前嶋信次(慶大教授)「預言者、マホメット」『世界の歴史 8 イスラム世界』河出書房
4、イスラム教とは
イスラム教そのものは、ユダヤ教やキリスト教と同一系統の宗教で、これらと直接、間接に関連がおおいことはいうまでもない。このことは、マホメットが生まれたころのアラビアの事情を考えれば、十分に納得できることである。そのころ、かの地にはすでにおおくのユダヤ教徒やキリスト教徒が住んでいたし、メッカの市民もまた活発な通商活動をしていたから、アラビア半島の外でも、これら教徒と接触する機会がおおかったに違いない。マホメット自身も少年町代から何回か隊商の一員として、シリア方面などに赴いたらしいのである。
キリスト教は、おもに布教活動によってアラビアに拡まったのであるが、ユダヤ教徒の方は植民者として、大小の集団をなしてこの地に入りこんできたのである。
ユダヤ教徒のアラビア移住は、だいたい二世紀ころから盛んになったらしい。かれらはヤスリブ(メディナ)その他のオアシスに住みつき、ナツメヤシ園などを経営して、地主としてアラブ族を押さえるほどの実力を持っていた。繁昌する市場を開いたり、財宝を守るために六〇近い城砦を托っていた。都合、二〇ほどのユダヤ教徒の部族がアラビアに入ったが、その繁栄につれてアラブ族からもユダヤ教に入るものがかなりあった。
南アラビアのヤマンでも、ユダヤ教徒とキリスト教徒の争いがかなり早くから起こっており、アビシニア(エチオピア)軍がヒムヤル王国を滅ぼして、しばらく南アラビアを支配したのも、ヒムヤルの王がユダヤ教に帰依し、キリスト教徒を迫害したことが直接の原因だった、とされているほどである。マホメットが生まれたころ、メッカにもハニーフという独特の宗教思想を抱いている人びとがかなりいたが、かれらはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないけれども、ともかく多神教を奉ぜず、神がひとつであることを信じる人びとであった。マホメットは、そのような環境のうちに育ち、メッカの、また広くアラビアの社会のなかにある階級や貧富の差、部族間のたえまのない抗争や流血、旅人や孤児、寡婦、老病者や奴隷などのあわれさなどに心を痛めていたひとりであった。
4、イスラム教とは
イスラム教そのものは、ユダヤ教やキリスト教と同一系統の宗教で、これらと直接、間接に関連がおおいことはいうまでもない。このことは、マホメットが生まれたころのアラビアの事情を考えれば、十分に納得できることである。そのころ、かの地にはすでにおおくのユダヤ教徒やキリスト教徒が住んでいたし、メッカの市民もまた活発な通商活動をしていたから、アラビア半島の外でも、これら教徒と接触する機会がおおかったに違いない。マホメット自身も少年町代から何回か隊商の一員として、シリア方面などに赴いたらしいのである。
キリスト教は、おもに布教活動によってアラビアに拡まったのであるが、ユダヤ教徒の方は植民者として、大小の集団をなしてこの地に入りこんできたのである。
ユダヤ教徒のアラビア移住は、だいたい二世紀ころから盛んになったらしい。かれらはヤスリブ(メディナ)その他のオアシスに住みつき、ナツメヤシ園などを経営して、地主としてアラブ族を押さえるほどの実力を持っていた。繁昌する市場を開いたり、財宝を守るために六〇近い城砦を托っていた。都合、二〇ほどのユダヤ教徒の部族がアラビアに入ったが、その繁栄につれてアラブ族からもユダヤ教に入るものがかなりあった。
南アラビアのヤマンでも、ユダヤ教徒とキリスト教徒の争いがかなり早くから起こっており、アビシニア(エチオピア)軍がヒムヤル王国を滅ぼして、しばらく南アラビアを支配したのも、ヒムヤルの王がユダヤ教に帰依し、キリスト教徒を迫害したことが直接の原因だった、とされているほどである。マホメットが生まれたころ、メッカにもハニーフという独特の宗教思想を抱いている人びとがかなりいたが、かれらはキリスト教徒でもユダヤ教徒でもないけれども、ともかく多神教を奉ぜず、神がひとつであることを信じる人びとであった。マホメットは、そのような環境のうちに育ち、メッカの、また広くアラビアの社会のなかにある階級や貧富の差、部族間のたえまのない抗争や流血、旅人や孤児、寡婦、老病者や奴隷などのあわれさなどに心を痛めていたひとりであった。