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チャイコフスキー de カフェ雑感

2017-07-16 | 音楽系
ここ福島市は連日の猛暑。
この日もご多分に漏れず、太陽に照射された街はげんなりする暑さ。
そんな日に橘高校のオーケストラの定期演奏会プレ発表を拝聴してのカフェが開かれた。
カフェマスターは、いやマエストロはオケを率いる深瀬さん。
相変わらずタオルを手放せない暑苦しい指揮ぶりは、猛暑を倍増させるかのようだ。
それに比して、チャイコフスキー交響曲一番を演奏する橘高校の置けの演奏はさわやかの一言。
まるで指揮者の暑苦しさを演奏者が冷却させるかのような心地よさに思わず目を閉じながら聴き入る。
楽章の合間合間にマエストロの解説が入る。
楽章の主題、ロシア民謡ともいうべきコサックのリズムとヨーロッパ調のフーガの混成。
さらには、ロシアの農奴解放からクリミア、ウクライナ地方の歴史的に複雑な背景と一民族一国家、民族自決などの歴史背景。
演奏に重ね合わせた解説は、チャイコフスキーが国民音楽派と呼ばれる所以を素人にもわかりやすく理解させてくれるものだった。

さて、一時間にわたる演奏鑑賞の後、ブック&カフェコトウへ移動したメンバーでチャイコトーク。
というか、みんな演奏やチャイコの曲は聞いていて心地がいいということは共通しても、さて、それでチャイコの何について語るべきか、その言葉が見当たりません。
マエストロは引き続き部活動の練習指導のため不在。
しかし、この専門家不在の素人の音楽談義はけっこうおもしろかった。
コサックのリズムには「おっ」と身体が反応するものの、いわゆるクラシック音楽は身体を揺さぶられることはあまりない。
身体のリズムともいうべき音楽が民謡のような土俗性であるのに対し、「洗練」されたクラシック音楽は身体から引き離して対象化されたかのようなものじゃないか。
まさに「鑑賞」とは「観照」のようなものであるのに対し、身体を揺さぶる音楽とは一線を画すものじゃないだろうか。
ただし、それを単純にプリミティブな音楽というべきではないだろう。

もちろん、チャイコの交響曲1番には劇的な場面もあり、思わず魂や感情が引っ張り込まれることもあった。
こういうのに引っ張り込まれるのって、ナショナリズムの醸成と関係あるの?
後にマエストロに聞いたところによると、そこまで明確があるとは思えない、けれど微妙という答え。
18世紀とは異なり、19世紀に入るとクラシックも大衆化されていき、かなりの市民がチャイコの音楽にふれたのじゃないだろうか。
すると、音楽の扇動性もまたなにがしかの意味をもつともいえる。

あれ?そういえば日本の国民音楽ってなんだろう?
都々逸?それは民謡的なものでしょう。
「海ゆかば」なんかがそうじゃないかな。
いまどき軍艦マーチが流れるパチンコ屋なんてないだろうけれど、軍楽なんかは国民的になんとなく口ずさんでしまうものがあるよね。
美空ひばりは?
演歌こそは国民音楽ともいえるけれど、その大衆性や土俗性はやはりクラシックとは一線を画す。
しかも演歌は朝鮮半島由来だということは知っておいた方がいいと思う。
マエストロは古賀政男じゃないかなという。
ならば、わが(?)古関裕而などもそうじゃないかな。
「栄冠は君に輝く」や「六甲おろし」は国民的音楽というにふさわしいだろう。
けれど彼もまた戦時中には戦意高揚を図る軍歌を作曲していたということもまた事実だ。
その意味で言えば、いわゆるクラシックとは異なる系譜として日本の国民音楽の両義性は読み解いていけそうだ。

それにしても、さっきの演奏、思い出せる?
素人の悪い癖なのか、貧乏性のせいなのか、音楽教養のなさに対するコンプレックスなのか、こうした問いを抱いてしまう。
そんなものは必要ないでしょ。
音楽演奏はそもそも一回性にこそ本質がある。
その時々の成功失敗も含めて、瞬間立ち現れる音楽性こそが、演奏会たるゆえんだというのだ。
なんども思い出せるのは演奏家など訓練するものが為しうるものだ。
ところが、複製技術が進化したこの時代において、この一回性、つまりベンヤミン流に言えば「今、ここ」性、アウラは失われてしまっている。
CDで何度も聞き返せるし、音楽だけを目的にするならば、これで十分のはず。
では、なぜ「演奏会に足を運ぶのか。
それは、この「今、ここ」性の魅力なのじゃないか。
いわゆる美術館アートや文学のように、物質化されたもの以上に、音楽はさっとかすめ去っていく一瞬性が強い。
しかも、初めて聞く曲を想い起こそうとしても、素人にそれは困難だ。
加えて、クラシックは複雑で長い。
それでも、どこをどうと言葉で説明できないけれど、「あの時の変調」が印象にあるという程度の記憶はあるだろう。
口ずさむことができれば上出来だ。
それでも、あのときの一瞬の陶酔は忘れられない。それがアウラというものじゃないだろうか。
複製芸術時代においてなおそれは意味をもちうるとすれば、それはなんだろうか。

それにしても素人がアートに触れるときにはいつも付きまとう疑問がある。
それは、知識やある種の作法をもってしなければアートは楽しめないのか、というものだ。
美術館に配置される現代アートはその典型だろう。
デュシャンみたいに「これはアート?」なんて挑発的に美術鑑賞の作法や鑑賞の枠組みを解体する問題提起でさえ、いまや通俗性を帯びている。
音楽ではジョン・ケージの「沈黙」が有名だろう。
趣味作法の枠組解体への挑発に慣れたわたしたちは、すでにこうした問いを投げかけることにさえ慣れている。
じゃあ、文化的枠組(学習)なしの趣味は可能かという問いにもつながっていく。
これがブルデューの問いであることはいうまでもない。

こうして、チャイコフスキーど素人談義は、チャイコそれ自体を語ることは難しかったようだが、音楽やアートその物を問い直す地点にさかのぼる議論を可能にした。
もしかすると、チャイコの特性を際立たせるためには、比較の対象としてそれとは異質な何かを演奏してもらえた方がいいのかもしれない。
とはいえ、定演直前の貴重な時間を割いて、素敵な演奏を聴かせていただいた橘高校オーケストラの皆さんには無限の感謝を申し上げます。
貴重な機会、ありがとうございました。


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