(請戸の海岸から臨む東電福島第一原子力発電所)
昨日、去る9月に双葉町にオープンした東日本大震災・原発災害のアーカイヴ施設・伝承館を、参加者各自で見学した後に、その存在の意味についていこいの村なみえにて話し合いました。
交通の利便性も悪いなか、23名の参加者に恵まれ、次の3つの観点で話し合いが進められました。
1. 伝承館にどのようなメッセージを期待したか
2.伝承館にからどんなメッセージを受け取ったか
3.伝承館に示されていない情報は何か
話し合いは、はじめから厳しい意見が噴出しました。以下、渡部の編集(解釈)によるまとめを記録します(もし、発言された方の意図とは異なるものがあればお教えください)。
●中身がない。伝承館は何を伝える館か?何も伝わらない。津波の思い出くらいか。
●原発の危険性や事故の原因、そしてそれらを踏まえた教訓をどう考えるべきかという視点が何もない。
●実際の災害現場で、どういうやり取りをしていたのかという視点がもう少し欲しかった。全体としてダイジェスト版の展示という印象である。
●原発が来る前の相双地域をどう描いているのかを期待したが、「事故前の暮らし」が「だるま」と「野馬追」で終わっていることに失望した。大熊・楢葉・富岡・双葉がどういう地勢・地政であり、そこに原発が来たのか、その背景の説明が薄い。伝承館で立ち話をしながら聞いた職員も、それについては同じ意見だと述べていた。
●展示のストーリー展開に違和感をもった。復興を強調するばかりで、「ピンチをチャンスに変える」という文言がやたらと目立つ。
●5分の映像を見て、なんでみんな字幕が英語なのか違和感をもった(これに対しては、当初、オリンピック開催に合わせたオープンを予定していたため、外国人観光客への対応を想定してのことではないかとの意見が出された)。
「違和感ばかり」という意見が大勢を占めましたが、そこには原発事故の教訓がはっきりと示されないこと、津波による事故という「自然災害」と「復興」の強調といった点に集約されます。
一方、「語り部があるのはいいなと思う。展示だけではリアリティがない」という意見も出されましたが、それに対して実際に語り部をされている参加者から次のようなお話を聞きました。
●語り部として入る前に伝承館に期待はしていなかった。現在、語り部29名。語り部どうしがお互いに話し合う機会はほとんどない。「余計な話はするな」という伝承館の指導については、メディアで伝えられている報道はほとんど真実です。余計な話をするなという指示は、はっきり説明会で指導されます。特定の企業団体については、はっきりものを申すなと上からストップがかかる。これについては語り部の中には反論する人もいる。当初の語り部スペースには、つきっきりで職員がつき、場合によっては質問内容を静止したりしてチェックしていた。でも、伝承館と語り部は切り離して考えてもらいたい。半分以上は初めて話す人ばかりで、しかも高齢者が多い。話すことに慣れていないし、震災と原発事故の経験を思い出して話すだけで苦しくなる。それでも、遠方は会津からわざわざ語り部に来る。
この語り部の話す内容に規制をかける「上とはだれか?」
この質問に対しては「県の生涯学習課ではない。さらに上の存在がある」とのことだけれど、それが誰かということは尋ねても示されないとのことです。
これに関しては、別の参加者からは次のような感想が出されました。
●良くも悪くも福島県庁の施設だと感じた。復興記念構想に比べて、伝承館資料選定の議事録は公開されていない。有識者検討委員会の議事録を読んでも、明らかに復興記念構想より手を抜いている。明らかに県が自分なりの考え方で描いたものが、いまの伝承館の姿なのだなと思う。そして、福島県はこういうのが苦手な役所だということがわかった。そこには国から細かい指示はなく、知事への忖度などが働いているのではないか。
「こういうのが苦手」というのは、福島県が独自のメッセージを出そうという能力のことでしょう。しかし、国の指示にはいくらでも従う福島県は、独自のメッセージを考えることが苦手である。それは、その過程を議事録として詳らかにできないことにも示されているというわけです。
では、福島県が伝承館に独自のメッセージを込めるにはどうすればよいのか?
これに関して今回の話し合いでは、「アンケートへの記入」というのがキーワードとして挙げられました。
●まだ未完成という印象がある。初めから期待していなかったので、案外いろいろあったなという感想だ。かいつまんであれもこれも並べている。かかわっている人は何とか伝えなきゃという思いは持っているのだろう。これから整理していくうちに、今の方がよかったともなりかねないかもしれない。もっともっとよくなるように、来館者の意見を取り入れるくらいの形になってほしい。
館内には「皆さんの声が伝承館を育てます」というメッセージがあったという声もありました。
多くの参加者の意見からは、当初から期待していなかったという意識が確認されましたが、それに対して次の発言は重要です。
●アンケートの声が欲しいと職員さんが言っていた。それが自分たちには言えないことの代弁になるのだと。
今回の参加者の中には、伝承館を見学した際に職員の方々に質問を投げかけて話を聞いたという方が、少なからずいらっしゃいましたが、そこから確認されたことは、実は伝承館の現場で働かれている方の多くが館の方針ややり方に違和感を持っているという事実です。
しかし、職員である以上、「上」からも規制されるため物言えぬ状況にある。
それゆえに、見学者のアンケートが力を持つのだという話を、多くの方が聞いたというのです。
けれど、参加者のほとんどが、そのアンケートがどこに置かれていたのかまったくわからなかったようです。
しかも、
●展示物の撮影禁止について職員に話を聞いたときに、その方自身もおかしいと思うといっていた。学生がレポートに写真を使いたいという要望があっても撮影させてくれない。その理由を職員自身がわかっていない実態がある。
これに対しては別の参加者から、「映像展示物については著作権の問題だったので撮影禁止されたわけで、映像以外の資料の撮影は当初OKだった」という内実があったという話を聞いたという発言がありました。
しかし、だからといって「初めから一括して禁止にするのは、そもそも来館者への信頼していない姿勢が見える」という意見はもっともです。
それゆえ、展示物の撮影に関しては、次の意見のとおりでしょう。
●国の施設でも著作権のあるものはダメだけれど、当館で作成した資料は大丈夫ですというケースが増えているなかで、今どきは「できること」と法的に「できないこと」を区別していくべきだ。
参加者の中には他県の災害伝承館との比較から、次のような興味深い意見をもたれた方もいました。
●陸前高田の復興伝承館に見て感動して、双葉の伝承館に行きたいないと思っていた。どういう視点の違いがあるのかという観点で見学した。陸前高田ではデータ重視で写真などもクールに表現しているけれど、それに対して双葉の伝承館は、入場してすぐに見せられるオープニング映像がまず初めに泣かせに来ている感じがした。写真撮影の禁止についても違和感があったけれど、それは著作権の話を聞いて納得した。けれど、今どきの美術館は来館者のSNSを利用して情報を広めていくのが当たり前なのに、福島県はそういうことを利用することに関しては後進県だなと感じた。
県外からわざわざ参加された方は次のような感想を述べました。
●熊本からきて、伝承館にはすごいものは期待しないできた。放射能の問題やそのリスクの問題、市民の混乱について書かれていなかった。また、事故の始まりが3.11から始まっており、それ以前になぜ原発が来たのかという考察もない。原発に関する教育を「しています」(2009年)という形で示しており、はっきり反省が示されていない。職員の方からじっくり話を聞いたけれど、「東電がどうだ」とかだという話はしないけど、やっぱり話を聞いていると矛盾、矛盾、矛盾のなかでそれでも生きてきたという、痛みであり、言葉にならない生きてきた息がかんっじとれた。ざっくりいうと伝承館は、今の福島県だなと感じた。放射能の被害はわからないとしているし、東電と原発事故の関係は批判してはいけないというもやもや感が伝わってくる。「はっきり言えないけれど伝えたい」というのが福島県のがんばっている姿だと思う、足りないことだらけだけど、伝承館ができてよかったと思っている。それをどうやって育てていけるかが、私たちの社会の原発事故をどう見ているのかに関係している。なかったことにしてしまいたい、けれど自分たちが向き合っていかなければいけない。
災害資料館の比較といえば、三春町にあるコミュタン福島との比較を述べた意見も出されました。
●コミュタン福島が子ども向けに楽しく学習できる施設、楽しく写真も撮影できた。伝承館の方がチャラい感じがした。
●コミュタンは放射線教育の施設。伝承館との見方がそもそも違う。
●コミュタン福島は放射線を楽しくゲーム感覚で学ぶ。危ないものではなく、楽しく学ぶというスタンスに腹立たしさを覚える。震災から10年なので、いまの高校1年生は当時就学前の年齢であり、自分の言葉で経験を語れない。伝承館はそのような世代が出来事を学んでいくための施設になると思うが、上っ面だけで学んだ気になることが懸念される。さらに震災がわからない全国の子どもたち、福島で生まれた子どもたちが「東電」という言葉を知らなければ、意味がない。
震災から10年が経とうとしているなかで、そもそも「震災・原発事故」を伝えていくのかという課題を伝承館が本当にこたえようとしているのか。
●伝承館に見学に来た福島市内の高校生からは、「震災は終わっていたと思っていた」という声があった。「ここに来て初めて、まだ苦しんでいる人がいることを知りました」と、原発事故の被害がなかったことになっている高校生がいる。その子たちにわかってもらう場にもなりうる。
そして、その伝承の場は館に限られるものではないという意見も挙げられます。
●そもそもなぜここに伝承館を作るのか。周囲の風景と合わせて批判的な思考を生み出せるのではないか。村全体で資料館になるという発想が水俣にはある。
●伝承館の周囲にも津波被災の家や人の住んでいない家など、伝承館だけだはわからない風景を伝承館に取り入れるのはあってしかるべき。そうすれば浪江、津島などを含めた地域の伝承の中心地になるのが伝承館となればいい。
●できれば、その範囲を防波堤のあたりまで広げてもいい。高校時代まで双葉に住んでいたけれど、津波が来るという話を聞いたことがなかった。そういうものを伝承館で伝えてほしい。原発が来ることに大人たちは喜んだが、結果的に豊かになるどころかこうなった。失敗学でもいいから、そこまで伝承館はつっこんでほしい。改善の余地がある。双葉町民としては、こういう伝承があったから救われたよねとなってほしい。
(請戸小学校)
一方、伝承館のメッセージについては次のような批判も出されました。
●議事録が残されていないと、伝承館が成長する余地はないのでは。アンケートの活かし方もわからないし、そもそもそれが活用されるのかどうかも公開されないのはおかしい。事実の羅列はなにがしかのメッセージを伝えている。入場して冒頭の映像にある西田敏行のメッセージには、「莫大な雇用を生んだ」という文句だけだった。そのとき、原発の安全性について国はどう説明したのかなど、あえてメッセージ性をなくしているのではないか。
予定時間の半分が過ぎたところで、「伝承館に書かれていないもの」について論点を移しました。
●避難者の数について「当初16万人から7万人」になったとおいう記述があったが、その減った9万にはどこへ行ったかが書かれていない。これだけの説明では、「避難者が減ったなら大丈夫だ」という印象を与えるだけではないか。
●避難所の様子は写真などあったが、中通りの人たちの不安がどこにも書かれていない。飯舘村など、甲状腺件にしても今後の不安が何も書かれていない。若いお母さん方にはいろいろあるにもかかわらず。
●責任が全く書かれていない。国も、東電も、福島県の責任が一切書かれていない。
●伝承館に行く途中にフレコンバックがたくさんある。汚染水もたくさん目にしながら、そういうものがあることの不安をみんな抱えているのに、それが実際これからどうなっていくのか書かれていない。除染した土は今後どうなるのかとか。
●ライブラリースペースがない。ふつう、博物館美術館には関連施設情報・資料があるはずだけれど。
●原発事故発生から全国的な放射線量の推移についての記述がない。
●裁判に関する事例、結果がない。
施設や展示の構造そのものに対する次の批判は、いったい53億円もかけて何を作ったのかという当然の怒りを覚えます。
●片目弱視であり、展示物が見にくく、障がい者や高齢者を当事者としてみていない。聞いたところ、伝承館の職員もそう思っているとのこと。キャプションが小さい。音もあちこちで出ているので、どこの音を拾っていいのか困る。西田敏行のナレーションで流される斜め立体スクリーンをどれだけの人が見られるのか。高齢者、小学生にはムリ。入場した瞬間にユニヴァーサルデザインでなく、当事者性もないことがわかる。当事者がいなくなっても記録できるアーカイブ施設であってほしい。また、被災者にとって津波の映像はつらい。白黒写真なのはなぜ?昔のことのように表現したのか、PTSD対応なのか?語り部の抑制や展示物から葛藤が見えてこない。
●もう復興していますという感が強い。風評被害も以前ほどではないというメッセージばかり。被災地の近くにいればいるほど復興などしていないことがわかるのに。
●アーカイブという点でいえば、当時の県がどういう対応をしなくてはいけなかったかという資料が市町村に莫大にあるはず。が、それを記録保存しようという意志が感じられない。10年前に人々がどういう不安を持っていたのか。その当時の人々が抱えていた苦しみを見た人に感じられる施設でなくてはならないのではないか。
●放射線の被害、不安については一切書いていないことがなぜできたのか。水俣の人々は苦しみを見たくなかった。けれど、その苦しみを描いてどう見に来てもらうのか工夫した。
●当時被ばくの健康不安は24%、現在は8%というデータが示されていた。そこに違和感があった。
ついでに言えば、「自主避難者」という存在は伝承館のどこにも見当たりませんでした。
その存在はなかったことにされているのでしょうか。
それとは対照的に、福島に残った、あるいは戻ってきた在福外国人の方々への称賛が強烈に印象付けられる動画が展示されています。
ここには避難した人々への「排除」が暗に示されいることは否定できないでしょう。
それはさらに、「トモダチ作戦」で被ばくした米兵たちが訴訟を起こしている事実とも対照をなします。
では、伝承館はけっきょく福島県の広報機関に過ぎないということでしょうか。
それに対して、語り部をされている参加者からの言葉は非常に考えさせられるものでした。
●伝承館には、いまだ避難している人たちも来館します。その人たちは泣きながら展示を見ている、けれど自分たちのことを知ってほしいという思いで、耐えて来館している人たちがいるのも事実です。3km圏内に居住していた住民は、原発爆発以前に強制避難させられており、その意味で被ばくはしていないのですが、そうであるにもかかわらず、避難先では被ばくしたものとして言われない差別を受けた人もいます。それらを含めて、ここに来るのは被災経験を共感してくれる人がいるかもしれないと思って来館している。そういう話を聞いて伝承館は、そういう場でもあると考えました。自分たちがここ(双葉)から離れられないこともわかってほしい。しかし、ここに住めない現実の中で避難先に生きざるを得ない現実もある。その思いを踏みにじられたくないという象徴、同じような思いをもつ人と出会える場。そういうものとしての伝承館の意味があるのではないかと考えます。
これは避難という現実を経験した人、そして故郷を奪われたことの現実を知る人の言葉です。この会の前半に語られた「中身のない広報としての伝承館」から、一気に別の様相があらわになった瞬間でした。福島県の大きな「復興」物語をそのままに受容するほどナイーブな見学者ばかりではないことは、今回の話し合いのなかで核にされたことです。しかし、その大きな物語とは別の可能性が、被災当事者の葛藤から絞り出されたことは大きな発見だったのではないでしょうか。
もちろん、その場に集う人々が饒舌に自分の被災経験を語ることは難しいことであることは言うまでもありません。
それでも、なぜ語り部になるのか?
その問いに対しては「いままで語れなかったことへの思い」、「語る場所、語る機会がないことへの思い」、「残したい、れてほしくないという思い」、このような個々の小さな物語が位置づけられる場としての伝承館とは、おそらく語りそのものを規制する公的機関としての福島県が想定できるものではないでしょう。
しかし、そのような場としての伝承館に「育てていく」ことは、来館者の責任ですらあるのではないか。
これが、今回の話し合いが到達した一つの結論であったように思われます。
今回の企画では、当初相双地区以外の参加者が多くを占めていましたが、思いがけず語り部当事者の参加にも恵まれ、そしてその経験と思いが、話し合いに全く予想もつかない伝承館の意味をもたらしていただけたことに、つくづく出会いの偶然と有難さを感じさせられたものです。
今回の話し合いのまとめを公開させていただくことで、原発事故の教訓を示す機関として伝承館がさらによりよいものになることを期したいと思います。(文・渡部 純)
これは誰がどこから得た情報ですか? 僕が先日ともに双葉に行った方の家は原発からわずか1.5km、しかし東電から何の連絡もなかったと言っている。そしてその方が夫婦で避難できたのは3/15、自衛隊に見つけられてからです。実態を知らない人が虚偽の話をするのはやめていただきたいです。
コメントいただきありがとうございました。
ご指摘の件ですが、一参加者のご発言ですのでもちろん個人名は差し控えさせていただきますが、大熊町から避難された方のお話をお聞かせいただいたものです。
その時系列については、大熊町の情報サイトに次の説明がありました。
「12日午前6時9分、町は防災無線で全町民に対し、避難のため 最寄りの集会所に集まるよう指示。全町避難を見越してか、すでに国から派遣されていたバス約50台を 主な移動手段とし、スポーツセンターを皮切りに福島第一原発に近い所から移送を始めた。防災訓練で も想定されていない町外へ全町民が避難するという事態に現場は混乱。「国道288号を西へ」というほ か、職員も具体的な行き先を知らないままバスに乗った。想定された田村市の避難所は町に近い方から 満杯になり、沿道に立つ田村市の消防団員たちがさらに西へとバスを誘導。「どこまで行くんだろう ...」。町民は13日未明までかけて、田村市、三春町、小野町、郡山市に分散することになる。 12日午後2時ごろには、町内にひと気はなくなった。避難しそびれた町民がいることを想定し、町幹 部数人と消防団員ら計10人ほどが役場に残ったが、本部にいた東京電力社員が避難を促した。午後3時 36分、福島第一原発から約4.7km離れた役場に「ドーン」という大きな音が響いた。1号機の水素爆発。瞬 時に事態を察知した幹部たちも急いで町を後にした。」
https://www.town.okuma.fukushima.jp/uploaded/attachment/1537.pdf
この記述を読む限り、微妙な時間帯のため、避難指示が伝えられなかったケースもあったものと想像できます。
お書きいただいた双葉町のご夫婦のお話は、そのケースだったのでしょう。あの混乱時にさまざまなケースがあったことは想像に難くありませんが、そのケースをもって他のケースが虚偽であるという結論にはならないでしょう。
東電の怠慢でそのような経験をされた方がいらっしゃることは、憤りを覚えますが、だからといって、この会で話されたお話が虚偽であるということではないと考えます。
伝承館が指導すべきことは特定の団体や組織を批判しないとか、そんなことではないですね。
あなたの論理をそのまま使えば、どこの誰だかわからないあなたは、双葉町のご夫婦から聞いただけの話をそのまま語っているだけということになります。
それが事実かどうか私には確証できません。しかし、それだけをもってあなたが語っている双葉町のご夫婦の経験が「虚偽」だと断ずることはできません。
もし、そう断じればその双葉町のご夫婦の経験と記憶を否定し、抹殺することになるからです。
逆もしかりです。
なぜ、あなたは自分が聞いて代弁することだけは「真実」であり、別の代理された証言は「虚偽」と断じることができるのか。私にはわかりません。そこには論理的飛躍があります。
既に上のコメントで述べたように、爆発以前に国・大熊町から指示されて避難したケースと、爆発後までそれが伝えられないままだったケースがありうることを私は認めています。
時系列から言って、両者の可能性は対等であると考えられるからです。
こうした事実をめぐる考え方論理的矛盾があるのであれば議論に応じますが、そのようなことができない、ないしはするつもりがないのであれば、これ以上の応答には答えまかねます。
上記のコメントで