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個人的な生活では・・・

2020-11-08 00:48:46 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆9、個人的な生活では・・・

 このことを、わかりやすく証明している事例がありますから、ここで、紹介しましょう。それは、神の存在を、自分では強く否定している人たちでさえ、自分の家庭の、その個人的な生活では、認めているということで、この人たちは、「神なんか存在するものか!」と、さかんに無神論を息まいているのに、いざ、自分の愛する子供が、朝晩の祈りを唱えないとなると、その子を叱るのです。

 ところで、ヨーロッパに、この世紀の初め頃、無神論的な態度を最初にとったのは、フランスのインテリ階級でしたが、ここから、その影響が、全世界に、波紋のように広がっていきました。

 まず、彼らが狙ったのは、神の存在のうえに立っているキリスト教の排斥です。彼らは、こう主張しました。

「神は、実際に存在するものではない。したがって、キリスト教は、抽象的になら、認めてもよい。それは、何を考えようと、人の心は、自由だからである。だが、神が存在しない以上、これを具体的にあらわす教会などというものはありえないし、あってはならない。なぜなら、それは、矛盾したことだからである」と。

 そこで、この主張にしたがって、新しい法律が生まれ、それまで教会が経営していた学校は、男子の方も、女子の方も、全て国に没収されてしまいました。そして、そこで教えていた聖職者たちは、国から追放され、あるいは、スペインへ、あるいはイタリアへ、と逃れていったのです。

 また、ある修道女たちは、修道服を脱ぎ捨てて、世俗に還えらねばならなかったのです。ところが、ここに、大変不思議なことが起きました。それは、こんな法律を国会で大いに支持し、それを通すのに、全力を尽くしたその人たちが、あとで、自分の娘たちの教育のためにとった態度です。彼らは、自分の娘を、シスターの教える学校に通わせていましたが、追放したため、もう、その学校はフランスにはありません。今度こそ、彼らは、宗教に関係のない公立学校に、娘たちを通わせるべきでした。

 ところが、彼らは、娘の手を引いて、はるばると、外国にやってきました。ベルギーや、イタリアで、教会やシスターたちが経営していた学校に、その娘を預けるためです。もちろん、彼らは、宗教関係の学校に通わせるなんて言いません。

「フランスで勉強させるより、外国に留学させる方が、充実していいようだ」というような具合に、口実を見つけたのです。

 また、イタリアに留学させた親たちともなれば、イタリアを軽蔑していたくせに、

「なんといっても最初の大学は、イタリアで始まったのだから。それに、中世紀のときから、イタリアは、文学と文化の中心となっているから、まあ、ここで子供が、勉強するとなれば、家のため、このうえない名誉だ!」とさえも言っていたのです。

 しかし、本当の理由は、別のところにありました。すなわち、

 国内の学校では、自分たちの指図どおり、無神論的な教育が施されているのです。

 彼らは、一般の人たちのためなら、他人の子供のためなら、それでよい、と考えたのですが、いざ、自分の子供のことになると、どうも、そういうわけにはいかなくなったのです。

 すると、彼らの態度は、矛盾していることになります。もし、彼らが、現に、自分で主張するように、神の存在をみとめていないのなら、また、キリスト教的な教育が国民に損害を与えるというのなら、なぜ、自分のかわいい子どもを、ちょうど、そのいけない、といっているキリスト教関係の学校に通わせるのでしょう。

 もし、それが「手近にあるから、本当は嫌だけど仕方がない、便利だから」というのなら、まだわかります。ところが、まさに、その正反対だったのです。彼らは、手放したくない娘を、遠くに手放し、しかも、大変な費用をかけて、外国の学校に通わせるのです。それは、彼らが、裕福であるからこそできることで、普通の家では、夢にも考えられないことです。

 ご覧のとおり、無神論を、あれほど強く主張した人たちも、すなわち、思想のうえで、抽象的には、それを支持していても、実際の生活では、自分でさえ、その無神論の信念を守ってはいないのです。

 結局、彼らはこの事実をもって、自分の立場が間違っていることを、事実上、証明していることになります。

 ご覧のとおり、無神論に、どれほどもっともらしい論証を与えても、土台がないのです。そして、土台がなければ、こんなにももろく、崩れ去ってしまうのです。結局、人は、神はいないからという実を作ろうとしても、言い逃れはできないのです。なぜなら、どんな人間でも、神を認めるために、自分のうちに、十分な知識を持っているからです。


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神の知識を深めること

2020-11-07 02:16:36 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆8、神の知識を深めること

 それにしても、知恵ある人間ですから、ほんの少しでもその知恵を働かせるなら、すぐに神の存在を証明するための十分な資料を見つけることができます。

 ここで、断っておかなくてはいけないのは、この「十分」という意味です。なぜなら、それは、完全ということではないからです。

 しかし、本当に神が存在するのであれば、この不完全さを補う神からのお示しがあるはずです。そうです。事実、神は、ご自分の方からも、いろいろと教えて下さったのです。そして、私たちは、それを認めることができます。しかし、認めるといっても、内容を理解し、その理由を悟ってから、認めるのではありません。私たちが、神のお示しを認め得るのは、神に嘘偽りはあり得ないという、その絶対的な信頼によるのです。つまり、子供が親を信じて、その教えてくれることを、認める以上に、私たちは、神を信じてそのみ言葉の教えるところを認めるのです。

 問題は、その教えが、本当に神から来たものであるかどうかということさえ、確かめればいいわけです。

 私たちが、知恵を働かせて見つけだす、数々の証明と、この神の教えがあい補いあって、私たちは、神の存在に対する確証を得ることができます。

 しかし、ある人々は、神の啓示の中に、私たちの理解を超えるものがあるのを見て、神の存在なんて、迷信かおとぎ話の類に過ぎない、と考え「そうだ、信仰があるからこそ神なんて、非科学的なものを認めるのだ」といいます。

 本当にそうでしょうか。とんでもありません。既に自分の心の中に、前もって、神の存在を認めていないのに、どうして信仰がありえましょう。それは、当然のことです。

 そうです、神の存在を認めていればこそ「神は、無限に私たちを超えるおん者である。したがって、そのみ教えに、私たちの理解を超えるものがあっても、むしろ、その方が当然だ」と考え、子供が、親の言うことをそのまま認めるように、神のみ教えを認めるのです。そこで、今度は逆に言って、もし、神の存在を認めないことにでもなれば、信仰の土台はたちまち消えてしまいます。

 私は、皆さんにここで、神の存在が攻撃のまとになっている理由がどこにあるかを知って頂きたいのです。これは、世界の思想を研究するうえで、とても大切なことです。なぜなら、この世が続く限り、つまり人間が存在するかぎり、神の存在を、いろんな角度から否定しようと努力する人たちが、絶えないからです。

 幸い私たちは、理性を持っています。なかでも、理性活動の基準ともいうべき常識を持っています。ところで、この常識に基づいて、知恵を正しく働かせるとすれば、「神の存在に対する疑いをもって いろいろな思想が、すべて、常識の不足に基づくものである」ということがわかってくると思います。


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土台を崩そうとしても無理:神を探す心 ー 目に見えるものを通して

2020-11-06 01:08:49 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆7、土台を崩そうとしても無理

 天主なる神が存在するのであれば、人はそれに向かって「なぜ私に命令を下すのか」とも、「私に、こんな命令を下す権利がどこにあるのか」とも、とても言えないからです。

 私たち人間は、神が存在するかぎり、その権利を否むことができません。それは、明白な事実です。ある人々が神の存在を認めたくないのは、そのためです。

 だからこそ、彼らは、権利が基づいているその土台を崩してしまいたいのです。

 神さえ存在しないなら、神の干渉を受ける必要はない。我々は、思うままに勝手に振る舞うことができるのだ、と言えるのです。

 ところが、いくら人間が神を否定しても、観念論者たちか言うように、神の存在は、人の考えに依存してはいません。かえって人間こそが神に依存しています。それで、人は、神の存在を、いくら疑いを持ち出しても、かき消すことはできないのです。それどころか、いろいろなことについて、ほんの少しでも考えを巡らすなら、ありとあらゆるものが、神に作られており、神こそ、すべてのものの支配権をもつ方だと認めないではいられなくなってくるのです。


 ある人が、神の存在に対する私たちの認識について、大変興味深いことを言っています。

「神の前に立つ人間は、父の前に立つ子供のようである」と。

 そうです、子供は、父を目の前にして、

「あなたが、本当に私のお父さんであるということを証明してください」というような態度をとるでしょうか?

 また父は、自分が、父親であることを子供に理解してもらうために証明書をださねばならないものでしょうか?

 とんでもありません。もしそんなことをしなければならないとしたら、大変です。こんなことは、証明するまでもないわかりきったことです。

 神の場合も、これと同じことです。特別な証明が必要だというわけではありません。なぜなら、もうわかりきったことだからです。

 しかし、わかりきったことというのは、それについて知るべきことを完全に知っているというのとは違います。

 では、考えてみてください。子供が父親のことを、

「お父さんの生まれた年はいつ?」

「お父さんの国はどこ?」

「お父さんは、どんな学問をしたの?」

 また「お父さんには、どんな特徴かあるの?」

「お父さんのポケットには、いくらお金が入っているの?」

などといったことについて調べないうちは、本当にお父さんかどうか認められないなど というでしょうか。

 あるいは、こんなことを知らないなら、お父さんが存在しているとういうことさえ疑わしい、というのでしょうか。決してそうではありません。何も知らなくても、心では、もうちゃんとお父さんを認めています。そこには疑いのかすかな影さえもさすことができません。神に作られた私たちにとって、神の存在は、本当は、心の中では、既に自明のことです。

 しかし、いろいろな考えに邪魔をされて、弱い私たちの目は、次第に濃さをましていく霧のかなたに神の姿を見失ってしまいます。



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神の掟の存在理由

2020-11-04 03:58:21 | 神を探す心
アロイジロ・デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆6、神の掟の存在理由

 そして、もし神が、そのようなお方であるとしたら、神こそ、すべてのものの絶対的な主であり、神は、ご自分が作った人間に対して、どんな命令をもくだす権利をもっているはずです。

 これを認めるるためには、アインシュタインが相対性理論を見つけたときのようなスーパーマン的な知性を必要とはしません。実は、誰にでもできる簡単なことです。しかし、私たちは、神の命令に、身をもって従うということになると、面白くありません。この心境を端的に現しているのは、「我が命尽きるまで」の映画に出てくるヘンリー八世です。

 これまで、どんなことにも自分の望みを通すことができた英国の王ヘンリー八世も、離婚の問題になると、簡単ではありませんでした。

 勿論、国中の人々が、神の掟を誰よりもよく知っているはずの聖職者たちでさえ、彼らの新しい結婚を祝福しています。ただ一人を除いては。 それなのに、どうしても王の心は安ぐことができないのです。神の掟に背いた事実は、いくら王でもどうすることもできません。快楽のさ中にも、罪の意識が王の心を苛みました。既に忠臣トマス・モアは、死をもって、彼の新しい結婚を否定しています。次第に苦しみの昂じてきた王は乱心して、あれほどの犠牲を払って得た妃を殺してしまうのです。

 ご覧のとおり、偉い王といえども、人間であるかぎり、その存在は神に依存しています。どうして神を避けられましょう。

 たとえ、しはらくの間は、神を考えずに過ごせたとしても、すぐまたその考えが王の心に忍びこんできます。まるで、なりやまない警鐘のように、たえず心の中に響き渡ってていたのでした。

 これは、私たちにとっても同じことではないでしょうか。まだ若くて、仕事や快楽に夢中なとき、当分の間は(この当分は長年になることもありますが)避けることができるかもしれません。しかし、いつかは、必ず神のことを真剣に考えねばならなくなる時がやってきます。

 神様は、いつも私たちの毎日の生活に干渉してきます。

「現代は民主主義の時代だ。もし私が神を自分の神として選んだのなら、神は、私に干渉してもよろしい。私は従おう。しかし、私がもし、嫌だ、言えば、神はもう私のことに絶対にくちばしを入れてはならない」というような熊度を人間はとることができないのです。でもある人たちは、こうした態度をとります。彼らが神の干渉を避けようとするのは、本当は、口でいっているように、もっと充実した人間性を表すためでも、もっと完全な自由を得るためでもありません。彼らに理由などはありません。

 でも、自分の不正を認めたくないのが人情ですから、彼らは、口実を探すのです。そして、今度こそ、知恵を働かせて、そうだ、神の存在を否定すれば、土台が崩れたことになるから、神の掟も自然消滅ということになって都合がいい、と悟ります。



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健全な精神:神を探す心 ー 目に見えるものを通して

2020-11-03 04:14:01 | 神を探す心
デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆5、・・・健全な精神

 これは、鍛錬を怠った体の哀れな結末ですが、知恵も使わないでおいたら、どんなことになってしまうのでしょうか。

 そうです。幼ないころ、あれほど「なぜ?」をくりかえしていた子供も、しばらくすると、すっかり考えなくなってしまうのです。今度は、前の例とは反対に、知恵をあまり働かせずそのままにしておくと、その結果は、次のようなことになってしまいます。つまり、「あなたは、神について、考えたことがありますか?」「なぜ、この世に生まれてきたのですか?」「何の目的であなたは生きているか考えてみたことがおありですか?」と聞かれても「いいえ、べつに・・・」と答えるより仕方がないような甚だしい無知を招きます。そして、これは、二〇歳、三〇歳、四〇歳と年をかさねても、少しも進歩はしないのです。

 すると、一体、人間の生き甲斐というものは、どこにあるのでしょう!人は、何の為に、汗水たらし、泣いたり苦しんだり、さんざん苦労を重ねながら生きていくのでしょう?
 では、人間には、どんな幸福が約束されているのでしょうか?
 金を貯めることか、商売にうちこんで成功をおさめること、あるいは、思いがけない出世をつかむことが、それでしょうか?
 もちろん、それらは悪いことではありません。できることなら、そうありたいものです。ところが、人聞は、けっして、それだけでは満足できない性質をもっています。

 人間の心の底に燃えている憧れと比べるなら、こんな物質的な好条件は、大海の水一滴ほどの値打ちもないのです。
 そうです、人間には、知恵を使うことが必要なのです。そして、その知恵は、いずれに向かっているかといえぱ、物事の理由です。
 物事の理由?そうです。そこで直ちに問題がでてきます。自分の命の始めと、その源、および、その目的について解決を与えないといけなくなります。

「命の始めですって?それなら、自分の親に決まっているじゃありませんか」とある人たちは言うかもしれません。しかし、問題は、そこにあるのではありません。

 もっと長く、もっと深く、もっと遠いその”はじまり"と、”目的"とを、調べないなら、知恵があるというには中途半端です。
 はじめと目的 それは、いったい何のことでしょう?
 すべての物の始め、すべての物の目的である神がそうです。

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