第12章 西欧の大離教(14世紀)
57
第14世紀に入って、聖会はどのような危難に見舞われましたか
フランスのフィリップ美王の利己心のために、14世紀のカトリック教会はその一致を失いかけ、非常な危険にさらされました。
フィリップ王は、全キリスト教界の公益を頭に置かず、ただ自分一個の利害のみを考えて、国王としての義務を裏切り、国民の協力を得て、教皇に反対するが為に、はじめて国会を召集し(1302年)不法にも十字軍時代の醵金である聖職者の財産に税をかけようとしました。
教皇ボニファティウス8世はそれを禁止しましたけれども、王がきかないで、反抗したものですから、除名すべしと威嚇しました。
王は先手を打って、ギーヨン ド ノガレという腹黒い家来を遣わし、ローマの貴族コロンナ家の主人シアラと共謀して、教皇をその避暑地アナニに遅い、教皇を監禁すること3日、なぐるやら威嚇するやら忍ぶべからざる侮辱を加えました。教皇は身に聖服を着け、頭に三重冠を戴き、手には聖ペトロの鍵を持ち、「もし、死なねばならないならば、教皇として死ぬ」といって動きませんでした。
それから教皇はローマに帰り、間もなく病を得て永眠せられました。
58
その後、教皇はどうなりましたか
その後、フィリップ王はフランス人クレメンス5世を教皇に選挙させ、これを自国の門前のアヴィニヨンという町に滞在させました。
このときから70年のあいだ、(1309-1377)教皇はアヴィニヨンに駐在し、このため、ローマは衰微の極に達しました。ローマ人はこのアウィニヨン駐在を「バビロンのとりこ」と呼ぶのでありました。
59
アヴィニヨン駐在の結果として何事がおこりましたか
1377年、教皇グレゴリウス11世は、アヴィニヨンを去ってローマに帰還しました。惜しいかな、教皇は久しからずして他界せられたので、ローマ市民はイタリア人をその後継者に選挙せよ、と枢機卿たちに要求しました。
選挙の結果、イタリア人ウルバヌス6世が選挙されました。
しかるに、4ヶ月の後、フランス出身の枢機卿たちは、この前の選挙には、人民の強い圧迫が加わっていたので、無効であると称し、別に教皇を選び、これを、アヴィニヨンにおらしめました。
ここにおいて、2人の教皇が起ち、全教会は2派に分かれ、それが39年間も続きました。(1378-1417)これを西欧の大離教と称します。
実を言えば、離教ではないのです。
離教とは、正当な教皇に従わないのをいうのですが、この時のはそれではなく、ただ、誰が正当の教皇であるか分からないで、言い争ったというまでに過ぎません。この紛争の結果、各国民の教皇に対する信頼の念が薄らぎ、宗教心は衰え、それだけ教皇の地位は下り坂となりました。
60
聖会内に起こったのは、以上のような悲しむべきことばかりでしたか?
いいえ。
そうした悲しむべき事を補って余りあるようなこともありました。
(1)布教アヴィニヨンの諸教皇は外国布教に多大の熱をもち、北アフリカ、インド、中国、モンゴル等に数多くの宣教師を遣わして、伝道に従事させました。
(2)イミタチオ クリスチ(キリストに倣いて)
大離教のさなかに、トマス ア ケンピスの著書、「イミタチオ クリスチ(キリストに倣いて)」という名著が公にされました。
この書は、福音書に次ぐといわれるほどの大傑作、いわば、キリスト教的幸福の教科書でありまして、世の快楽を軽んじ、沈黙と漠寞と謙遜との中に生活し、もって「われらの内に神の御国を見出す」ことを教えているのです。
結び--
大離教というにがい試練にもまれつつも、14世紀のカトリック教会は広く信仰を公布し、かつ、再興させるという自己の使命を完全に果たしました。
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。
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第14世紀に入って、聖会はどのような危難に見舞われましたか
フランスのフィリップ美王の利己心のために、14世紀のカトリック教会はその一致を失いかけ、非常な危険にさらされました。
フィリップ王は、全キリスト教界の公益を頭に置かず、ただ自分一個の利害のみを考えて、国王としての義務を裏切り、国民の協力を得て、教皇に反対するが為に、はじめて国会を召集し(1302年)不法にも十字軍時代の醵金である聖職者の財産に税をかけようとしました。
教皇ボニファティウス8世はそれを禁止しましたけれども、王がきかないで、反抗したものですから、除名すべしと威嚇しました。
王は先手を打って、ギーヨン ド ノガレという腹黒い家来を遣わし、ローマの貴族コロンナ家の主人シアラと共謀して、教皇をその避暑地アナニに遅い、教皇を監禁すること3日、なぐるやら威嚇するやら忍ぶべからざる侮辱を加えました。教皇は身に聖服を着け、頭に三重冠を戴き、手には聖ペトロの鍵を持ち、「もし、死なねばならないならば、教皇として死ぬ」といって動きませんでした。
それから教皇はローマに帰り、間もなく病を得て永眠せられました。
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その後、教皇はどうなりましたか
その後、フィリップ王はフランス人クレメンス5世を教皇に選挙させ、これを自国の門前のアヴィニヨンという町に滞在させました。
このときから70年のあいだ、(1309-1377)教皇はアヴィニヨンに駐在し、このため、ローマは衰微の極に達しました。ローマ人はこのアウィニヨン駐在を「バビロンのとりこ」と呼ぶのでありました。
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アヴィニヨン駐在の結果として何事がおこりましたか
1377年、教皇グレゴリウス11世は、アヴィニヨンを去ってローマに帰還しました。惜しいかな、教皇は久しからずして他界せられたので、ローマ市民はイタリア人をその後継者に選挙せよ、と枢機卿たちに要求しました。
選挙の結果、イタリア人ウルバヌス6世が選挙されました。
しかるに、4ヶ月の後、フランス出身の枢機卿たちは、この前の選挙には、人民の強い圧迫が加わっていたので、無効であると称し、別に教皇を選び、これを、アヴィニヨンにおらしめました。
ここにおいて、2人の教皇が起ち、全教会は2派に分かれ、それが39年間も続きました。(1378-1417)これを西欧の大離教と称します。
実を言えば、離教ではないのです。
離教とは、正当な教皇に従わないのをいうのですが、この時のはそれではなく、ただ、誰が正当の教皇であるか分からないで、言い争ったというまでに過ぎません。この紛争の結果、各国民の教皇に対する信頼の念が薄らぎ、宗教心は衰え、それだけ教皇の地位は下り坂となりました。
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聖会内に起こったのは、以上のような悲しむべきことばかりでしたか?
いいえ。
そうした悲しむべき事を補って余りあるようなこともありました。
(1)布教アヴィニヨンの諸教皇は外国布教に多大の熱をもち、北アフリカ、インド、中国、モンゴル等に数多くの宣教師を遣わして、伝道に従事させました。
(2)イミタチオ クリスチ(キリストに倣いて)
大離教のさなかに、トマス ア ケンピスの著書、「イミタチオ クリスチ(キリストに倣いて)」という名著が公にされました。
この書は、福音書に次ぐといわれるほどの大傑作、いわば、キリスト教的幸福の教科書でありまして、世の快楽を軽んじ、沈黙と漠寞と謙遜との中に生活し、もって「われらの内に神の御国を見出す」ことを教えているのです。
結び--
大離教というにがい試練にもまれつつも、14世紀のカトリック教会は広く信仰を公布し、かつ、再興させるという自己の使命を完全に果たしました。
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。