カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

第12章 西欧の大離教(14世紀)

2018-07-21 00:55:44 | 教会史
第12章 西欧の大離教(14世紀)

57
 第14世紀に入って、聖会はどのような危難に見舞われましたか

 フランスのフィリップ美王の利己心のために、14世紀のカトリック教会はその一致を失いかけ、非常な危険にさらされました。
フィリップ王は、全キリスト教界の公益を頭に置かず、ただ自分一個の利害のみを考えて、国王としての義務を裏切り、国民の協力を得て、教皇に反対するが為に、はじめて国会を召集し(1302年)不法にも十字軍時代の醵金である聖職者の財産に税をかけようとしました。

 教皇ボニファティウス8世はそれを禁止しましたけれども、王がきかないで、反抗したものですから、除名すべしと威嚇しました。

 王は先手を打って、ギーヨン ド ノガレという腹黒い家来を遣わし、ローマの貴族コロンナ家の主人シアラと共謀して、教皇をその避暑地アナニに遅い、教皇を監禁すること3日、なぐるやら威嚇するやら忍ぶべからざる侮辱を加えました。教皇は身に聖服を着け、頭に三重冠を戴き、手には聖ペトロの鍵を持ち、「もし、死なねばならないならば、教皇として死ぬ」といって動きませんでした。
それから教皇はローマに帰り、間もなく病を得て永眠せられました。

58
 その後、教皇はどうなりましたか

 その後、フィリップ王はフランス人クレメンス5世を教皇に選挙させ、これを自国の門前のアヴィニヨンという町に滞在させました。
このときから70年のあいだ、(1309-1377)教皇はアヴィニヨンに駐在し、このため、ローマは衰微の極に達しました。ローマ人はこのアウィニヨン駐在を「バビロンのとりこ」と呼ぶのでありました。

59
 アヴィニヨン駐在の結果として何事がおこりましたか

 1377年、教皇グレゴリウス11世は、アヴィニヨンを去ってローマに帰還しました。惜しいかな、教皇は久しからずして他界せられたので、ローマ市民はイタリア人をその後継者に選挙せよ、と枢機卿たちに要求しました。
選挙の結果、イタリア人ウルバヌス6世が選挙されました。
しかるに、4ヶ月の後、フランス出身の枢機卿たちは、この前の選挙には、人民の強い圧迫が加わっていたので、無効であると称し、別に教皇を選び、これを、アヴィニヨンにおらしめました。
ここにおいて、2人の教皇が起ち、全教会は2派に分かれ、それが39年間も続きました。(1378-1417)これを西欧の大離教と称します。

 実を言えば、離教ではないのです。
離教とは、正当な教皇に従わないのをいうのですが、この時のはそれではなく、ただ、誰が正当の教皇であるか分からないで、言い争ったというまでに過ぎません。この紛争の結果、各国民の教皇に対する信頼の念が薄らぎ、宗教心は衰え、それだけ教皇の地位は下り坂となりました。

60
聖会内に起こったのは、以上のような悲しむべきことばかりでしたか?

 いいえ。
 そうした悲しむべき事を補って余りあるようなこともありました。
(1)布教アヴィニヨンの諸教皇は外国布教に多大の熱をもち、北アフリカ、インド、中国、モンゴル等に数多くの宣教師を遣わして、伝道に従事させました。

(2)イミタチオ クリスチ(キリストに倣いて)
 大離教のさなかに、トマス ア ケンピスの著書、「イミタチオ クリスチ(キリストに倣いて)」という名著が公にされました。
この書は、福音書に次ぐといわれるほどの大傑作、いわば、キリスト教的幸福の教科書でありまして、世の快楽を軽んじ、沈黙と漠寞と謙遜との中に生活し、もって「われらの内に神の御国を見出す」ことを教えているのです。

結び--
 大離教というにがい試練にもまれつつも、14世紀のカトリック教会は広く信仰を公布し、かつ、再興させるという自己の使命を完全に果たしました。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。


第11章 異端と宗教裁判

2018-07-20 00:29:27 | 教会史
「第11章 異端と宗教裁判」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

54
それから聖会は何をしましたか

聖会は外敵を打ち払うと共に、またまた内の敵である異端者とも戦わねばなりませんでした。暴力をもって未信者を改宗させ、異端者を圧迫するようなことは、カトリック教会の固く禁止するところであります。
「聖会は血を嫌う」と、教皇ニコラウス1世もいわれました。
聖マルチヌス、聖アンブロジウス、金口聖ヨハネなどは、異端者を殺すのは罪悪であることをしばしば繰り返しました。

しかし、紀元前1000年頃から異端者は、今日のいわゆる虚無主義、無政府主義といったような新しい誤謬説をまき散らし、聖会に対してのみならず、一般社会に対しても危険この上なしでしたから、これをふせぐには、どうしても新しい手段を用いねばならなくなりました。

55
異端に対して、聖会はどんな手段を用いましたか

アルビ派に対して、十字軍を起こしました。
13世紀のカタル派(清き者)は、この種の異端者中最も恐るべきもので、主として南フランスのアルビ市を根拠地としていましたから、アルビ派と称するのでした。

彼らは自殺を奨励し、婚姻と家庭生活とを否認し、社会的関係の根底たる誓約を一個の罪として排斥し、戦争をも罪悪視し、侵略者に対しても武器を採るべからずと宣伝するのでした。彼らこそ実に虚無主義者、非国民でした。
もし、この異端が勝を制するに至ったならば、西欧の文明は全滅の外はなかったのです。

聖ベルナルドと聖ドミニコとは、最初彼等を改宗させるために、もっぱら温和と説伏をもってしました。
しかし、彼らはそれにこたえるに、虐殺をもってしたので、教皇インノセント3世は、余儀なくも十字軍を起こして彼らを討伐させました。
戦は、20年の久しきに及び、敵味方とも恐るべき残虐をたくましうしました。

しかし、聖会の敵はいつもながら事実を曲げています。
いわゆる「ベジエル城の殺戮」も、彼らが言い立てるほど残虐なものではありません。また、「皆、殺してしまえ、天主は異端者とそうでないものを見分け給うであろう」と教皇使節が言ったというのは、根も無い虚構(つくりごと)でしかありません。

56
聖会は異端をどのように裁判しましたか

聖会は異端を防ぐが為に、新たに宗教裁判制を設けました。
当時、政府の裁判所では、被告に拷問を加えて白状を強いるのでしたが、宗教裁判では、証人の尋問、弁護士、陪審制などを採用しました。
近代の裁判制度はここから発生したのであります。

宗教裁判で加えられる処罰は宗教的で、巡礼、ロウソクの奉献、聖堂への寄付などでした。
処罰は復讐ではなく、罪人を改心させるのを目的としたもので、それらは、近代の刑務所などが到底能くすることができない所です。罪人が悔い改めると、決して、これを官吏に引き渡しません。頑として異端を棄てないものだけが、「俗権の腕」に引き渡され、罪状に従ってそれぞれに処分されたものです。
その最も重いのは、火刑でしたが、しかし、火刑の宣告は、ほとんど例外ともいうべきほどで、しかも、火刑を案出したのは聖会ではなく、ドイツ皇帝フレデリク2世でありました。

なお、この宗教裁判所の設けられたのは、主としてフランス、イタリア、イスパニアの3国でした。イスパニアの宗教裁判は、15世紀の末頃に随分暴虐なことをやったものですが、しかし、それは聖会の裁判所というよりは、むしろ政治上の理由により、国王の手に左右された政治の裁判所であったのです。

結び--
宗教裁判は、正義に対する長大足の進歩でした。近代の裁判制度に多く先じているのであります。

(左下は、カタリ派の儀式)


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

第10章 イスラム教と十字軍(12-13世紀)

2018-07-07 08:36:59 | 教会史
「第10章 イスラム教と十字軍(12-13世紀)」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

49
聖会は外敵に対してヨーロッパをどのように護りましたか

第7世紀以来、ヨーロッパはイスラム教徒の脅威をこうむり、その馬蹄に踏みつぶされそうな危険にさらされたものでした。この危険よりヨーロッパを救ったのは、実にカトリック教会でした。

50
イスラム教徒の危険とは、どのようなものでしたか。

イスラム教というのは、第7世紀にアラビアに出たマホメットが唱えた宗教です。中国では、ゴビの砂漠の北に住んでいた回(糸へんに乞)族(ウーゲルズ族)がこれを信奉していたところから、回教と称するのです。

さて、マホメットは世界をイスラム教に帰服させ、アラビアの支配下に属させるために、神から遣わされたものだと称し、右手に剣を提げ、左手にコーラン--イスラム教の法典--を持ち、武力をもってその教えを広めようとはかりました。
100年足らずでエジプト、シリア、小アジアを取り、進んでアフリカの沿岸及びイスパニアを奪い、フランスを侵しました。もし、フランスの宮宰シャル マルテルの為め、ポアチエの野に爆破(732年)されなかったならば、全ヨーロッパを馬の蹄にけちらしたに相違ありません。

51
カトリック教会は、どのようにしてイスラム教徒を防ぎましたか。

同じイスラム教を拝するトルコ人が1076年、エルサレムを占領するに及んで、聖地巡礼のキリスト教徒を虐待し、とてもひどい乱暴を働きました。
それを聞いたキリスト教諸国民は、皆歯を食いしばり、腕をまくりあげ、何とかして聖地をトルコ人の手より奪い返そうと、日夜念願して止まないのでした。

よって、教皇ウルバヌス2世は、フランスのクレルモンという所に赴き、聖職者、諸侯、信者たちを招集し、救い主の御血に染まった聖地が異教徒に汚されている悲しむべき有様を述べ立てました。また、エルサレム巡礼から帰って来たアミアンのペトロは、巡礼者の苦しい悩ましい状況を物語って、一同の旨を悲憤の情にみなぎらせました。群衆は一斉にたちあがって、「天主の聖意だ、天主の聖意だ」と叫び、必ずエルサレムを奪還しようと誓いました。

教皇は出征軍人の右肩に、赤布の十字架を縫い付けさせましたので、十字軍と称するに至りました。(1095年)
十字軍は500年の間も継続しました。その戦役は、第12世紀と第13世紀には10回、それ以後には4回、併せて14回を数えるのであります。

52
主な十字軍をお話ください

第1回十字軍は、フランスのブイヨン侯ゴドフロアの指揮に属し、1099年7月15日、エルサレムを攻め落としてラテン王国を建てました。

第7回と第8回十字軍は、フランスの聖ルイ王が率いたものでしたが、2回とも失敗に終わり、王は終にアフリカのチュニスを攻囲中、ペストにかかって世を去りました。(1270年)

その後の十字軍は、オーストリア及びイスパニアからイスラム教徒を撃退するのが目的であったのです。

53
十字軍は、どのような結果を生みましたか

十字軍は、その第一目的である聖地の奪還にこそ成功しなかったが、しかし、ヨーロッパに与えた影響は大したものでした。一時、トルコの勢力をくじき、彼らをして、東ローマ帝国をふみにじる機会を失わせました。従軍武士が戦士するか、その所領を売却するかした為に、封建制度は衰え、王権は拡大されました。東国の産物や工芸品が西欧にもたらされて、農、商工や航海術などが大に発達しました。

結び--
「十字軍は世界を新蛮族の洪水より救い、ヨーロッパの面目を一新しました」
(シャトウブリアンの旅行記)


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

第9章 黄金時代 (第13世紀)

2018-07-06 01:57:00 | 教会史
「第9章 黄金時代 (第13世紀)」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

43
叙任権問題の解決後、聖会はどうなりましたか。

長く努力を重ね、諸種の悪弊を取り除いた結果、すばらしいキリスト教精神をヨーロッパに花咲かせ、13世紀をもって最も有名な黄金時代たらしめました。

まず、社会全体にキリスト教精神が行き渡り、フランスには英邁にちて高徳な聖ルイ9世のような名君が立ち、各種の修道会は新たに創設され、聖体や聖母マリア(ロザリオ)、聖遺物に対する信心も盛大となり、それだけ一般の道徳程度もすこぶる高められました。

44
聖会は諸侯の私闘を止めさせる為に何をしましたか

聖会は「神の平和」や「神の休戦」を規定した上に、自ら立って武人の教育を企てました。武人とは、甲冑に身を固めた騎士であります。かくて、キリスト教精神が軍隊にもしみ入り、殺伐な武人をして、紳士的な君子、いわゆる騎士たらしめたのでした。

聖会は、「武器の夜とぎ(日へんに新)」や、剣の祝別式によって、騎士に宗教的性質を吹き込み、厳に聖会のおきて、「神の休戦」の規定を守らせ、次第に戦争を少なくし、戦争中といえども、残酷な好意をさせないようにしました。

45
当代人の信仰を最もよく顕しているのは何でしょうか

種々ありますが、特に、大聖堂の建設は最もよく当代人の信仰を顕したものであります。民衆は類いなき信仰の力に促されて聖堂の建築に当たりました。
司祭たちの指揮に従って、意志を切り出し、讃美歌を歌いながら、思い荷車に積み、険しい坂道だろうと、深い徒渉場だろうと、ものともせずに、ドシドシ引っ張っていくのです。休憩所や建築場では罪を告白し、仇敵と和睦し、負債は帳消しにし、皆同心一致となり、夜間はロウソク行列をして、病人の平癒を祈願するのでした。
要するに、中世期に建立された大聖堂の石という石は、皆、信者たちの額ひにじみ出た脂汗と彼らの深い深い信仰熱とで積み上げられたものでありました。

46
なお、中世期に広く行われた信心の努めは何でしたか

中世期の信者は遠路を厭わず、徒歩で各国の霊場を巡礼したものでした。
フランスはトゥルの聖マルティン、イスパニアはコンポステラの聖ヤコボ、ローマの聖ペトロ、聖パウロ、パレスチナにあるキリストの御墓、などは最も有名な巡礼地で、それらの道路を往来する巡礼者はおびただしい数に上るのでした。
彼らの巡礼旅行は、時として数年間に及ぶことがありました。

47
この時代に、どのような学者が輩出しましたか

12世紀のはじめごろから、暗黒な鉄時代は過ぎ去りまして、キリスト教文学の曙が次第に明るくなりました。いたるところに大学が設けられ、スコラ神学と神秘神学の両界にわたって、有名な学者が輩出しました。

最初、ヨーロッパの学校という学校は、司教区または修道院付けの学校のみでした。
しかし、文化の進むに従い、各地の学生が先を争って馳せ参じ、在来の学校のみでは、到底これを収容しがたくなり、それよりして各地に大学が開かれるようになりました。その中でも特に有名なのは、パリ大学、ローマ大学、ボロニャの法科大学、サレルノ及びモンペリエの医科大学、英国のオックスフォード大学、及びケンブリッジ大学などで、いずれも教皇によって創設されるか、認可、奨励されるかしたものであります。

48
この時代に輩出した聖人の中で最も有名なのは誰でしたか

最も有名な聖人は、聖ベルナルド、アシジの聖フランシスコ、聖ドミニコ、聖ボナウェンツラ、聖トマス アクイナス等でした。

(1)聖ベルナルド(1091-1153年)は、東フランス、ブルゴーニュの領主の家に生まれ、長じてシトー会に入って修道士となり、後クレルヴォの大修道院長となりました。信心篤く、非常な雄弁家で、中世期中、もっとも偉大なる説教者でした。

(2)アシジの聖フランシスコ(1182-1226年)は、イタリアのアシジ町に商人の子として生まれた人ですが、イエズスを愛するが為に自ら進んで貧者となり、その清貧を理想の境にまで押し進めました。その報いとして、天使は彼の体に5つの聖痕をしるしました。彼は聖フランシスコ会の創立者であります。

(3)聖ドミニコ(1170年ー1221年)は、イスパニアの名門グスマン家の人で、当時南フランスにはびこっていたアルビ派の異端を撲滅するがために一生懸命に働き、聖ドミニコ会を組織し、特にロザリオの信心を広めました。

(4)聖ボナウェンツラ(1221年ー1274年)は、イタリア、ウィテルポーの人で、フランシスコ会に入り、パリ大学で、アレクサンデル ハレスに師事し、24歳で大学の教壇に立ち、後、自会の総長に選ばれ、枢機卿に任ぜられました。
特に神秘神学にその名を高くしております。

(5)聖トマス アクイナス (1225-1274年)は、ナポリの付近にあるロッカセッカ城に生まれ、ドミニコ会に入り、パリ大学に学び、聖大アルベルトに師事し、卒業後、同大学に教鞭を執りました。
中世期第一の哲学者かつ神学者でその作中、最も有名なのは、「神学大系」であります。

結び--
キリスト教信仰の力によって、13世紀は最も偉大なる精神文明の世紀となりました。




よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

第8章 俗権と教権との衝突

2018-07-05 10:22:42 | 教会史
「第8章 俗権と教権との衝突」『聖会史のはなし』浦川和三郎司教

37
この時代の出来事をひとまとめにしてください

ドイツ皇帝は、聖会を奴隷にして、自分の意のままに遣い回そうとしました。
聖会はそれにさからって、その束縛を脱しました。これを俗権と教権との衝突と申します。その間にも聖会は相変わらず世界平和と自己の改革とに力を尽くしたのであります。

38
ドイツ皇帝はどうして聖会に干渉するようになりましたか

カロリンガ大帝国がくずれましてから、イタリアの諸侯は教皇庁に干渉して、横暴の限りを尽くすのでしたから、教皇ヨハネ12世は、ドイツ王オットー1世の助けを求め、963年ローマにおいてこれに帝冠を加えました。こうして、神聖ローマ帝国なるものが新たに起こりました。

しかしそれは前門にオオカミを防いで、後門にトラを進める結果となり、聖会は全くドイツ皇帝の奴隷となってしまいました。

ドイツ皇帝は、司教達を登用して諸侯となし、俗務に当たらせました。
しかも、これを叙任するのに指環と牧杖を以てするので、神聖なる教権までが、俗界の君主から授けられるかのような観を呈するに至りました。なお、皇帝は司教区や大修道院区を競売(せり売り)にし、多く献金したものにこれを授けるとか、あるいは自分に忠誠な家臣に褒美としてこれを与えるとかしました。時としては教皇の任命にもそのようなことをしたものです。こうなっては早かれ遅かれ、皇帝の手の中に丸められ、消え失せるのを待つより外はありません。

39
この悪弊を刈り除くために聖会は何をしましたか

教皇聖グレゴリウス7世は、一大決心をもって、この悪弊を刈り除こうと努めました。「俗権から任命されたものは、これを司教とも大修道院長とも認めない。
 皇帝であろうと、その他の王公であろうと、司教叙任権を公使するものは、断然これを除名する」という教令を発布しました。

時のドイツ皇帝ヘンリ4世は、上の教令をあざ笑って問題にしません。
相変わらず司教、大修道院長等を叙任し、1076年には、ウォルムスに司教たちを招集して、教皇の廃位を決議し、人をローマに遣わしてその決議文を教皇グレゴリウスに突きつけさせました。教皇もやむを得ず、ヘンリ及びウォルムスに集会した司教たちに対して除名を宣告しました。

40
除名の結果はどうなりましたか

その頃のドイツは選挙王国で、全権は諸侯の掌中にありました。
1ヶ年以内にその除名を解除されなければ、当然位を失わねばならなかったのです。
さすがのヘンリもうろたえずにはいられません。
一日も早く教皇に除名の取り消しを嘆願するのが一番だと思い、1077年1月、ひそかにアルプスの険しい道を越えてイタリアに入り、グレゴリウスの駐在しているカノッサ城に着き、王位を脱ぎ、苦行者の服をつけ、はだしで門前に立つこと3日にして、ようやく教皇の恩典を得ました。

「カノッサは暴力に対する精神の勝利で、人類の一大名誉だ」
とフランス国19世紀の評論家ルメトルは言っています。

しかし、叙任権問題はこれで解決した訳ではなく、久しく紛争を続けましたが、
終に1122年ウォルムスの協約を成立し、皇帝は司教及び大修道院長の選挙に干渉しないこと、ただ、選挙後、笏をもってこれを叙任することと定め、こうして半世紀にわたる「もつれ」も聖会側の勝利をもってめでたく解決しました。

41
聖会は世界平和の為に何をしましたか

聖会は当時の荒々しい気風を和らげ、平和の精神を養うが為に、「神の平和」と、「神の休戦」という2つの制度を設けました。
「神の平和」とは、教会、修道院、聖職者、農夫、商工人、その住宅、農作物、家畜等を犯すべからずという法令でした。今日戦闘員と非戦闘員とを区別し、非戦闘員の生命、住宅、財産に手を触れるのを禁じるのは、ここに始まったのです。

「神の休戦」とは、一定の期日に戦争を禁止するのでありまして、その期日とは、毎週水曜日の夕方から月曜日の早朝まで、その他大祝日とその前日、四季のはじめ、わが主の御降誕節と7旬節から御復活祭までを含んだものでした。
上記制度は、10世紀の終わり頃、南フランスのアキテーヌ地方で考案され、次第に全キリスト教界に実施せられたものであります。
なお、「神の平和」か「神の休戦」かに背いたものがあると、司教たちはその地方ひ聖務禁止令を発し、必要やむを得ない場合のほかは、秘跡を授ける事すらゆるさず、もって犯人の自省を促すのでした。

42
聖会はどのようにして自己の改革を断行しましたか

ドイツ皇帝の圧制と絶え間なき戦争の禍いとを脱した聖会は、平和の中に黙々として自己の改革に力を尽しました。改革運動は、11世紀にはじまって、12世紀、13世紀に及びました。この間は、実に大教皇、大聖人、大事業の世紀でございました。

結び--
聖会と離れた近代人は、恐るべき世界戦争、「地獄の戦争」とも言われたような災いを見るに至りました。しかし、中世には、教会の努力によってそのような不幸は見られなかったのです



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。