デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』
◆4、健全な体に・・・
そもそも私たち人間というものは、知恵と体が、共同で生活するようにできているのですから、両方とも働かせるのがもっとも適当で健康的です。
もしも、知恵を偏重するあまり、体のほうを、なおざりにするとしたら?・・・そうです、いつか体は、おそろしい復讐を企てるのです。
皆さんは、昔、ローマ人が引用していたあの格言を既に、もう何度も耳にされているでしょう。MENS SANA IN CORPORESANO メンス・サナ・イン・コルポレ・サノ(健全な体に健全な精神)、つまり、私たち人間は、体も、ある程度まで、しっかりしていなければいけません。
こんな例があります。小さいころ、私の住んでいたに、私より少し年上の子供がいましたが、その子は、四歳ぐらいから、既に素晴らしい音楽の才能を現わしました。
両親は、これに気づくと、それこそ、有頂天になってしまいました。ただもう子どもの才能を伸ばすことばかりを考え、あけてもくれても練習ばがりで、子供に遊ぶ暇さえ与えないのです。平凡な他の子供たちと交わっていたら、きっとこの子のオ能は駄目になると考えはじめた親たちは、とうとう自分たちの大切な天才児を、音楽の黄金の籠に入れてしまいました。
同じ人間、同じ子供ですから、その子も、どんなにか仲間たちと飛んだり跳ねたりして遊びたかったことでしょう。
それにしても、やっぱり好きな音楽ですから、強いられれば、勧められるまま、つい音楽の練習ばかりしていました。
でも、その子は、そのうち、少しずつ、才能の進歩に反比例して体のほうが破壊されていきました。そして、ついには、素晴らしい才能を持ちながら、幼ない命を落してしまったのです。
どんな素晴らしい知恵も才能も、頭脳なしに、どうして働くことができましょう?でも、あの天才児は、その頭脳をあまりに早く使い尽くしてしまったのです。
そうです。知恵があっても、体というこの道具がなくなったのでは、人間として何もすることができません。
この子の場合は、体の働きを抑えて、知恵ばかりを働かせたのです。その結果は、ご覧のとおり、子供は、病気になってしまい、せっかくの音楽の天才的才能も、台なしになってしまいました。
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。
◆4、健全な体に・・・
そもそも私たち人間というものは、知恵と体が、共同で生活するようにできているのですから、両方とも働かせるのがもっとも適当で健康的です。
もしも、知恵を偏重するあまり、体のほうを、なおざりにするとしたら?・・・そうです、いつか体は、おそろしい復讐を企てるのです。
皆さんは、昔、ローマ人が引用していたあの格言を既に、もう何度も耳にされているでしょう。MENS SANA IN CORPORESANO メンス・サナ・イン・コルポレ・サノ(健全な体に健全な精神)、つまり、私たち人間は、体も、ある程度まで、しっかりしていなければいけません。
こんな例があります。小さいころ、私の住んでいたに、私より少し年上の子供がいましたが、その子は、四歳ぐらいから、既に素晴らしい音楽の才能を現わしました。
両親は、これに気づくと、それこそ、有頂天になってしまいました。ただもう子どもの才能を伸ばすことばかりを考え、あけてもくれても練習ばがりで、子供に遊ぶ暇さえ与えないのです。平凡な他の子供たちと交わっていたら、きっとこの子のオ能は駄目になると考えはじめた親たちは、とうとう自分たちの大切な天才児を、音楽の黄金の籠に入れてしまいました。
同じ人間、同じ子供ですから、その子も、どんなにか仲間たちと飛んだり跳ねたりして遊びたかったことでしょう。
それにしても、やっぱり好きな音楽ですから、強いられれば、勧められるまま、つい音楽の練習ばかりしていました。
でも、その子は、そのうち、少しずつ、才能の進歩に反比例して体のほうが破壊されていきました。そして、ついには、素晴らしい才能を持ちながら、幼ない命を落してしまったのです。
どんな素晴らしい知恵も才能も、頭脳なしに、どうして働くことができましょう?でも、あの天才児は、その頭脳をあまりに早く使い尽くしてしまったのです。
そうです。知恵があっても、体というこの道具がなくなったのでは、人間として何もすることができません。
この子の場合は、体の働きを抑えて、知恵ばかりを働かせたのです。その結果は、ご覧のとおり、子供は、病気になってしまい、せっかくの音楽の天才的才能も、台なしになってしまいました。
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