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日本の司教団がウクライナとロシアを聖母の穢れなき御心に奉献

2022-03-24 11:01:17 | 教会行事
日本の司教団がウクライナとロシアを聖母の穢れなき御心に奉献して下さるそうです。

ウクライナとロシアを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献する 教皇フランシスコと心をあわせて 日本カトリック司教協議会会長呼びかけ 2022/03/23 カトリック中央協議会

日本のカトリック信者の皆様
ウクライナとロシアを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献する
教皇フランシスコと心をあわせて

 ロシアによるウクライナへの武力侵攻は、2月24日に発生してからまもなく一ヶ月になろうとしていますが、残念ながら戦争状態は継続しており、平和とはほど遠い現実が、毎日のように報道されています。
 いのちが危機に直面しているこの状況を憂慮され、平和を求めるために様々に努力を続けておられる教皇フランシスコは、聖母の取り次ぎによる平和を求めて、来る3月25日(金)神のお告げの祭日のローマ時間午後5時(日本時間3月26日午前1時)に、聖ペトロ大聖堂において、ロシアとウクライナを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献されます。
 なお3月25日は、1984年に教皇ヨハネパウロ2世がロシアを聖母マリアの汚れなきみ心に奉献した日でもあります。
 教皇様は、全世界の司教たちに、また司教を通じてすべての信者に、この奉献に一致して祈るようにと呼びかけ、できれば同じ時間に祈りを捧げるようにと招いておられます。
 当日のために準備される祈りは、現時点ではまだ教皇庁から届いていませんが、届き次第、可能であれば翻訳を間に合わせ、ホームページなどでお知らせすることができればと思います。公式の祈りが間にあわない場合でも、教皇様の意向に心をあわせ、平和のためにロザリオの祈りなどをお捧げください。また教皇様の奉献との同時刻は日本では深夜ですので、祈りを捧げるのは翌朝でもかまいません。具体的には、それぞれの教区司教の定めるところに従ってお祈りください。
 聖母の取り次ぎによって、神の平和がこの地上にもたらされ、特にウクライナの地に平和が確立されますように、また賜物であるいのちがその尊厳を守られますように、教皇様と心をあわせてともに祈りをささげましょう。

2022年3月23日
日本カトリック司教協議会 会長
カトリック東京大司教 菊地功





また、以下はCNAがスクープした奉献の祈りの全文という話です。訳したうえで紹介します。

==

バチカンは、3月25日に教皇フランシスコが、ウクライナとロシアを無原罪の聖母に奉献するための祈りのテキストを世界中の司教に送付した。

以下は、CNAが入手した祈りの全文である。

 おお、神の母よ、私たちの母なるマリアよ、この試練の時に、私たちはあなたのもとに立ち返ります。私たちの母として、あなたは私たちを愛し、知っています。私たちの心のどんな悩みもあなたに隠されることはありません。慈愛の母、私たちは幾度、あなたの細やかな配慮と安らかな臨在を経験したことでしょう。あなたは私たちを平和の君であるイエスのもとに導くことを決して妨げません。

 しかし、私たちはその平和の道から外れてしまいました。前世紀の悲劇から学んだ教訓を、2つの世界大戦で犠牲になった何百万人もの人々を忘れてしまったのです。私たちは、国家共同体として交わした約束を無視しました。人々の平和への夢と若者の希望を裏切ってきたのです。私たちは貪欲になり、自国とその利益だけを考え、無関心になり、自分たちの利己的な要求や関心にとらわれてしまったのです。神を無視し、幻想に満足し、傲慢で攻撃的になり、罪のない人々の命を抑圧し、武器を備蓄することを選んだのです。私たちは、隣人の管理者であること、共通の家の管理者であることを放棄しました。

 私たちは戦争で地球の庭を荒らし、罪によって、私たちが兄弟姉妹であることを望んでおられる天の御父のみ心を壊してしまったのです。私たちは、自分たち以外のすべての人に無関心でいるようになりました。今、私たちは恥じて叫びます。主よ、私たちをお赦しください。

 聖なる御母よ、私たちの罪深い悲惨さの中で、私たちの葛藤と弱さの中で、悪と戦争という不義の神秘の中で、神が私たちを決して見捨てず、愛をもって見つめ続け、常に私たちを許し、新しい命へと引き上げる用意があることを、あなたは私たちに思い出させてくれます。神はあなたを私たちに与え、あなたの無原罪の御心を教会と全人類の避難所とされました。神の恵み深い意志によって、あなたはいつも私たちとともにおられます。私たちの歴史の中で最も困難な時でさえ、あなたは優しい愛で私たちを導いてくださいます。

 今、私たちはあなたの方を向き、あなたの心の扉を叩きます。私たちはあなたの最愛の子供です。どの時代においても、あなたは私たちにあなた自身を知らせ、私たちを改心させるよう呼びかけています。この暗黒の時、私たちを助け、あなたの慰めを与えてください。もう一度私たちに言ってください。「私はここではないのですか。あなたの母である私です」 あなたは私たちの心と時代の結びつきを解きほぐすことができるのです。私たちはあなたに信頼を置いています。特に試練の時、あなたは私たちの願いに耳を貸さず、私たちを助けに来てくださると確信しています。

 ガリラヤのカナで、あなたがイエスにとりなしをしたとき、イエスが最初のしるしを行ったのは、このことです。婚宴の喜びを保つために、あなたはイエスに言いました。「ぶどう酒がありません」(ヨハネ2:3)。今、母よ、この言葉と祈りを繰り返してください。私たちの時代には、希望のぶどう酒がなくなり、喜びは消え、友愛は色あせています。私たちは人間性を忘れ、平和の贈り物を浪費しています。私たちは暴力と破壊に心を開いています。私たちは、あなたの母性的な助けをどれほど必要としていることでしょう。

ですから、御母よ、私たちの祈りを聞いてください。

海の星よ、私たちを戦争の大波の中で難破させないでください。

新約の箱舟よ、み旨と和解の道を励ましてください。

天の女王よ、世界に神の平和を取り戻してください。

憎しみと復讐心をなくし、許しを教えてください。

戦争から私たちを解放し、核兵器の脅威から私たちの世界を守ってください。

ロザリオの女王、私たちに祈りと愛の必要性を認識させてください。

人間家族の女王、人々に友愛の道を示してください。

平和の女王、私たちの世界に平和をもたらして下さい。

 御母よ、あなたの悲痛な訴えが、私たちの頑なな心を揺り動かしますように。あなたが私たちのために流した涙が、私たちの憎しみによって干上がったこの谷に、新たな花を咲かせますように。武器の雷鳴の中、あなたの祈りが私たちの思考を平和に向かわせますように。あなたの母性的な接触が、爆弾の雨に苦しみ、逃げ惑う人々を和らげますように。あなたの母性的な抱擁が、故郷を追われた人々を慰めますように。あなたの悲しみの心が私たちを慈しみへと導き、扉を開き、傷つき投げ出された兄弟姉妹の世話をするよう促してくれますように。

 聖なる神の御母、あなたが十字架の下に立っていたとき、イエスはあなたのそばにいる弟子を見て言われました。「このように、イエスは私たち一人ひとりをあなたに委ねられました。弟子に、そして私たち一人一人に、イエスは言われました。「見よ、あなたの母を」(27節)。母なるマリア、私たちは今、あなたを私たちの人生と歴史の中に迎え入れたいと願っています。この時、疲れ果て、取り乱した人類は、十字架の下にあなたとともに立ち、あなたに自らを託し、あなたを通じて、キリストに自らを奉献することを必要としているのです。ウクライナとロシアの人々は、大きな愛であなたを崇敬していますが、あなたの心は彼らと戦争、飢餓、不正、貧困によって荒廃したすべての人々への同情で鼓動しているように、今あなたに目を向けています。

 それゆえ、神の母、そして私たちの母、あなたの無原罪の御心に私たち自身を、教会を、全人類を、そして特にロシアとウクライナを厳粛に委ね、奉献いたします。私たちが自信と愛を持って行うこの行為を受け入れてください。戦争が終わり、世界中に平和が広がるようにお与えください。あなたの心から生じた 「なれかし 」は、歴史の扉を平和の王子に開くものでした。私たちは、あなたの心を通じて、再び平和の夜明けが訪れることを信じます。私たちは、全人類家族の未来、すべての人々の必要と期待、世界の不安と希望をあなたに奉献します。

 あなたの執り成しによって、神の慈しみが地上に注がれ、平和の穏やかな調和が私たちの日々を刻むために戻ってきますように。聖霊がお降りになった「なれかし」の聖母よ、神がもたらす調和を私たちの間に回復してください。私たちの「希望の生ける泉」であるあなたが、私たちの心の乾きを潤してくださいますように。あなたの胎内でイエスは肉体を得ました、私たちが交わりを育むことができるように助けてください。あなたはかつて私たちの世界の道を歩んでいました、今私たちを平和の道へと導いてください。アーメン

==引用・和訳終わり

 訳は文語体か口語体か、イエスかイエズスか、神か天主のどちらがいいかなど、私も考えもしましたが、初見の複雑な意味を含む長い文章は口語訳の方が明らかに読みやすいです。そして、現代の精神をお持ちになった教皇フランシスコと司教様方がお祈りになるのですから、イエスと神が語感的に良いのかなぁと私は思いました。 内容も、友愛であったり、地球を傷つけたことであったり、やや現代的なニュアンスが漂っています。 総じて、口語訳が向きであろうと思いましたので、そのように訳させて頂きました。
 
 次は、私の感想になります。

 かつて、ピオ12世教皇がロシアを聖母の御心に奉献されたとき、神様は、その奉献を部分的にしか受け入れて下さいませんでした。奉献をなさったのが教皇単独であり、全司教一致ではなかったからです。その結果、第二次世界大戦の期間は縮められましたが、問題は依然として残りました。

 次にヨハネ・パウロ2世教皇は「世界を、特にあの国を・・・」とロシアを暗示して、全司教一致で奉献をなさいました。この時も、奉献は部分的に受け入れて下さいました。ソビエト連邦は崩壊し、冷戦体制は一時、終結しました。しかし、問題は残ったようです。教皇はロシア(ソ連)を刺激をすることを恐れた為、敢えてロシアを明示せず暗示的に奉献なさったからです。

 イエズス様はファティマの目撃者ルシアに予言されています。「ロシアは奉献されるが遅すぎるだろう」「教皇はかつてのフランス王のように後悔するだろう」と。

 では、今回の奉献はどうなのでしょう。

 ウクライナとロシアの奉献ですし、世界は大変に罪に満ちています。神様は、聞き入れて下さるでしょうか。それとも、ピオ12世教皇やヨハネ・パウロ2世教皇の時のように、部分的に嘉されるでしょうか。どうして、ロシアではなく、ウクライナとロシア、となったのでしょう。奉献文の中に、ファティマは言及されておらず、その精神に通じることもとても少ないのは、どうしてでしょうか。皆様は、どう思いますか。

 ともあれ、「ロシアの奉献」の為に、できれば25日に、心を合わせて祈りましょう。そして、私達が神を忘れて人間中心に生きてきたこと、それも自己中心に生きてきたこと、それから発生した忘恩と冒涜の償いの意向で祈るべきでしょう。戦争も悪ですが、それは私達の罪や性向の結果生まれる二義的なものです。その根源について償いの意向で祈らなければいけません。それは、神を忘れ、もしくは脇に置いて、人中心に、己中心に生きたことです。そして、自分や隣人の心や体をしばしば汚し、悪に染まり、それを放置し、世間体を憚って不正を知りながら制止もしなかったこと。神の教えより、常に世間体を優先したこと。その他、書ききれませんが、要するに償うべき方向性はそのあたりでしょう。また、人を許したか、人を哀れんだか、できたのにしない善行はなかったか、等々、いろいろと出てきそうですが。

 

追記:本日24日19時ごろ、カトリック中央協議会から正式な訳が出たようです。


 せっかく訳しましたので、しばらく私の訳を載せますが、数日後に差し替える予定でいます。当然ながら正確で公式な訳の方が、いいですから。


教皇、ロシアとウクライナをマリアの穢れなき御心に奉献(バチカンニュース)

2022-03-17 08:46:21 | 教会行事
ファティマの聖母の要請は、全司教一致でロシアを…だったような。しかし、おそらく意識はなさっているんですね。

3月25日、教皇、ロシアとウクライナをマリアの穢れなき御心に奉献 バチカンニュース

教皇フランシスコは、3月25日、ロシアとウクライナをマリアの穢れなき御心に奉献される。

 教皇フランシスコは、来る3月25日17時より、バチカンの聖ペトロ大聖堂でとり行う共同回心式で、ロシアとウクライナをマリアの穢れなき御心に奉献される。バチカンのマッテオ・ブルーニ広報局長が声明した。

 同日、ポルトガルの聖母巡礼地ファティマにおいても、教皇特使として派遣される教皇慈善活動室責任者コンラート・クライェフスキ枢機卿によって、同じ奉献がとり行われる。

 カトリック教会において、教皇たちはこれまでも様々な機会に、様々な形で、マリアの穢れなき御心への奉献を表している。



主のご降誕、おめでとうございます

2021-12-25 20:12:20 | 教会行事
 主のご降誕、おめでとうございます。昨日は上野教会でミサに与ってきました。昨年と比べるとコロナへの警戒も緩やかで、聖歌の斉唱も聞けましたし、ひさびさに心温まるミサに参加させて貰えました。



 晴佐久神父様のお説教も久々に聞きましたが、今回はなかなか良いことを仰っていました。以下、その簡単な要約ですが


晴佐久神父様のお説教 (要約)

「天国に少しでも近づけた物を皆さんに見せる、伝える、それがミサであり、施しなんだ。先日は、うぐいす食堂を催し、50食分を生活困窮者に配った。配らないよりは、その日、彼らは寂しい思いをしないで済んだろう。下着などの要望もあり、準備した。
 見えない物を伝えるのが信仰、施しやいたわりも今の世界では、あまり行われなくなっているもの。そうしたものを通じて、普段は見えない物、神を見てくれれば。」


 そして、最後は「主の平和」の代わりに「御降誕、おめでとうございます」の挨拶を皆さんで交わしました。

 ミサには犠牲等、人知を超えた意味があり、一部の保守派や伝統派の方ですと、表現が足らないと不満に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、「ミサはこの世の天国」とする表現も、伝統カトリックに普通にあり、中世初期、フランク王国のクローヴィス王が洗礼を受けたときは、そのミサのあまりの荘厳さに心を打たれ「司教様、ここは天国でありますか?」と驚嘆したという話が残っています。ミサに天国を想起させる効果や意味があるのも疑いなく、私は特に不満には感じませんでした。



 そして、何よりも、施しに熱心になっておられるのは素晴らしく、この一点では、現状、保守派は晴佐久神父様やそのファンたちに負けていると言えそうです。

 うぐいすの会というのは上野教会の別称ですが、最近ではそれに「食堂」をつけて「うぐいす食堂」と題して、生活困窮者に定期的に施しをなさっているそうです。単に資金や人手があればできるという話でもなく、一体、どうやったら効率よくそれができるのか、ノウハウをミサ後に晴佐久神父様に聞いてきました。

待降節

2020-12-06 16:04:48 | 教会行事
「典礼解説 待降節」カトリック中央協議会

◆ 教会公文書の待降節に関連する箇所

・「典礼暦年と典礼暦に関する一般原則」より

待降節39 待降節は二重の特質をもつ。それはまず、神の子の第一の来臨を追憶する降誕の祭典のための準備期間であり、また同時に
その追憶を通して、終末におけるキリストの第二の来臨の待望へと心を向ける期間でもある。この二つの理由から、待降節は愛と喜びに包まれた待望の時であることが明らかになってくる。

40 待降節は、11月30日、もしくは、それに近い主日の「前晩の祈り」に始まり、主の降誕の「前晩の祈り」の前に終了する。

41 待降節の主日は、待降節第1、第2、第3、第4主日と呼ぶ。

42 12月17日から24日に至る週日は、いっそう直接に主の降誕の準備に向けられている。

・『カトリック教会のカテキズム』より

524 教会は毎年、待降節の典礼を行いながら、メシアへの待望を再現します。キリスト者は救い主の最初の来臨に向かう長期の準備
心を合わせながら、再臨への熱い待望を新たにするのです。先駆者の誕生と殉教を祝うことで、教会は、「あのかたは栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3・30)というヨハネの願望を自分のものとします。

1095 以上の理由で、教会はとくに待降節と四旬節、わけても復活徹夜祭で、救いの歴史のすべての重大な出来事を典礼の「今日」という場に立って読み直し、追体験します。しかし、それが実際に効果あるものとなるためには、教会の典礼が表現し体験させている救いの営みを「霊的に」理解できるように、カテケージスを通して信者を助けることが必要です。

・『朗読聖書の緒言』より

93 主日の福音朗読には次のような特徴がある。第1主日は時の終わりにおける主の来臨、第2主日と第3主日は洗礼者ヨハネ、第4主日は主の降誕の直前の準備となった出来事に関連している。旧約聖書の朗読は、救い主(メシア)とその時代に関する預言で、とくにイザヤ書からのものである。使徒書の朗読は、この季節の種々の特徴にそって告げ知らせ、勧め励ますものである。

94 二つの朗読系列がある。一つは第1月曜日から12月16日まで、もう一つは17日から24日まで用いられる。待降節の初めの部分はイザヤ書の朗読で、同書の順番に従って行われる。その中には主日にも朗読される重要な箇所が入っていることもある。この期間の福音は第1朗読との関連で選ばれている。
第2週の木曜日から洗礼者ヨハネについての福音朗読が始まる。しかし、第1朗読にはイザヤ書の続き、または福音と関連して選ばれた箇所が読まれる。
主の降誕前の最後の週には、マタイ福音書の第1章とルカ福音書の第1章から主の降誕を直接準備する出来事が読まれる。第1朗読においては、旧約聖書の種々の書から福音と関連した箇所が選ばれており、その中にはいくつかの重要なメシア預言が含まれている。

死者の日

2018-11-01 10:21:35 | 教会行事
「死者の日」カトリック中央協議会

◆ 死者の月

 カトリック教会で行われる通夜の式は「親しい人との別れは、だれにとっても悲しいことです」という招きの言葉で始まりますが、特に身近な人の死を前にして、死という現実を目の当たりにするのはいつの世も同じです。しかしキリストを信じる者にとって死が人生の終わりに思えたとしても、新たな人生の始まりであり、目的である天国への旅立ちであることを信じているからこそ、人の死を素直に見つめ、悲しみの中にも安らぎを覚えるのです。通夜での祈りはそのことを表明します、「キリストは『わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者はたとえ死んでも生きる』と教えられました。別離の悲しみのうちにもわたしたちは、このキリストのことばに慰めと希望を見いだします」(カトリック儀式書「葬儀」)。

 このようにキリスト教においては、死いうものが神のみもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということですから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることをかねてから教えてきました。またわたしたちは生者同士の関係だけでなく、生者と死者との連帯関係にあります。故人が天国に入るためにはその霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のみもとで永遠の幸福にあずかることができるように祈ることによって死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださることを信じるがゆえに、教会はキリスト教の初期時代から、死者の記念を深い敬愛の心をもって尊び、死者のための祈願をもささげてきました。

 教会の典礼暦で11月2日は「死者の日」とし、亡くなったすべてのキリスト者を記念します。キリスト者の間では2世紀頃から死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、次第にミサが伴うようになりました。亡くなったすべてのキリスト者を1年の特定の日に記念することは、7世紀初めにセビーリャの司教インドルスが、聖霊降臨の祝日の翌日に死者を記念するミサを行なうように指示したことに始るとされています。さらに、諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院院長のオディロンによって始められ、その修道院の修道士たちの影響によって11世紀には広く行なわれるようになりました。ローマ教会には1311年の暦に始めて記されていますが、それ以前からローマでも死者の日の記念日が行われていたと思われます。この記念日は西欧諸国に広まり、15世紀には、スペインのドミニコ修道会で盛んに行なわれ、司祭がこの日に3回のミサをささげるようになったのもこの頃だといわれています。18世紀になる頃には、3回のミサの習慣が世界各地に広まり、1915年に教皇ベネディクト15世がこれをすべての司祭に許可することによって、全教会に広めました。