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映画『愁いの王―宮澤賢治―』を観る/語る会

2019-07-11 | 映画系

【テーマ】  映画『愁いの王―宮澤賢治―』を語る会
【開催日時】7月13日(土)上映12:45~16:30終了予定 /語る会:17:00〜19:00
【開催場所】フォーラム福島で上映後、近所の飲食店にて開催します。
予算は1,500円(食事・ソフトドリンク)、アルコール3,500円程度です。
参加希望の方はは必ずメッセージでお申し込みください。席数に限りがあります。

満席御礼<(_ _)>申し込みを締め切らせていただきますm(__)m
【申し込み】語る会に参加される方はメッセージでお申し込みください。
【参加費】映画鑑賞料は各自でお願いします。飲料費・会場費の詳細は後ほどアップします。
  ※前売り券はフォーラム福島にてご購入下さい.
前売り券の販売開始は5月20日からです。
  ※映画前売券:大人2000円/学生1000円(当日は大人2500円/学生1500円)
  ※招待券不可、前売限定150枚完売し次第、当日発券はなしになります。

   完売御礼<(_ _)>
【カフェマスター】深瀬幸一
【開催趣旨】

今年の2月に東北農民管弦楽団の練習に参加するために花巻を訪れた。
前日、宮沢賢治記念館を訪れた際にフライヤーを見て初めてこの映画のことを知った。
間もなく盛岡でたった一回の上映がされるという。
あいにくその日は予定があり行くことができない。
その時からこの映画のことが気になって仕方がなくなってしまった。

 宮沢賢治の法華経への傾倒に焦点を当てているという。
賢治は多面的な存在だ。詩人、小説家、教師、農民、宗教家、そして生身の人間として。
詩や小説が難解なせいもあって、神話性をまとっている人物でもある。
詩や小説が難解なのは彼の法華経信仰と無関係ではない。
吉田監督は、彼の難解な詩や小説を理解するために法華経を勉強したそうである。
この映画は全篇モノクロームで撮られ、BGMは全てバッハである。
ことに多く選曲されているバッハのコラールは、このキリスト教作曲家の信仰告白に等しい。
吉田監督は法華経そのものについて語りたいのではなく、法華経が賢治の心にどう根付き、それが彼の人生をどう変えたのかを描きたいのではないか。

バッハの傑作『マタイ受難曲』は、罪なきイエスキリストを十字架にかけた人間の罪を苛烈に描いている。
罪とはその時の当事者だけのものではなく私たち人間の罪である。
賢治の小説や詩を読むと彼は常に自らの罪(業)を見つめ向き合っていた人物だと思う。
私にはバッハの描いた人間の罪と賢治が見つめた罪(業)が重なり合うように思われる。
東北農民管弦楽団は、農業に携わりかつ宮沢賢治の「農民芸術論要綱」に共感する人々によって構成されている。
農業に携わる人々にとって自然とは恵みでも脅威でもある。
自然を治めることの不可能性を誰よりもよく知っているのは農民である。
人間とは、自然に対しても自らの罪(業)に対しても、ひたすら許しを乞い祈るより仕方がない存在である。
音楽とは祈りである。
音楽は農民にこそふさわしい活動である。

震災原発事故から8年以上が経った。
震災は人間がいかに弱い存在であるかを改めて教えてくれた。
私たちは、私たちの罪(業)を忘れるべきではないのと同様にこのことを忘れるべきではない。
この映画を福島の心ある人々と見たい。
そして宮沢賢治について、人間の罪(業)について、自然について、震災原事故以降の私たちの生き方について話し合う機会が持てればと願っている。(深瀬)

【ストーリー】映画HPより
1896年(明治29)の陸羽大地震の4日前に岩手県の花巻で生まれた賢治は、町でも有名な裕福な家庭で育ち何不自由なく過ごした。また、家が真宗で信仰の厚い家庭で育ったのだが、実家の家業の質屋には反発を覚えていた。
すぐに家業を継がせたい祖父の反対を押し切り、全国各地から秀才の集まる盛岡高等農林学校に進学した。その頃、法華経と出会い衝撃を受け、生涯信仰する様になるが、家が真宗だったため父親と対立する様になり、家業を継ぎたくない賢治は卒業後、家出して上京する。
そこで、在野の宗教団体・国柱会で修行し布教活動をするのだが、最も信頼し自分を理解してくれる最愛の妹トシが病に倒れたとの電報を受け取り、花巻に戻る。そして、家業を継がせる事を諦めた父の後押しもあって花巻農学校の教師になる。そこでの教師生活の4年4ヶ月は賢治にとっても生徒達にとっても至福の時だった。しかし、教師になって一年余り、最愛の妹・トシが亡くなる。賢治は妹亡き後、暫くの間、筆を手に取る事ができなかった。
トシが亡くなった翌々年に詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』を自費出版する。それらはまったく売れなかったが、生前に出版されたのはこの2冊だけであった。
教師を辞めた賢治は自給自足の農民生活を送るが、農民のために奔走し無理がたたって倒れてしまう。一度は回復するのだが、すぐに再び病に伏し、37年の生涯を閉じる。その年1933年(昭和8)3月3日に三陸大地震が起き、岩手は大被害を被る。
没後、弟の清六が賢治の遺言である法華経を筒に納めて岩手県内の32ヶ所の経埋ムベキ山に埋経する。
2052年に賢治の遺言の法華経が、ある山から見つかる。その経筒には
〝此ノ経 尚 世間ニマシマサバ 人コノ筒ヲトルコトナク 再ビ コノ地中ニ安置セラレタシ〟と書いてあった。
見つけた男はその経を持って、混沌とするこの世界に下山するのであった。
 1896年(明治29)の陸羽大地震の4日前に岩手県の花巻で生まれた賢治は、町でも有名な裕福な家庭で育ち何不自由なく過ごした。また、家が真宗で信仰の厚い家庭で育ったのだが、実家の家業の質屋には反発を覚えていた。
 すぐに家業を継がせたい祖父の反対を押し切り、全国各地から秀才の集まる盛岡高等農林学校に進学した。その頃、法華経と出会い衝撃を受け、生涯信仰する様になるが、家が真宗だったため父親と対立する様になり、家業を継ぎたくない賢治は卒業後、家出して上京する。
 そこで、在野の宗教団体・国柱会で修行し布教活動をするのだが、最も信頼し自分を理解してくれる最愛の妹トシが病に倒れたとの電報を受け取り、花巻に戻る。そして、家業を継がせる事を諦めた父の後押しもあって花巻農学校の教師になる。そこでの教師生活の4年4ヶ月は賢治にとっても生徒達にとっても至福の時だった。しかし、教師になって一年余り、最愛の妹・トシが亡くなる。賢治は妹亡き後、暫くの間、筆を手に取る事ができなかった。
トシが亡くなった翌々年に詩集『春と修羅』童話集『注文の多い料理店』を自費出版する。それらはまったく売れなかったが、生前に出版されたのはこの2冊だけであった。
 教師を辞めた賢治は自給自足の農民生活を送るが、農民のために奔走し無理がたたって倒れてしまう。一度は回復するのだが、すぐに再び病に伏し、37年の生涯を閉じる。その年1933年(昭和8)3月3日に三陸大地震が起き、岩手は大被害を被る。
 没後、弟の清六が賢治の遺言である法華経を筒に納めて岩手県内の32ヶ所の経埋ムベキ山に埋経する。
 2052年に賢治の遺言の法華経が、ある山から見つかる。その経筒には
 〝此ノ経 尚 世間ニマシマサバ 人コノ筒ヲトルコトナク 再ビ コノ地中ニ安置セラレタシ〟と書いてあった。
見つけた男はその経を持って、混沌とするこの世界に下山するのであった。
 

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