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後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社 7

2016-07-09 23:06:11 | イスラム教
後藤明(東大教授)「イスラム教の聖戦(ジハード)―ムハンマドはいかにしてアラビアを征服したか」『世界「戦史」総覧』新人物往来社

七、聖戦の結果

 七世紀前半のイスラム教の聖戦は、アラビアをイスラム教のもとに纏め、ローマ帝国からシリアとエジプトを奪い、ペルシア帝国を滅ぼしてイラクを奪ってしまった。その後の数十年間の聖戦で、イスラム教の勢力は、かつてのペルシア帝国の全領域を吸収し、北アフリカの地をローマ帝国から奪っていくことになる。しかし、今日中東と呼ばれる地域でイスラム教徒が多数派になるには、さらに数百年の歳月を必要とした。聖戦の直接の結果は、少数のイスラム教徒が、多数のキリスト教徒などを支配する新たな巨大な帝国の出現であった。

聖エウロギウス

2016-07-09 23:04:37 | イスラム教
聖エウロギウス

 エウロギウス(スペイン語San Eulogio de Córdoba 、ラテン語Sanctus Eulogius Cordobae;800年 - 859年3月11日)は、9世紀コルドバのキリスト教聖職者。カトリック教会・正教会で聖人。正教会では神品致命者。コルドバにおける殉教聖人のひとり。後ウマイヤ朝君主アブド・アッラフマーン2世からその子ムハンマド1世の治世に活躍した。

 アンダルス時代における反イスラーム主義でも知られる。彼は850年から859年にかけて、キリスト教徒たちがイスラーム信仰を批判し死刑に処された一連の事件に共感を覚え、彼らの行動を殉教としてその殉教記を記した。彼自身も859年にイスラームを公然と批判したことで逮捕され処刑された。

・来歴

 エウロギウスの親友アルヴァルスの著書『エウロギウス伝(ラテン語;Vita Eulogii)』によれば、エウロギウスはコルドバの貴族の家系に生まれた。彼は純血のヒスパノ=ローマ人であり、アラブ人の血は一滴も混じっていなかったという。

 エウロギウスは両親によって聖ソイロ教会の修道院に預けられ、そこでスペラインディオに師事して哲学、神学、ラテン語、アラビア語を学び、修行に励んだ。アルヴァルスとの友情はこのときから始まったと記されている。

 青年となったエウロギウスは助祭、続いて司祭に昇格し、殉教事件の直前には聖職者教育の教師となった。彼はスペイン北部でコルドバ=アミール国に抵抗するキリスト教徒の支配地域に2回赴き、その地の聖職者との交流を深めるとともに、イスラームに対する敵対心を増大させた。彼が殉教事件に遭遇したのは、2回目の旅行を終えてコルドバに戻ってきた直後のことであった。

・殉教記の執筆

 西暦851年6月3日、かつてコルドバ=アミール国のカーティブ・アッ・ズィンマーム(ズィンマの書記)であったキリスト教徒イサークはイスラーム法の裁判官の面前でイスラームとその預言者ムハンマドを批判し、アブド・アッラフマーン2世によって斬首刑に処された。これ以降も続々と官吏の目の前でイスラームや預言者ムハンマドを批判するキリスト教徒が現れ、死刑になった。アブド・アッラフマーン2世は驚くとともに激怒し、イスラームに対する批判はどのような理由があれ死刑であるという法令を改めて発布し強調した。しかし後継者であるムハンマド1世が即位して後もこのような事態は続き、キリスト教徒に対する警戒感が高まった。ムハンマド1世はキリスト教徒の官吏を追放し、これまで無視されてきたズィンミーに対する権利制限を厳格に施行するなどズィンミーに対する抑圧を強化する政策を採った。

 このような状況で、キリスト教社会の殉教者に対する意見は二分された。当初は処刑された人々への同情が強かったが、アミールとその政府がキリスト教に対する圧迫を強めると、多くのキリスト教徒が態度を翻し、「個人的な魂の救済のために共同体を危機にさらした。」と殉教者を非難した。

 これに対してエウロギウスは親友であるアルヴァルスとともに殉教者を熱烈に擁護し、彼らの徳と勇気を賞賛した。また彼は殉教記の中で批判者たちに反論を行った。彼は上に記した反イスラーム主義的態度をもってムハンマドとイスラームを攻撃し、「イスラームがキリスト教と同系の宗教である以上、公然と罵倒を加え、無用ないさかいを引き起こす必要はなかった。」とする批判者たちの意見に対しては、「イスラームがキリスト教(カトリック)の根本教義である三位一体を否定し、イエス・キリストを被造物であるとして冒涜している」以上批判者のように両宗教の同質性に言及し、殉教の意義を軽視する意見は誤っていると反論した。さらに彼らのイスラームに対する融和的態度自体が「キリスト教の唯一性と絶対的優越性を自ら放棄するもの」であるとして厳しく批判した。また上にも述べたようにキリスト教への抑圧に言及し、「ズィンミーとしての権利制限は殉教を志願すべき程度の迫害ではない」とする意見も批判した。

・処刑

 最終的に、エウロギウス自身もイスラーム教徒をキリスト教に改宗させた罪に問われ投獄された。彼は裁判においても預言者ムハンマドとイスラームを激しく批判した。裁判官はキリスト教社会の実力者であるエウロギウスを処刑することをためらい、アミールとその重臣たちに相談した。重臣たちの中でキリスト教徒に同情的なものもおり、彼らは「形だけでも反省の態度を見せるのならば寛大な処置をアミールにお願いできる」とエウロギウスの説得を試みたが、エウロギウスは断固としてこれを拒み、イスラームとムハンマドへの公然たる批判をやめなかった。最終的に彼は西暦859年3月11日に斬首刑に処された。

・イスラームに対する見解

 イスラームの預言者ムハンマドやイスラームについて批判的意見を持っていた。彼の著作にはイスラームに対する批判が見て取れる。

・ズィンミーの処遇に関して

 彼はイスラーム教徒によるキリスト教徒への迫害・差別について語っている。彼は教会の新築禁止規定、ジズヤの支払い、そしてキリスト教信仰への敵意がいかにキリスト教徒を苦しめているかを自著で述べ、殉教者たちの行動を賞賛した。

・天国に関して

イスラームには「男性は天国で72人の処女(フーリー)とセックスを楽しむことができる。彼女たちは何回セックスを行っても処女膜が再生するため、永遠の処女である。また決して悪酔いすることのない酒や果物、肉などを好きなだけ楽しむことができる。」とする天国の描写がある。エウロギウスはこれをとりあげ、これは「売春宿」だと述べ、ムハンマドは自身の官能的欲求に合わせてキリスト教の天国を作り変えこのような話をでっち上げたのだと述べた。

・ムハンマドに関して

ムハンマドについても彼は批判している。ムハンマドとザイナブ・ビント・ジャフシュとの結婚に関しては「同国人のザイドの妻ザイナブの美しさに目が眩み、まるで理性のない馬やラバのように、野蛮な法を根拠として彼女を奪って姦通し、それを天使の命令で行ったのだと述べたこうした人物が、どのようにして預言者の一人とみなされるのか、又どうして天の呪いで罰せられずに済むのか。」とムハンマドを批判した。、彼はムハンマドを「悪魔にたぶらかされた偽預言者」としており、「反キリスト」の一人であるともしている。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 1

2016-07-09 22:43:07 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

メッカの町

 イスラム教の発祥地たるメッカは、荒涼たる裸山に囲まれた谷間に発達した町でメッカの町あるが、アラビアきっての聖地であるとともに、商業の中心でもあったから、ヒジャース地方第一の重要な都市たることを失わなかった。ここから、アラビアが生んだもっとも偉大な人物マホメット(もしくはムハンマド)が出ているのも、けっして偶然とは思われぬことである。
 ほぼ南北に走る谷岡の底辺にあたるところに、ザムザム(ゼムゼム)とよぷやや塩分を含んだ深い井戸があり、その近くにカアバ神殿がたっていた。後世の所説では、最初にメッカに住んだのはアタムで、カアバもかれが建てたもの、のちにアブラハムが妻ハガルとともにここに住み、その子イスマーイールとともにこれを再建した、ともいわれている。それは伝説にすぎぬけれども、カアバはよほど古くからあったものらしく、西暦二世紀ころのギリシア人もその存在を知っていたらしい。

 ザムザムの霊泉とカアバ神殿とをもつメッカは、またインド洋と紅海、そして地中海を結ぶ通商路の要地としても繁栄した。純然たる商業都市でもなく、そうかといってまったくの宗教都市というのでもなく、両方の要素を兼ね備え、神秘の気配にとざされた町である。イスラムは、そのような都市の一市民がはじめた宗教であった。メッカの人といえば、アラビアの奥地のまことに辺鄙なところの住民のごとく思われがちだが、実はそうではなかった。かれらは南の方、ヤマンの海岸に赴いて、遠くインド洋を航海してきた、インドやペルシアなどの、そして多分、中国の商人などとまでも接触したろうと思われるし、また、そこで仕入れた商品をもってシリアやエジプトやメソポタミアに、さらにはるかに小アジアや、コンスタンティノープルなどまで赴いたものもあったらしい。

 いっぽう、西方は、わずか八〇キロたらずで紅海岸のジッダ港に通ずるのであるから、メッカ商人といえば、古くからよほど広い世界の知識をもっていたに違いないのである。

 メッカのもうひとつの重要な性格は、すでに記したように、アラビアきっての宗教都市であったことで、カアバはイスラム教以前には多神教徒の霊場として、毎年、おびただしい巡礼者を集めていた。かれらがしたがっていた巡礼の儀式やその他の行事なとには、のちにイスラム教徒によって受け継がれたものが、少なからずあったのである。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 2

2016-07-09 22:37:50 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

2、アラビアの神々

 古代のアラビアの民が崇拝した神々のうち、最高位を占めていたのはアバルで、その下に三位の女神(アル・ラート、アル・ウッザ、マナート)があった。この女神たちは姉妹神だった、ともいうし、アル干ラートとマナートとがアル・ウソザの娘であった、ともいう。メッカの町では、五世紀の末ごろから、クライシュという一族が勢力を張り、その支配権を握っていたが、この一族が氏神として尊崇していたのがウッザ女神であった。緑の町ターイフは、一八〇〇メートルほどの高地にあるため、気候もメッカなどよりはるかに爽涼である。ここの民はアル・ラート女神を守護神としていた。アル・ウッザの御神体は聖木で、アル・ラートのは四角い岩であった。
 マナート女神の御神体も巨石で、メッカの北方のクダイドという山麓の地にあったが、この神をもっとも崇拝したのは、ヤスリブ(現在のメディナ)の住民たちであった。これは、死をもたらす運命の女神だったから、人びとはあがめ、かつ恐れていた。

 これらの神々のほか、雷の神たるクザイがあり、虹はその弓であり、電光はその矢であり、電はその投槍であるとされていた。
 美と愛の女神にアッ・ズーン、いけにえの血を好む黒い頭をした巨人のようなアル・アァルサド、石に変った星の神サアド、太陽の女神シャムス、恋と友情の神ワッド等々があった。メッカの町から五キロほどの東にあるヒラー山(現在の光の山〕、町のすぐ東のアブーークバイス山、町から一〇キロほど離れたアラアァート山など、みな神霊の宿るところとして神秘の色に包まれていた、けれど神秘の色は山の峰や谷、洞櫨などをおおっていたのみではなくて、平地を、所在の泉や井戸、石や樹木をこまやかに包んでいたのである。

 古い伝説によれば、カアバは、もとは永遠性をつかさどるズハル(土星)を祀ったところであり、それゆえに、あまた世の変遷を経ても滅びることがなかったのであるという(一〇世紀のアル・マスウーティの『黄金の牧場』による)

 マホメットが生まれたころ、カアバにはフパル以下数十の神像が祀られてあった、とのことで、のちにイスラムの唯一絶対の神となったアッラーフ(アッラー)も、そのうちで重要な神のひとつであった。昔のカアバは、高さもひとの身長くらいにすぎず、屋根も葺いてはなかったというが、七世紀のはじめころに壁を高くして屋根をつくり、入口の扉も高いところへつけるように改築したといわれている。東方の角、地面から約1メートル半ほどの高さのところに、有名な黒石がはめ込んであるが、いくつにも割れたものをつぎ合わし、これを石の枠の中に入れ、さらに銀の輪を巻いたものである。

 所伝によれぽ、これはアダムが天国からもたらしたもので、神とひととの契約の証拠なのであるが、のちにアブラハムがカアバを再建したときに、大天使ガブリエルから渡されたのであるといい、またアッラーの指先であると信ずるものもある。しかし西欧の学者たちには、この石は、イスラム以前の多神教時代の神体のひとつではないか、と考えているものがおおい。イスラム教徒の中にも、早くからこの石にたいして疑問を抱くものがあって、第二代カリフのオマルのごときも「もし預言者(マホメット)がそなた(黒石)に接吻しなかったならば、わたしも接吻はしないであろう。そなたがただ一塊の石にすぎぬことをわたしは知っているから」といったとも伝えられている。
 カアバの西角面にも、黒石と同じ高さぐらいのところに福の石とよばれるものがはめこんであるが、黒石ほどには有名でない。
 かのザムザムの霊泉は、深さ四二メートルほどで、上は円屋根でおおわれ、黒石のあるところの前方にある。昔、マホメットの祖父アブドル・ムッタリブが、土砂に埋もれていたこの井戸を修理したところ、黄金製のカモシカや、刀剣、それから甲冑などが出てきたといういい伝えも残っている。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 3

2016-07-09 22:37:19 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

3、あらわれた預言者

 預言者マホメットはそのような不毛の谷間の神秘の町で、五七〇年ごろに生まれた。毎年、隊商を組織しては、南へ、北へと出ていくひとたち、カアバや付近の山や谷での大祭にと集まってくるおびただしい民衆などをながめながら育った。かれの家系は、この町の握ってい支配権を握っていたクライシュ族のうちでも、カアバに近い谷底に住むハーシム家であった。谷族に住む方が格は高く、16家に分かれていた。
 だが当時のハーシム家は貧しく、ウマイヤ家やマハズーム家などの富強には、とても及ばなかった。しかもかれが生まれたときには、父は病没しており、母も数年にして、世を去ったので、孤児として取り残された。しかし生まれえて異常な魅力をそなえた人物だったらしく思われる。イスラム教徒のあいだには、かれの幼少のときから成人するまで、じつに詳細な所伝があるけれども、厳密に検討すると、史実として証明できるようなことはきわめて乏しく、四〇歳ころまでの事蹟は、ごく大まかなことしかわからぬというのが本当であろう。
 けれども、そのように瞬昧模糊たるあいだに、あたかも天日の輝きわたるごとくはっきりとわかることは、なにか人びとの心を掴んではなさぬその人椚なのである。

「敬虔で香気に充ちたイスラムの預言者マホメットは、たしかに世の婦人たちの偉大な愛人であった。かれのほうでもまたけっして婦人たちがお嫌いではなかった。かれはつまるところ、有能で可憐な女たちから精力的な支持と心からの帰依とをかちえて、これを保つという類の偉人のひとりだったのであり、これらの女たちがまたこの類の偉人たちの成功と、その人生を楽しくすることとに、大幅に寄与しているのである。
 マホメットの数人の妻たちのうちでも、ハディージャとアーイシャとは、他の妻たちよりもとくにそのような線で寄与するところが多かった。」

 この言葉は、イスラム史の卓越した学者ネービアー・アボット女史がその著『マホメットの愛人アーイシャ』の冒頭でのべたことばである。かれは、おおくの婦人たちから献身的に愛されたばかりでなく、さらによりおおくのすぐれた男たちからも身も心も惜しまぬ傾倒を受けたのであった。
 大まかにわけるとマホメットの生涯には三つの時期がある。両親を失って祖父に扶養され、その祖父も世を去ると叔父のひとりに引きとられて成人し、やがて二五歳ころ富裕な寡婦ハディージャと結婚して、外見には安穏な生活を送って、四〇歳代の円熟期に達するまでが第一期、アッラーの教えをアラビアの民に伝うべき使命を自覚し、故郷メッカで嘲笑と迫害とのあいだを生き抜いた約一三年のあいだが第二の時期。六二二年、信徒とともにヤスリブ(メディナ)に移り、一団の信徒を率い、制度を定め、戦い、そして史上はじめてアラビア全土の諸部族をひとつの教団国家にまとめ、六三二年の六月、メディナで世を去るまでの時期が第三期である。

 このあいだのかれの思想なり、手業なり、また経過なりを伝えた文献として、もっとも信頼しうるものは一巻のコーランであるが、これがまたなかなかの難物であって、そう素直にかれの事蹟をうかがうことを許さぬのである。マホメットの伝記は、イスラム教徒の書いたものも、非イスラム教徒の書いたものも、どちらもおびただしい数にのぼるのであるが、がいしてイスラム教徒の書いたものには、非イスラム教徒からみて納得しがたい点が少なくなく、非イスラム教徒の筆になるものは、イスラム教徒の気に入らぬ点がおおいように見受けられる。