聖ゼーノ司教殉教者 St. Zeno Ep. et Mart. 記念日 4月 12日
聖ゼーノはイタリアのヴェロナ市の司教で、4世紀に起こったアリオ派の異端と戦い、その害毒に滅びんとする者を救おうと努めた聖教教父達の一人である。司教になる前の事はあまり詳しく知られていないが、兎に角聖アウグスチノと同時代の人で、およそ紀元310年頃アフリカの北部に生まれ、当時大雄弁家として名声のあったカルタゴのアプレイオに師事し、修辞学その他を学んだ事がある。されば彼も弁舌文章に秀で、その説教に於いても、内容の豊富深遠なる、表現の適切巧妙なる、優に大アウグスチノに比すべきものがあると言われている。
しかしゼーノの信仰や愛徳はその博学にも優っていた。彼がヴェロナ市の司教に挙げられたのは362年12月8日の事であったが、その頃アリオ派の異端は北イタリアにも勢いを張り、聖教信者の中にもその邪説に惑わされる者あり、又外教人等は過去三百年間歴代ローマ皇帝の迫害を蒙ってきた聖会に興味を失い、真理の光を拒む者が多かったので、ゼーノは信仰の立場からこれを憂え、愛徳の立場からはこれを憐れみ、彼等の為熱心に祈り償いの苦行を行いつつ機会ある毎に得意の雄弁をふるって人々の聖教に対する誤解を正そうと努めた。かくて或いは真の宗教の尊厳と幸福とを説き、或いはアリオ派邪説の誤謬を指摘し、専ら善導に尽くした効あって、新たに入信する者、異端より帰正する者相次ぎ、暫くにしてヴェロナ市の教会は驚くばかり盛大になったのである。この大成功を見るに至ったのはもとより彼の勝れた学徳の然らしむる所とは言え、彼の感ずべき克己犠牲の生活や、彼が天主から授かっていた悪魔を追い払う不思議な能力もあずかって力があった。
ゼーノは異教から聖教に入ったヴェロナ市民をよく指導し、同市に大聖堂を建立し、また信者に善業を奨励した。例えばその頃ゲルマン族やゴート族がローマ帝国に侵入して、信者達を捕虜にしたり、掠奪をほしいままにしたりしたが、ゼーノ司教は自分の教区の信者に激してその捕虜を買い戻したり、貧窮に陥った人々を救う為あらゆる手段を講じたりして博愛の業を行い、為にヴェロナの教会と言えば、その慈善上の活動を以て全イタリアのキリスト教会に誰知らぬ者もないほどになったのであった。ゼーノは更に信者達の信仰を深め、信心を盛んならしめる為に、西洋最初の女子修道院を設けた。それまでは童貞の誓願を立てた少女も、やはり我が家にあって、唯出来るだけ世間的な交際を避けて生活するに過ぎなかったが、彼はかような人々を世間の危険よりも救い、同志共に徳に進む事が出来るよう、ことに協同生活の途を開いてやったのである。そしてその蔭には童貞聖マリアに対する彼の厚い敬愛の心も秘められていた。事実彼は異端者の妄説に対し、聖母の終生童貞を堅く主張し「ああ偉大なる玄義かな、マリアは露穢れもない童貞の御身で懐胎され、つゆ穢れもない童貞の御身で御子を儲け給い、御出産後もつゆ穢れない童貞の御身であらせられたのである。」と言った事もある。以て彼が聖母崇敬の至誠の一端を伺う事ができよう。
ゼーノの最期に就いては歴史に詳しく伝えられていない。しかし聖教の為尽くした功労の故に、教敵アリオ異端教徒の憎悪を受け、かのヴェロナ市にほど近いブリクセン市に同じ頃司教たりしフィラストリオが彼等に斬殺された如く、ゼーノも殉教の血を流して真理を証したと信ぜられている。そしてその帰天は西暦371年キリスト御復活の大祝日頃であったとの事である。
教訓
我等も聖ゼーノ司教に倣い、天賦の才能をよく用いて、自分及び他人の救霊に働き、常々その為には
聖ゼーノはイタリアのヴェロナ市の司教で、4世紀に起こったアリオ派の異端と戦い、その害毒に滅びんとする者を救おうと努めた聖教教父達の一人である。司教になる前の事はあまり詳しく知られていないが、兎に角聖アウグスチノと同時代の人で、およそ紀元310年頃アフリカの北部に生まれ、当時大雄弁家として名声のあったカルタゴのアプレイオに師事し、修辞学その他を学んだ事がある。されば彼も弁舌文章に秀で、その説教に於いても、内容の豊富深遠なる、表現の適切巧妙なる、優に大アウグスチノに比すべきものがあると言われている。
しかしゼーノの信仰や愛徳はその博学にも優っていた。彼がヴェロナ市の司教に挙げられたのは362年12月8日の事であったが、その頃アリオ派の異端は北イタリアにも勢いを張り、聖教信者の中にもその邪説に惑わされる者あり、又外教人等は過去三百年間歴代ローマ皇帝の迫害を蒙ってきた聖会に興味を失い、真理の光を拒む者が多かったので、ゼーノは信仰の立場からこれを憂え、愛徳の立場からはこれを憐れみ、彼等の為熱心に祈り償いの苦行を行いつつ機会ある毎に得意の雄弁をふるって人々の聖教に対する誤解を正そうと努めた。かくて或いは真の宗教の尊厳と幸福とを説き、或いはアリオ派邪説の誤謬を指摘し、専ら善導に尽くした効あって、新たに入信する者、異端より帰正する者相次ぎ、暫くにしてヴェロナ市の教会は驚くばかり盛大になったのである。この大成功を見るに至ったのはもとより彼の勝れた学徳の然らしむる所とは言え、彼の感ずべき克己犠牲の生活や、彼が天主から授かっていた悪魔を追い払う不思議な能力もあずかって力があった。
ゼーノは異教から聖教に入ったヴェロナ市民をよく指導し、同市に大聖堂を建立し、また信者に善業を奨励した。例えばその頃ゲルマン族やゴート族がローマ帝国に侵入して、信者達を捕虜にしたり、掠奪をほしいままにしたりしたが、ゼーノ司教は自分の教区の信者に激してその捕虜を買い戻したり、貧窮に陥った人々を救う為あらゆる手段を講じたりして博愛の業を行い、為にヴェロナの教会と言えば、その慈善上の活動を以て全イタリアのキリスト教会に誰知らぬ者もないほどになったのであった。ゼーノは更に信者達の信仰を深め、信心を盛んならしめる為に、西洋最初の女子修道院を設けた。それまでは童貞の誓願を立てた少女も、やはり我が家にあって、唯出来るだけ世間的な交際を避けて生活するに過ぎなかったが、彼はかような人々を世間の危険よりも救い、同志共に徳に進む事が出来るよう、ことに協同生活の途を開いてやったのである。そしてその蔭には童貞聖マリアに対する彼の厚い敬愛の心も秘められていた。事実彼は異端者の妄説に対し、聖母の終生童貞を堅く主張し「ああ偉大なる玄義かな、マリアは露穢れもない童貞の御身で懐胎され、つゆ穢れもない童貞の御身で御子を儲け給い、御出産後もつゆ穢れない童貞の御身であらせられたのである。」と言った事もある。以て彼が聖母崇敬の至誠の一端を伺う事ができよう。
ゼーノの最期に就いては歴史に詳しく伝えられていない。しかし聖教の為尽くした功労の故に、教敵アリオ異端教徒の憎悪を受け、かのヴェロナ市にほど近いブリクセン市に同じ頃司教たりしフィラストリオが彼等に斬殺された如く、ゼーノも殉教の血を流して真理を証したと信ぜられている。そしてその帰天は西暦371年キリスト御復活の大祝日頃であったとの事である。
教訓
我等も聖ゼーノ司教に倣い、天賦の才能をよく用いて、自分及び他人の救霊に働き、常々その為には