15高木、7コウジ

MF 8カズ

MF 6サンパイオ、16ハンジェ

DF 17服部、28吉田恵、2リカルド、19井川

GK 1下田


名古屋の方もメンバー表順に書いておく。

GK1楢崎、DF2秋田、3パナディッチ、5古賀、MF17海本、25吉村、11大野、13滝澤、7中村、FW10ウェズレイ、9マルケス

(SUB) GK22川島、DF6中谷、MF21岡山、31山口、FW28渡邊


 前半はポゼションでは互角以上に戦っていたが相手の2トップと後ろから出てくる中村には迫力があって、攻撃の怖さという点では名古屋が断然上だった。ユースファンからするとシャドウに双子を並べて鏡に映したように攻める趣向?は楽しい。しかし、カズがシャドウというのはタイプではないし攻撃のタレント不足は否めない。これは今のメンバーと比べて言ってるのではなくて、当時のノートにそう書いているのだから間違いないと思う。なお、FWにはチアゴ、大木、盛田がいたけれどケガで離脱していた。ゲームは前半44分、マルケスに決められて、雰囲気としてはかなり重い失点だった。

 そして、後半頭から元気に代わってタム、出るならもっと短い時間かなと思っていて正直言って45分は荷が重いと思った。ところが49分、後半からトップ下にまわったカズが左サイドを持ち上がって縦にパス。これは記事にもあるようにコウジへのパスだったようだが途中でタムがインターセプトするように中に走って左足シュートが決まった。J初出場、しかもファーストシュートで楢崎からゴール。これは本当にびっくりしたし嬉しかった。Jrユース時代のコーチはメインで大泣きだったと聞いた。

 しかしそのあとは、パナディッチにしっかり抑えられて競り合いを繰り返すうちに30分でばててしまった。後半途中からは防戦一方だったが結果は1-1のドロー、負けなくてラッキーと当時のノートにある。

 その後のタムは小野さんの戦術に苦戦して、次第に動けなくなっていく。結局タムのJ1での得点はこの1点だけだった。そのあと愛媛、岐阜、鳥取を経てパラグアイに渡り、パラグアイの最初のシーズンを終えたあとのユースOBフットサルでは本当にキレのある動きを見せていてもう一度Jでやれるのではないかと思っていた。それだけに次の年のケガは残念で、吉田や文化センターで復帰を目指したけれど、そのあと引退を決断しだそうだ。

 あのゴールはまぐれだったという人もいる。しかし、小野監督のようなきっちりデザインされたサッカーであっても、別の味方へのパスかっさらってゴールするような反乱分子?が1人ぐらいいた方が面白いという証拠ではないかと思うのだけれど、どうだろうか。 

短歌 その2 (2009年)

2014-04-14 16:40:52 | 短歌(まとめ)

 

 

        熱血母上

  グルグルと握りこぶしに力こめて我が子のプレー語ってる君

 

        術後二日目

  これからは時が薬とベテランの看護婦もってきた普通食

 

        ホーム最終戦陽介挨拶

  ヨースケの挨拶聞けば4点も4位も忘れ呼びながらなく

 

        トップ練習@吉田

  サンフレもまだまだ捨てたもんじゃないカズは来季を見据えて走る

  一年のクールダウンは子を連れて寿人ふり向きながら進めり

 

       Jユースカップ1回戦@吉田

  109分最後のPK大崎を皆固まりて見守っている

 

       岩国蓮根

  岩国のレンコン食ってシャキシャキと語ってみたいあの人のこと

 

      メモ帳 

  けいた君を真似て持ちたるメモ帳に歌の増えるを楽しくぞ見る

 

      音戸渡舟

  立ったまま音戸の瀬戸の渡し舟 高校生もじっと乗りゐる

  赤信号待ち居るごとく群れ立ちて対岸着けばすぐ歩き出す

 

     文字ニュースで内田健太の名前を見て 

  伊予鉄バス車内ニュースで流れゆく「内田健太が代表」の文字

 

       愛媛FC練習@北条

  伊予の海を背中に負ひし田森君のへろへろ走り見れば楽しも

  北条の海と蜜柑と田森君とお日様もあり何を嘆かむ 

  夕焼けをなでるみたいにフェリー行きてこれぞ正しき海の乗り物

 

       阿武山冬景

   広島菜つけたいと思う空気来て阿武山黒くくっきりと見ゆ


       Jユースカップ決勝トーナメント

  熱く熱く縦に走ったキャプテンが中見てクールに出すラストパス 

  セナとマコと「さあ行こうぜどこまでも」並んで歌う長居の空よ

  ちびっこのゆうと茶島の活躍もおとぎ話のように過ぎゆく

 

 


ランダムにサンフレ昔話 その5 ウエミーの確信

2014-04-13 10:46:04 | サンフレ昔話

 ヴィドマーがGKをやったゲーム、といえば記憶に残っている方もいらっしゃるだろう。1999年4月14日ナビスコカップ仙台戦(広島スタジアム)での出来事だ。でも、私が注目したのはそのひとつ前の場面・・・

 99年のナビスコカップはJ2チームも参加してホーム&アウェイのトーナメント形式だった。サンフレの初戦の相手はこの年Jに加わったベガルタ仙台で、4月7日のアウェイは苦戦となったが2-1で勝利、当時は平日に仙台まで遠征するサポはいなくてゴール裏はアラタ君1人だったと聞いた。これから書くゲームはそれを受けてのホームでの第2戦、その前96年広スタの天皇杯の時はブランメル仙台というチーム名でベガルタになってからは初めての広島での対戦だった。

 サンフレのメンバーであるが、トムソン監督時代の3-5-2は両サイドをどこに書くか悩む。当時は守備的な戦術で両サイドはボランチが前を向いて持ったら片方が上がって良いみたいな感じで、5バックの時間が長かった。そのころ優勝のかかった試合はBSで2元中継していて、サンフレの相手(清水だったと思う)が優勝の可能性があってその試合に画面が切り替わった時のアナウンサーの第一声が「広島は引いています」だったのが忘れられない。だから5バックで書くのが正解かもしれないが、書いてみたら長くなって見づらいのでダブルボランチと横並びで書くことにする。この試合のアウトサイドは左が古賀、右が沢田だった。99年は高橋泰のルーキーイヤーで4日前のリーグ戦が初スタメン、このゲームもスタメンだった。久保竜彦はカップ戦ということでベンチスタート、GK前川はこの年初めての出場だった。


FW 26高橋、11ヴィドマー

MF 15主税

MF 13古賀、4桑原、8吉田康、3沢田

DF 19上村、6フォックス、5伊藤哲

GK 1前川

(SUB) GK22佐藤浩、DF23川島、MF17服部、9山口敏、FW10久保


 ベガルタの10番は21歳の中島浩司、そしてサンフレユース1期生の高田純もスタメンだった。メンバー表順に書いておこう。

GK1高橋、DF2山路、5ドゥバイッチ、4渡辺、MF7千葉直、10中島、3斎藤、18御厨、8越後、FW9高田、17阿部

(SUB) GK22石川、DF6花山、MF14千葉泰、19伊藤、FW16瀬川


 このゲームはアウェイでの苦戦とは違ってサンフレが順調に加点。サンフレのイヤーブック、Jリーグ公式サイトとも出退場記録しかなくて(私はトップのゲームはあまり詳しくメモしていない)、試合経過がうろ覚えなのだけれど、問題の前川退場は68分、その時のスコアは3-0じゃなかったかと思う。その場面に移る前にサンフレの得点者を書いておくと、沢田、ヴィドマー、主税、上村の4点、交代は45分ユタカ→タツ、51分フォックス→山口、63分古賀→服部だった。

 そして、タイトルにした場面、68分に前川がペナの中で相手を倒して得点機会阻止で退場、仙台のPKとなる。キッカーは高田純だった。

 ここで高田純を簡単に紹介しておこう、ジュンは三原市出身で中学時代は普通の部活のサッカー部で、顧問はサッカー経験のない人だったと聞いている。93年サンフレユースに入団、1期生だった。当時のチームについて稲田寮長に聞いた話では、クラブユース選手権(Jヴィレッジ完成までは河口湖周辺での開催だった)に行ったら関係者に「おたくはもっと力をつけてから出て来られてもいいんですよ」と言われたそうだ。おとといおいでってことだね。それがジュンが3年生のJユースカップで初優勝、それに加えて、1期生からジュンがトップチーム昇格、これはサンフレユース七不思議のひとつじゃね。(あとの6つも考えてあるけど長くなるので別の機会に) ジュンはプロ1年目の96年のサテライトリーグで開幕してからの6試合で4得点、しかしトップのゲームでのベンチ入りはなく、その年のオフにJFL仙台にレンタル移籍、サンフレの契約満了を待って完全移籍となっていた。

 さて、PKの場面に話を戻そう。3人交代後であるからフィールドの誰かがGKをやらなければならない。ジュンがキッカーの位置にいるのを見て、GKを買って出たのは上村だった。ゲーム後ウエミーが語ったところによると、ジュンはサンフレ時代非常にやさしい性格だったそうで、大先輩ウエミーがゴールマウスにいたら、びびってしっかり蹴って来ないだろう。きっと右足サイドキックでゴール右側を狙って来るから左に飛べば止められるという確信があったそうだ。しかし、どれほど優しい性格だったのか、96年のイヤーブックを見ると抱負の欄に「まずはフェアプレーで」と書いているからウエミーに比べると勝負事に向いてない性格だったのかもしれない。

 ゲーム再開、ウエミーの確信は大外れで、ジュンは右足しっかり振り抜いて左隅に決めた。ウエミーも「成長していた」と語っている。そのあとはDFのウエミーがGKやるわけにはいかんからヴィドマーがGK、横っ飛び両手でキャッチした場面があって場内は大きく沸いた。ヴィドマーはゴールとスーパーセーブでこのゲームのヒーローだった。ゴールは覚えてないけどね・・・。ゲームは4-1でサンフレの勝利、通算2勝で2回戦進出を決めた。

 ジュンは病気でこの年を最後に現役引退、2000年のサンフレのファン感の時に後輩を訪ねてきたジュンを見かけたけど、その時は元気そうに見えた。一方ヴィドマーは2010年アデレードを率いてACLでサンフレと対戦したのは記憶に新しい。99年は11月にカズのデビューがあって、私の中ではそこからがらりと風景が変わっていくのだけれど、前の時代の記憶に残るひとコマであった・・・
 


ランダムにサンフレ昔話 その4 寿人出場のサテライト戦

2014-04-12 09:46:21 | サンフレ昔話
 私はユースの応援歴が長かったものだからユースサポといわれる事が多いのだけれど、昔サテライトリーグをやっていた頃は熱心に観戦に出かけた。特にタツローと洋次郎が出ていた05年のサテライトリーグは、12試合中大分アウェイ以外の11試合を見た。プロのBチームの強化は育成の最終段階とも言えるものだが、中々成果をあげるのは難しい。サンフレに新卒で入って年代別代表にも選ばれず、レンタルにも行かず、チームの練習だけでレギュラーに定着した選手はほとんどいない。久保竜彦ぐらいだろうか。このブログにもいずれはBチーム論を書いてみたいと思っている。その前に個々のゲームをぼちぼちと、今回は05年4月17日14時ガンバ練習場でキックオフのアウェイG大阪戦を。

 まずはサンフレのスタメン。タイトルの通り寿人が出ていた。写真はコーナーフラッグにピントが合っていて申し訳ないが、サンフレサポなら寿人がいるのは米粒でもわかっていただけるはずだ。寿人はこの年仙台から移籍して来たけどシーズン当初はフィットせず、前日16日のビックアーチの神戸戦でもサブで89分ガウボンに代わって短い時間の出場だった。


FW 27ジョルジーニョ、19盛田、11寿人

MF 14龍朗

MF 26洋次郎、32くわしん

DF 28吉田恵、2池田昇平、22西河、29森脇

GK 31佐藤昭

(SUB) GK21上野、DF30入船、MF23青山、FW15田村、13田中俊也


 ガンバの方のフォーメーションはメモしていないのでメンバー表順に書いておこう。

GK1松代、DF26小暮、25丹羽、30青木、MF17児玉、32岡本、14家長、28前田、20寺田、FW18吉原、11松波。

サブは、

GK31木村、MF29松岡、FW21三木


 小野監督時代のサテライトチームはバスで関東遠征、フェリーで韓国遠征と意欲的なスケジュールだった。しかし、サテライト監督の評判が芳しくなくてぱっとしなかった。順位はあまり問題ではないからメモしていないのだけれど、確か連続して最下位になったはずだ。ミーティングが長くて、ホワイトボードに書いてあることを実現するためにゲームをやってるような印象だった。ゲームが始まってみると若手選手の勢いというものが全く感じられず、チャンスを作って得点するという意識も見えなかった。おそらく、ミーティング通りに動くことで精一杯だったと推測している。洋次郎や前田俊介などの個性派がサブに回ることも珍しくなかった。しかしこれは、すべてサテ監督のせいと言えるかどうか。小野監督の末期にも新聞に「マニュアル人間」と書かれたように、これと似た現象が見られた。小野さんの理論の影響も少なからずあったのかもしれない。それに最初に書いたように、この時期だけ成果が上がらなかったわけではない。

 この年のサテライトリーグDグループは大分、鳥栖、福岡、広島、神戸、C大阪、G大阪の7チームだった。開幕戦雁ノ巣でアビスパに0-2、山形恭平に決められ、寒さの中で吉弘負傷で長期離脱となってしまった。その次は吉田でのガンバ戦、このゲームでヨースケが骨折したことは前に書いたが結果はジョルのPKで先制したものの前田雅と松波のゴールで1-2逆転負け。この4月17日のゲームが3戦目だった。

 立ち上がりから右サイドの森脇が家長に苦戦してピンチの連続、中盤で洋次郎とくわしんも防戦一方だった。ところが9分、ジョルが抜け出して相手DFがこれを倒してレッドカード、ジョルがFKを決めてサンフレが先制した。

 1人少なくなったガンバは吉原に代えて三木を入れて松波、三木の2トップにボールを集めて効果的に攻め、サンフレの劣勢は変わらない。相手が1人少なくてもミーティング通りなんだろう。それでもジョルと盛田を中心にチャンスはあったのだけれど、盛田と寿人はシュートが入らなかった。この時期の寿人は少し焦りがあったのかもしれない。

 私が注目していた洋次郎は、前を向いて持つ場面がほとんどなく、セットプレーのキックも良くなかった。この頃の洋次郎は、キックが空振りに近いような外れの日があった。タツローはよく動き回っていたが、シュートが少なかった。

 後半に入ってもガンバが攻勢、サンフレの交代を書いておくと57分盛田→トシヤ、71分洋次郎→青山、82分ジョル→タム、89分森脇→入船。ゲームは終盤相手に疲れが見えたところでトシヤが77分、88分に決めて3-0でこの年の初勝利となった。寿人が不調であるからトシヤにチャンスが来るのではないかとノートに書いてあるが、実際は寿人が復調、このあとサテに来る事はなかった。

 小野監督時代はFWが苦戦した印象が強い。高橋泰も03年の最初は好調だったが、そのあと振るわず、特に若いFWが次第に点を取れなくなっていく傾向が見られた。約束事が多いせいで本来の点を取る部分が弱くなってしまうのではないかと推測できるのだけれど、寿人はこの傾向と全く無関係であった。うるさい約束事の一部をスルーしていたか、ある程度自由に動いて良いと言われていたのか。小野さんが前田俊介について、あまりうるさい事は言わないようにしたいと発言しているのを聞いたことがあるから後者だったのかもしれない。

 このゲームの会場はガンバ練習場、ユースで行った時はゴール裏からネット越しに見るような場所だったのに、この時は写真のようにぐるりと芝生席があって快適だった。内容は良くなかったけれど、それでも勝てたらうれしい。天気も良く大きなケガもなく、この年のサテのゲームの思い出の中では明るい部類だったのは間違いない・・・