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前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 4

2016-07-09 22:34:05 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

4、イスラム教とは

 イスラム教そのものは、ユダヤ教やキリスト教と同一系統の宗教で、これらと直接、間接に関連がおおいことはいうまでもない。このことは、マホメットが生まれたころのアラビアの事情を考えれば、十分に納得できることである。そのころ、かの地にはすでにおおくのユダヤ教徒やキリスト教徒が住んでいたし、メッカの市民もまた活発な通商活動をしていたから、アラビア半島の外でも、これら教徒と接触する機会がおおかったに違いない。マホメット自身も少年町代から何回か隊商の一員として、シリア方面などに赴いたらしいのである。

 キリスト教は、おもに布教活動によってアラビアに拡まったのであるが、ユダヤ教徒の方は植民者として、大小の集団をなしてこの地に入りこんできたのである。
 ユダヤ教徒のアラビア移住は、だいたい二世紀ころから盛んになったらしい。かれらはヤスリブ(メディナ)その他のオアシスに住みつき、ナツメヤシ園などを経営して、地主としてアラブ族を押さえるほどの実力を持っていた。繁昌する市場を開いたり、財宝を守るために六〇近い城砦を托っていた。都合、二〇ほどのユダヤ教徒の部族がアラビアに入ったが、その繁栄につれてアラブ族からもユダヤ教に入るものがかなりあった。

 南アラビアのヤマンでも、ユダヤ教徒とキリスト教徒の争いがかなり早くから起こっており、アビシニア(エチオピア)軍がヒムヤル王国を滅ぼして、しばらく南アラビアを支配したのも、ヒムヤルの王がユダヤ教に帰依し、キリスト教徒を迫害したことが直接の原因だった、とされているほどである。マホメットが生まれたころ、メッカにもハニーフという独特の宗教思想を抱いている人びとがかなりいたが、かれらはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないけれども、ともかく多神教を奉ぜず、神がひとつであることを信じる人びとであった。マホメットは、そのような環境のうちに育ち、メッカの、また広くアラビアの社会のなかにある階級や貧富の差、部族間のたえまのない抗争や流血、旅人や孤児、寡婦、老病者や奴隷などのあわれさなどに心を痛めていたひとりであった。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 5

2016-07-09 22:33:04 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

5、妻が最初の信者

 マホメットはハディージャと結婚して、一五年ほどたってから、預害者として活動しはじめたのであるが、まずかれの説くところを信じて、最初の信者となり、夫よりさきに世を去るときまで一貫して変らぬささえとなったのもまたこの女性であった。メッカ市民の迫害がいよいよ激しくなり、かれが八方塞りの逆境にいたときにこの忠実な妻は死んだ。このことは、マホメットにとって生涯最大の痛恨事であったらしく、言行のうちにその節々をうかがうことができる。

 しかしかれの運命が開け始めるのは、それからまもなくのち、ヤスリブへのヒジュラ(移り)が大きく運命を転じたのである。かれの性格の美点として、もっとも著しい点は、純粋さと誠実さということではないかと思われる。ここでは、やや側面から照明をあてて、彼の家庭生活の変遷を眺めることにしたいと思う。
 糟糠の妻であったハデージャが世を去ったのは、六一九年ごろのことであるが、そのあと数か月して、マホメットは二人の女性との間に婚約を結んだ。これはかれの母方の叔母で、ハディージャの死後、なにかと身辺の世話をしていたハワラという婦人の仲立ちによったものである。婚約者のひとりはイスラム教徒で、サウダという人。もうひとりは、マホメットの家旋外から最初にイスラムに帰依し、かつまたマホメットとは終生かわらぬ親友でもあったアブー・バクルの娘で、当時まだ六歳のいたいけな童女アーイシャであった。すでに五〇歳になろうとするマホメットとこのような幼女との婚約は、はなはだ珍らしく思われる。しかもこの童女は、すでに親戚の一青年といいなずけの間柄であった。

 けれど父アブー・バクルは、マホメットの申し出を受けるや、青年の両親の了解を求めて約束を解消し、こころよく娘を敬愛する親友にあたえることになった。しかし娘のほうはまだ無心で、街頭で友達と遊びにふけっているところを母親に呼びもどされ、婚約の成立を告げられた。このとき童女アーイシャは相手がだれともわからず、ただうなづいていたとのことである。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 6

2016-07-09 22:31:45 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

6、聖遷(ヒジュラ)

 六二二年の夏ころから、メッカのイスラム教徒は思い思いに故郷を去って、北方のヤスリブに集まった。そのうちにアーイシャの父も姿を消した。マホメットとふたりで町を脱出L、東郊のアブー・クバイス山の洞窟に身をひそめ、ヤスリブに走る機会をうかがっていたのである。このとき、ひそかに水や食物か運んでいき、帯を解いてそれに結んで洞窟の中におろしたりして、けなげに働いたのはアーイシャの異母姉にあたるアスマーであった。やがてマホメットたちは危地を脱し無事にヤスリブにたどりつき、ついで家族たちをも迎えることができた。これがヒジュラで、この年はイスラム暦の元年となった。マホメットとアーイシャとの結婚が行なわれたのは、その後のことで、婚約後、三年してからではあるが、それにしても花嫁はまだ九つほどであった。当時のアラビアでは、一〇歳くらいの花嫁は普通のことであったが、それにしても新郎はすでに初老の年配だった。
 
 挙式の当日もぶらんこに乗って遊んでいたアーイシヤを母親が連れもどし、顔を洗わしたが、まだ息づかいが荒かったので、しばらく戸外で休ませたのち、式場につれていったという。それから一〇年たって、マホメットはこの妻の胸に抱かれたまま、同じ場所で息をひきとったのであるが、この一〇年のあいだにイスラムの教えは確立し、アラビアの運命も一変していた。そして世界の歴史も大きく変わることになる。しかし挙式はかんたんにすみ、参列の人びとは慌しく立ち去っていった、と記録にある。格別、祝宴などが開かれたのでもなかった。素朴な、しかし垂要な意義をもった結婚式であった。

 それから当分のあいだは、マホメットの妻たるひとはかなり年とったサウダと、まだ子供といってもよいアーイシャのみであったから家庭はきわめて平穏であったらしい。勝気なアーイシャもサウダにたいしては、嫉妬心が起こらなかったというようなことばを残している。

 すでにマホメットは、一群の信徒を率いては、メッカの隊商を襲撃すべく、たびたび出動していたが、六二四年三月には、メディナ(もとのヤスリブ)の南西、紅海岸から一日行程のところにあるパドルの水場で、一〇〇〇人ほどのメッカ軍と衝突した。このとき味方はメッカから移ってきた信者(ムハージルーン)が八六名、メディナのお味方衆(アンサール)が二三八名であった。その結果はイスラム軍の勝利におわり、敵の主将アブー・ジャハルをはじめ七〇人ほどを討ち取り、四〇人ほどを捕えたのであるが、味方も一四人を失っている。その中に、メッカ以来の有力な信徒オマル(イブヌル・ハックープ)の娘ハフサの夫君も交っていた。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 7

2016-07-09 22:28:59 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

7、オホドの苦戦

 オマルは性格の激しい人物であったが、寡婦となった娘の行く末を案じて、その再婚先を一、二あたってみたが断わられ、マホメットのところに訴えて出た。マホメットとしては、教団のためオマルとの関係を深くすることを有利と考えたものらしい、といわれているが、自分がハアサをもらおうといい出した。この結婚式は、六二五年の二月ごろに行なわれ、それから一月ほどしてオホド(ウフド)の戦いが起こった。
 マホメットたちは、兵三〇〇〇、ラクダ三〇〇〇頭、ウマニ○○頭をもって攻め寄せたアブー・スフヤーンの率いるメッカ軍を、メディナ北郊のオホドの丘の下で迎え撃って苦戦した。マホメットも乱戦のうちに顔や足に傷を負い、一時はその戦死の声も流れたほどであった。やっと丘の中腹の岩穴に入り、味方を集めて、隊形を立て直すことができた。
 いっぽうメッカ軍にももはや余力はなく、一年後の決戦を約して引きあげてしまった。

 そのころハアサは、まだ二〇歳くらいのうら若さだったから、アーイシャははじめてライヴァルをひとり持つことになった。それから一年して、マホメットはザイナブというもうひとりの女性を妻に迎えた。「貧者の母」というあだ名で通ったほどの心の優しいひとで、その前夫は、やはりパドルの戦いで死んだのである。こうして、メディナの礼拝堂のかたわらにあった預言者の質素な家は、だんだんにぎやかになっていったが、ザイナブは、それから八カ月ほどで世を去ってしまった。

 六番目の妻は、美しくて気位の高いヒンドという婦人で、メッカのクライシュ族の中でも羽彫りのよいマハズーム家の出である。前夫アブー・サラマはオホドの戦いで傷つき、ひとたびは癒えたが、またその傷が破れて命を失ってしまったひとで、この前夫とヒンドのあいだには数人の子が止まれていた。

 マホメットとヒンドの結婚は、六二六年三月に行なわれたが、アーイシャは新婦の美しさを聞くにつけ、「ひどく悲しかった、嫉ましかった」といっている。
 六二八年になると、マホメットはさらに、クライシュ族中もっとも勢力のあったウマイヤ家のアブー・スアヤーンの娘ラムラと自分の叔父アッバースの義妹であるマイムーナとを妻に迎えている。どちらも多分に政略結婚の性格を帯びたものであり、預言者の死後のイスラム教団の分裂もすでにこの当町から、かれのハレーム(後宮)の中の勢力対立に萌しがみえている、というものもある。

 このふたりを迎えるまえに、かれは第七番目の妻としてジャアシュの娘ザイナブと結ばれている。この女性は、もともとマホメットと同族のもので、また従兄妹の関係であった。美人だったが三〇歳くらいまで未婚のままでいた。それでマホメットは、もと自分の妻ハディージャの奴隷であったのを自由人の身分にして、おのが養子としたザイドという実直な男にめあわせた。

 この結婚後、数年してふとマホメットはザイドの家を訪れたが、主人は留守であり、妻のザイナブがしどけない姿をしてあらわれた。それを見て、やや心を動かされたのか「ひとの心を変えたもうアッラーよ。褒めたたえられてあれ!」ということばを咳きながら立ち去った。あとでそのことばを聞いた夫のザイドは恐催おくあたわず、すぐに預言者のもとにいき、「わたくしの妻がお好きならば、すぐにあれは離別いたします」と申し出た。しかし預言者は「おまえのもとにおくがよい。そうしてアッラーを恐れていよ」と慰めた。しかしザイドは心が安まらず、すぐに妻を離別したので、マホメットは規定の四か月を過したのち、この女性を妻とした。

 しかし信者のあいだがら、この結婚は不合法であるとして非難の声があがった。この地の旧慣では、養子も実子と同じ権利を持つものとされていたので、子の妻を父が取るのは正しくないと解された故であった。しかし天啓が下り、これは養子が離別した女を、その義父がめとる場合にあてはまり、とくに許されるということになった。ザイナブとの結婚は六二七年三月ころ行なわれた。

前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房 8

2016-07-09 22:28:57 | イスラム教
前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房

8、天の啓示までとまる

 ザイナブをめとってのち、まもなくマホメットはアル・ムスタリクという遊牧部族との戦いに出て、ジュワイリーヤという女性を捕虜にして帰り、これをもその妻のひとりとしている。愛妻アーイシャの生涯の危機は、この遠征からの帰途に起こったのである。この事件はひとりアーイシャのみでなく、下手をするとマホメットの運命をも危くしかねぬものであった。なぜかというと、そのころメディナの市民中には、まだマホメットに心服せず、形勢を観望している偽善者(ムナーフィクーン)とよばれた日和見一派があり、その首領たるアブドッラー・イブン・ウバイイなどという男は、もしマホメットに何か電火な失敗があったら、これを指導者の地位から蹴落して、自分がとってかわろうという野心を抱いていたらしいからである。では事件はどうして起こったか。この遠征にアーイシャとヒンド(通称ウンム・サラマ)とのふたりの妻がついていったことが原因となっている。戦い終って、メディナに引きあげる途中、それも、もう一日の行程しか残っていないときのことであるが、夜の白々あけにキャンプを引きはらうよう命令が出た。アーイシャは出発の直前に、少しく露営地を離れたところにいって用を足した。そしてもどったとき、ヤマン産の瑪瑙の首飾りを落してきたことに気づいた。もとの場所にとってかえし、うまく探し当てたのはよかったが、さて露営地にもどってみるとわずかのあいだに一行は出発してしまってだれもいなかった。このような行軍に婦人たちはラクダ籠に乗っていくのであるが、供人たちはてっきりアーイシャがすでに籠に入っているものと思って、そのまま出発してしまったのである。

 こんなばあい、下手に動いたら死の中に迷いこんでしまうほかはないから、アーイシャはその場に坐りこみ、やがてかの女のいないことに気づいたひとたちが迎えにもどってくるのをまつほかはなかった。いつかぐっすりと眠ってしまった。ふと目覚めると、すぐそばにひとりの美青年と一頭のラクダが立っていた。サアワーンという名のその若者は、アーイシャをラクダに助け乗せると黙々としてメディナに向かって歩きはじめた。

 マホメットをはじめ、みんながアーイシャのいないことに気づいたのは、その日の夕刻メディナに着いてからのちのことで、たいへんな騒ぎとなった。大騒ぎしているところへ、サフワーンが当のアーイシャをラクダに乗せてもどってきたのである。

 マホメット自身は、そのままにことをすまそうとしたらしいが、周囲のもの、ことに例の偽善者一派は承知しなかった。このことをもってアーイシャの不品行として糾弾し、さらにマホメット一家にもけちをつけ、あわよくばメッカからきた信者たちぐるみ追い払ってしまおう、とまで考えていたからである。若く美しい男女が、たったふたりして終日、人目の乏しい荒野を旅してきたというのであるから、これは政敵にとって好餌であった。アーイシャが数人の妻のうち、もっとも夫に甘え、愛されていただけに、他の妻たちのあいだにも内心では、この事件をほくそえんでいたものがないではなかった。

 当のアーイシャはこのようなスキャンダルが、日に増して拡がっていくことをいっこうに知らなかったが、事件が起きてから一月ほどして、はじめてあるひとから知らされ、ひどく泣き悲しんだ。

 マホメットもはじめは、そのような事実を信じなかったものの、だんだんと疑いが心の底に起こって煩悶した。困ったことには、天の啓示までぴったりととまってしまったのである。それで腹心のひとたちの意見を求めたところ、もっとも冷酷な意見を吐いたのは従兄弟のアリーであった。

 このひとは幼時のマホメットをひきとって育て、成人後もその後楯となり、ことにかれがメッカ市民の迫害の嵐に包まれていたころ、自分はイスラムには帰依しなかったが、終始一貫して庇護の態度をとり、死にいたるまで変ることのなかった叔父アブー・ターリブの子であり、またマホメットの娘ファーティマの夫でもあった。

「アッラーの使徒よ、アッラーはあ々たにけっして狭い制限をおかけになってはおられませぬ。あれくらいの女は数おおくおります。あの女の侍女について真相を糾明なされませ」とアリーはいうのであった。
 もっとも思いやりのある意見をのべたのは、意外にもアーイシャのライヴァルと思われていたかのザイナブで、「アッラーにかけて申しあげますが、わたくしの見たり、聞いたりしたかぎりアーイシャさまには一点の非もございませぬ」ときっぱりといいきった。

 アーイシャは、アリーとザイナブと、このふたりのことばを終世忘れなかった。アリーにたいしては強烈な憎悪を抱き、ザイナブには深い恩誼を感じたのである。
 やがてマホメットそのひとも、アーイシャが潔白であったということについて、確信がもてるようになった。
 「アーイシャよ、よい知らせがある。いと高きにおわすアッラーにはそなたが罪なきものと仰せられているのだ」
 一月ぶりで預言者の顔にはあかるい微笑がうかんでいた。この天啓で事件は解決した。