カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

健全な体に健全な精神

2020-11-01 02:11:06 | 神を探す心
デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆4、健全な体に・・・

 そもそも私たち人間というものは、知恵と体が、共同で生活するようにできているのですから、両方とも働かせるのがもっとも適当で健康的です。

 もしも、知恵を偏重するあまり、体のほうを、なおざりにするとしたら?・・・そうです、いつか体は、おそろしい復讐を企てるのです。

 皆さんは、昔、ローマ人が引用していたあの格言を既に、もう何度も耳にされているでしょう。MENS SANA IN CORPORESANO メンス・サナ・イン・コルポレ・サノ(健全な体に健全な精神)、つまり、私たち人間は、体も、ある程度まで、しっかりしていなければいけません。

 こんな例があります。小さいころ、私の住んでいたに、私より少し年上の子供がいましたが、その子は、四歳ぐらいから、既に素晴らしい音楽の才能を現わしました。

 両親は、これに気づくと、それこそ、有頂天になってしまいました。ただもう子どもの才能を伸ばすことばかりを考え、あけてもくれても練習ばがりで、子供に遊ぶ暇さえ与えないのです。平凡な他の子供たちと交わっていたら、きっとこの子のオ能は駄目になると考えはじめた親たちは、とうとう自分たちの大切な天才児を、音楽の黄金の籠に入れてしまいました。

 同じ人間、同じ子供ですから、その子も、どんなにか仲間たちと飛んだり跳ねたりして遊びたかったことでしょう。

 それにしても、やっぱり好きな音楽ですから、強いられれば、勧められるまま、つい音楽の練習ばかりしていました。

 でも、その子は、そのうち、少しずつ、才能の進歩に反比例して体のほうが破壊されていきました。そして、ついには、素晴らしい才能を持ちながら、幼ない命を落してしまったのです。

 どんな素晴らしい知恵も才能も、頭脳なしに、どうして働くことができましょう?でも、あの天才児は、その頭脳をあまりに早く使い尽くしてしまったのです。

 そうです。知恵があっても、体というこの道具がなくなったのでは、人間として何もすることができません。

 この子の場合は、体の働きを抑えて、知恵ばかりを働かせたのです。その結果は、ご覧のとおり、子供は、病気になってしまい、せっかくの音楽の天才的才能も、台なしになってしまいました。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

知恵を働かせること:神を探す心 ー 目に見えるものを通して

2020-10-31 03:11:54 | 神を探す心
デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆3、知恵を働かせること

 といっても、子供は、少しずつ成長するにつれて、他の物事にも興味を持つようになってきます。それも悪いこととは言えません。でも人は、自分が知恵をもった人間であることを、忘れてはいけません。

 私は、かなり前に、ひとりの柔道の先生に会ったことがあります。もちろん柔道を習うつもりではなかったのですが、なぐさみに、少し相手になってもらいました。

 彼は、私の半分ぐらいしかないといってもよいほど背が低く、また大変に痩せていました。私は、こんな小男なら、簡単にやっつけられると思いました。ところが、彼には、腕があったのです。それで、簡単に倒されてしまったのは、彼ではなく、むしろ、私のほうだったのです。あのときから私は、自分が、この道に向いてはいないことを、嫌というほど思いしらされました。

 今、彼は、もう六〇歳のおじいさんですが、その彼が、たまたま私のところに訪ねてきて、突然、哲学的な話や、宗教的な話をもちかけたことがありました。

 もともと彼は、小さくても、丈夫な体のもち主だったので、若いうちは、仕事に夢中なあまり、ほかのことについては、考えてみようともしませんでした。

 ところが、今はもう老人です。若いときのように、柔道の教師を続ける続けることはできません。そのために、彼には、ありあまるほどの暇ができました。

 こうなってくると、いろんなことが頭に浮かんできます。彼は、考える人になったのです。ところで、彼が、このように考えることになったのは、彼にとって、実にありがたいことでした。

 それにしても、六〇歳のその年になるまで、なんと惜しい年月を過ごしたことでしょう!そのときまで、からだの丈夫な動物とあまり変わらない生活をしてきたのですから。

 率直にいうと、この柔通の先生は、知息の働きを、それほど発達させなかったということになります。

 では、腕力や体力のほうは?もちろん、彼は、大男の私を倒したほどですから、相当なものだったに違いありません。しかし、それさえも、もし彼が、大きな動物と競争するとしたら、問題にならないはずです。

 それに、人間の偉大さというものは、この腕力や、体力にあるのではありません。といっても私は、腕力や体力が、軽蔑すべきものだとか、廃止すべきものだというのではありません。いいえ、むしろ、その反対です。なぜなら、もし、「体と関係のあることは、これから絶対にやめた!今度は、もっと優れた知恵の働きだけに専念する」ということにでもしたら、それこそ、大変な結果を招くからです。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

テレビの例:神を探す心 ー 目にみえるものを通して

2020-10-30 00:51:31 | 神を探す心
デルコル神父『神を探す心 ー 目にみえるものを通して』

◆2、テレビの例

 具体的に例を挙げてみましょう。

 部屋の片隅にテレビがあって、小さな子供が、じっと見ています。しばらくすると、母親に、テレビを指さして「おかあちゃん、これなあに?」と聞きます。

「テレビですよ」と母親が答えると、その子供は、直接それを自分の目で見ているので、すぐに納得します。

 でも、またすぐに、次の質問が飛び出してきます。

「これ、どこからきたの?」

「ほら、お母さんと、昨日電気の球を買いにいったでしょう、あのお店からなのよ」と、お母さんが説明すると、子供も、店に何台も同じようなものが並んでいたことを思いだして、納得するのです。

「誰が作った?」という疑問についても、もしかしたら、子供は、こういったものを作っているところを、実際に前に見たことがあるかもしれません。それで、おかあさんが答えると、すぐ、〝ああ、なるほど"というようにわかってきます。そして、少なくとも、ある程度までは満足します。

 でも、子供の問いは、そこで、止まりはしないのです。ダイヤルを盛んにいじってみて「この丸いものを回すと、なぜこんなふうになるのかしら?」というように、問いはまず、一番身近な理由から、始まっていきます。

 つまり、子供は、もの自体の動きを調べるのです。しかし、もう少し子供が成長してくると、つまり、その知恵が発達してくると、「なぜこんなふうに、できたのか?」とか、あるいは、「何のためにできたのか」というふうに、身近で、直接的な目に見える原因だけでなく、その全般にわたり、また、その始め、その後のことにまで考えが及ぶようになってきます。それで人間は、注意をしないなら、ときには、自分の知恵の限界さえ忘れてしまうほどです。

 つまり、人間のこの問いかけは、身近で具体的なものから始まり、次第に遠くに進んで、後には、目に見えない抽象的なものにまで到達する性質を持っているのです。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。


神の存在は証明できるか

2020-10-29 09:39:12 | 神を探す心
デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆1、神の存在は証明できるか

神の存在 - ある人たちは、キリスト教を否定するために「どうせ、神の存在などは科学的には証明できないことだから」といいます。ご覧のとおり、攻撃は、キリストの存在やキリストの思想よりも、神の存在に向けられます。

 その理由は簡単で、キリスト教それ自身も、神の存在が、その土台になっているからです。つまり、土台さえ崩すことができれば、あとは、何も手を施さずとも自ら崩壊していくからです。

 ところで、本当に神の存在とは、証明ができないものなのでしょうか。いいえ、この全世界に、宗教の存在があり、宗教は、直接神の概念に結びつけられていることはすでに神の存在の傍証になっています。

 それに証明は、いつでも物質的に直接的にでなければ成り立たないものではありません。
 
 いいえ、かえって、背理法が、確かな証明になることもあります。背理法は間接的な証明になります。

 それにしても、神の存在を認めるは、この世界の中で、ただひとり人間だけで、動物は、神の存在など、否定もしないかわりに、認めももません。彼らには、知恵がないのです。したがって、問題をとりあける能力さえありません。

 しかし人間は、知恵を持っています。そして、この知恵の働きは、人間の関心を、直接自分に関係あるもの、物質的に五感に触れるものだけに留めず、それらのものの原因や、理由へと進めていくのです。

「おかあちゃん、これなあに?」

「これ、誰のものなの?」

「誰が作ったの?」

などと、盛んに質問を連発する小さな子供のことを考えてみてください。あるときに、親でさえ、なんと答えてよいか、戸惑うほどです。

 ところで、この容赦のない質問は、直接知恵の発達を示しているものであって、子供は、自分が実際に、そのものを見、また、誰が作ったかもわかっているのに、この「なに?」とか、「なぜ?」とか、「誰が作ったの?」とか聞き出そうとします。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

神を探す心 ー 目に見えるものを通して

2020-10-28 00:50:54 | 神を探す心
デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

(巻頭緒言)

 神の存在はどうやったら確認ができるでしょうか。この問題を、なるべく優しく、わかりやすく解説します。知恵を働かせて、宇宙万物の創り主である神を見わける賢い人となりましょう。

(巻末)

 前世紀のイタリアの有名な詩人は「私がどこを見まわしても、おお、偉大なる神よ、私の目にはあなたの姿が見えます」と歌いました。勿論、神を探す心がなければどんなに優れた知恵でも迷ってしまいます。「心を尽くし、魂を尽くして神を探し求める人は、神を見いだす」と聖書は何度も繰り返しています。そして、「神を見いだす人は、永遠に生きる」とも言われています。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。