聖ベルナルド修道院長教会博士 St. Bernardus D. E. 記念日 8月 20日
いやしくもカトリック信者にして「慈悲深き童貞マリア」という聖ベルナルドの聖母に祈る文を知らぬ人はよもあるまい。実際過去10世紀に亘りこの麗しい祈祷を口にして、言い尽くせぬ慰めを感じ、新たな力を得た人は、どれほどあったか知れぬのである。されば、かように優れた祈祷を作り、以て多数の人に天主や聖母に対する敬虔を教えた聖ベルナルドは、この功績の一つだけでも十分聖会博士の称号に値したであろう。しかも之は彼の豊富浩瀚な信心に関する著作中、九牛の一毛にも当たらぬのである。
この偉大な学者聖ベルナルドは1091年フランスのヂジョン近郊にあるフォンテーヌ城に貴族の子と生まれた。父は国家の大官で始終不在がちであったから、彼を教育するのは自然信仰の極めて篤い母の役目となったが、之はベルナルドにとって誠にこの上もない幸福であった。彼は青年時代に及んで懐かしいこの母を失ったけれど、その尊い教訓の数々は深く心に刻まれて永く消える時がなかったのである。
その21歳のある日のことであった。彼はブルゴーニュの兵営に入営中の兄達を訪れる途中、とある路傍の一礼拝堂に入って兵営暫く祈祷を献げたが、その折りふと母の遺訓を思い出し、世間を捨てて出家入道する覚悟を定めるに至った。そしてその決意の程を、後刻兵営の兄達に話した所、彼等も伯父もことごとく共鳴し、ついに1112年30人の同志を相率いてシトー修道院に入ることとなったのである。伝えによれば彼等が城を去るに臨み、父の傍に残る末弟ニヴァルドを顧みて「私達は皆修道院に入るのだから、この城も領地も父さんの財産は全部お前のものになるのだよ」と言うとニヴァルドは「兄さん達は天国の財産の跡継ぎになるのに、僕はただこの世の財産の跡継ぎになるなんて、随分つまらない役回りだなあ」と答えたという。
当時フランスには名高い修道院が二つあった。それはクリニュイとシトーとである。中でもシトーは聖ロベルトの創立に係るトラピスト会に属し、生活の厳格を以て聞こえ、食物は常にパンと野菜だけで絶対に肉を用いず、6時間の祈祷と6時間の睡眠の外は、激しい労働に従う定めであった。されば易きに就く人心の常として、この修道院を志願する者は平素でもさまで多からぬを、その頃院内に伝染病が猛威をふるい、修士の死亡相次いだので、世人は益々恐れをなし、シトー入院志願者は殆ど跡を絶つに至った。時のシトー修院長はステファノ・ハーヂングという規矩厳正な英人であったが、この事を深く遺憾とし、日頃から天主によき志願者を与え給うように熱心に祈っていた所、突如ベルナルド等が大挙して入院を願い出たので夢かとばかり驚喜し、早速之を許可した。
ベルナルドはトラピスト会のあの峻厳無比な戒律を忠実に守ったばかりでなく、自ら進んで余分の苦行をもした。そして常に「ベルナルドよ、汝が此処に来たのは何の為か?」と記した札を座右に置き、己を励ます便りとした。
こうしたベルナルドの修道熱心が院長の目に留まらぬ筈はない。やがて彼は抜擢されて1115年12人の同志を伴い、当時ヴェルムートタールと呼ばれ、後クレルーヴォー(明るい谷の義)と称せられた深山の幽谷に赴き、そこに新修道院を設けるに至った。
それから彼は38歳の時、トロアに開かれた聖職者会議に出席し、神殿騎士修道会の戒律改修を委ねられたが、これこそベルナルドが聖会の為公然活動を始めた最初で、その後は司教の選挙にせよ異端に対する護教にせよ、また種々の争いに対する和解調停にせよ、苟くも聖会の重大問題で彼の関与せぬことは殆どなかった。なお彼は諸々方々の教会から依頼を受けて説教を試みたが、人々はそれを聞くよりも聖人の噂ある彼の風貌に接し、その奇蹟を見、その掩祝を受けたいばかりに数十里の路を遠しとせず来たり集うことさえあった。
ベルナルドはまた、招聘を受けても之に応じ得ぬような場合には、しばしばその教会に書簡を送って訓戒や忠告を与えることがあった。かような書簡の今に残れるもの、おおよそ500の多きを数えているが、その何れを見ても才気渙発、文章流麗、敬虔に満ち聖会を思うまごころに溢れて、人を動かさずにはおかない。
しかし彼のあらゆる事跡の中最も顕著なのは、何と言っても聖地パレスチナを回教徒の手から奪還する十字軍の為の説教であろう。これは彼の弟子であった教皇オイジェニオ2世の命によるもので、彼はその為全欧諸国を廻り皇帝諸侯や一般人民に聖戦参加方を勧説したが、この企てはその目的こそ神聖であったものの、参加各国将士は人間故やはりその弱さから互いの間に嫉妬争闘が起こり、ついに失敗に帰するの已むなきに至った。これはベルナルドにとって大いなる試練であった。しかし彼は一切を天主の思し召しとして甘受し、聖会に不利、人々に迷惑を及ぼさぬようにひたすら祈り、補うに峻烈な苦行を以てした。
さてベルナルドは命ぜられた任務を果たすといつも懐かしの故郷に帰る如くクレールヴォーに急ぎ戻り、愛する修道生活に専念した。そして彼が修道院に帰る時には必ず新たに修道志願の青年を幾人か伴うのが例であった。さればクレールヴォーの行者の数は次第に増えて、彼が臨終の頃には約700の多きに上った位であった。己に対しては秋霜の如く厳しい彼もこれらの弟子達に対しては春日の如く温和で、自分の深い神秘的体験からその与える敬虔上の指導は一として肯綮に当たらぬはなかった。
1552年ベルナルドは病床に臥す身となった。時たまたまメッツ市の貴族と人民との間に争闘が起こるや、司教は使者を遣わして彼の調停を切に求めた。で、彼は衰えた身を二人の修道者に助けられて同市に赴き、斡旋に努力、とうとう双方を和解せしめる事に成功したが、これぞ彼が最後の活動であったのである。
やがて病あらたまって、彼が聖会の為にたてた数々の功労また修院に在って孜々として積んだ善徳の報いを受くべく天国に旅立ったのは、1153年8月20日のことであった。行年63歳。死後僅か20年を経たばかりで列聖の栄誉を担ったベルナルドは、又「蜜の流れの博士」とあだ名され、イエズスの聖名及び聖母マリアに対し特に崇敬の厚かった聖人として知られている。
教訓
聖ベルナルドはトラピスト会の第二の創立者ともいうべく峻厳な修道にいそしみながらも、その国家社会を益したことは驚くべきものがあり、その活動の華々しさは当時の最も偉大な聖職者も三舎を避けるばかりであった、それも決して自ら求めたものではない。聖人の徳の高さに心服した人々が、事毎にその出盧を促したからである。実に「人は灯火をともして枡の下におかず、家にあるすべての物を照らさん為に之を燭台の上におく」とは至言である。されば我等も先ず天主の国とその義とを求め、徳を修めることに努力しよう。
いやしくもカトリック信者にして「慈悲深き童貞マリア」という聖ベルナルドの聖母に祈る文を知らぬ人はよもあるまい。実際過去10世紀に亘りこの麗しい祈祷を口にして、言い尽くせぬ慰めを感じ、新たな力を得た人は、どれほどあったか知れぬのである。されば、かように優れた祈祷を作り、以て多数の人に天主や聖母に対する敬虔を教えた聖ベルナルドは、この功績の一つだけでも十分聖会博士の称号に値したであろう。しかも之は彼の豊富浩瀚な信心に関する著作中、九牛の一毛にも当たらぬのである。
この偉大な学者聖ベルナルドは1091年フランスのヂジョン近郊にあるフォンテーヌ城に貴族の子と生まれた。父は国家の大官で始終不在がちであったから、彼を教育するのは自然信仰の極めて篤い母の役目となったが、之はベルナルドにとって誠にこの上もない幸福であった。彼は青年時代に及んで懐かしいこの母を失ったけれど、その尊い教訓の数々は深く心に刻まれて永く消える時がなかったのである。
その21歳のある日のことであった。彼はブルゴーニュの兵営に入営中の兄達を訪れる途中、とある路傍の一礼拝堂に入って兵営暫く祈祷を献げたが、その折りふと母の遺訓を思い出し、世間を捨てて出家入道する覚悟を定めるに至った。そしてその決意の程を、後刻兵営の兄達に話した所、彼等も伯父もことごとく共鳴し、ついに1112年30人の同志を相率いてシトー修道院に入ることとなったのである。伝えによれば彼等が城を去るに臨み、父の傍に残る末弟ニヴァルドを顧みて「私達は皆修道院に入るのだから、この城も領地も父さんの財産は全部お前のものになるのだよ」と言うとニヴァルドは「兄さん達は天国の財産の跡継ぎになるのに、僕はただこの世の財産の跡継ぎになるなんて、随分つまらない役回りだなあ」と答えたという。
当時フランスには名高い修道院が二つあった。それはクリニュイとシトーとである。中でもシトーは聖ロベルトの創立に係るトラピスト会に属し、生活の厳格を以て聞こえ、食物は常にパンと野菜だけで絶対に肉を用いず、6時間の祈祷と6時間の睡眠の外は、激しい労働に従う定めであった。されば易きに就く人心の常として、この修道院を志願する者は平素でもさまで多からぬを、その頃院内に伝染病が猛威をふるい、修士の死亡相次いだので、世人は益々恐れをなし、シトー入院志願者は殆ど跡を絶つに至った。時のシトー修院長はステファノ・ハーヂングという規矩厳正な英人であったが、この事を深く遺憾とし、日頃から天主によき志願者を与え給うように熱心に祈っていた所、突如ベルナルド等が大挙して入院を願い出たので夢かとばかり驚喜し、早速之を許可した。
ベルナルドはトラピスト会のあの峻厳無比な戒律を忠実に守ったばかりでなく、自ら進んで余分の苦行をもした。そして常に「ベルナルドよ、汝が此処に来たのは何の為か?」と記した札を座右に置き、己を励ます便りとした。
こうしたベルナルドの修道熱心が院長の目に留まらぬ筈はない。やがて彼は抜擢されて1115年12人の同志を伴い、当時ヴェルムートタールと呼ばれ、後クレルーヴォー(明るい谷の義)と称せられた深山の幽谷に赴き、そこに新修道院を設けるに至った。
それから彼は38歳の時、トロアに開かれた聖職者会議に出席し、神殿騎士修道会の戒律改修を委ねられたが、これこそベルナルドが聖会の為公然活動を始めた最初で、その後は司教の選挙にせよ異端に対する護教にせよ、また種々の争いに対する和解調停にせよ、苟くも聖会の重大問題で彼の関与せぬことは殆どなかった。なお彼は諸々方々の教会から依頼を受けて説教を試みたが、人々はそれを聞くよりも聖人の噂ある彼の風貌に接し、その奇蹟を見、その掩祝を受けたいばかりに数十里の路を遠しとせず来たり集うことさえあった。
ベルナルドはまた、招聘を受けても之に応じ得ぬような場合には、しばしばその教会に書簡を送って訓戒や忠告を与えることがあった。かような書簡の今に残れるもの、おおよそ500の多きを数えているが、その何れを見ても才気渙発、文章流麗、敬虔に満ち聖会を思うまごころに溢れて、人を動かさずにはおかない。
しかし彼のあらゆる事跡の中最も顕著なのは、何と言っても聖地パレスチナを回教徒の手から奪還する十字軍の為の説教であろう。これは彼の弟子であった教皇オイジェニオ2世の命によるもので、彼はその為全欧諸国を廻り皇帝諸侯や一般人民に聖戦参加方を勧説したが、この企てはその目的こそ神聖であったものの、参加各国将士は人間故やはりその弱さから互いの間に嫉妬争闘が起こり、ついに失敗に帰するの已むなきに至った。これはベルナルドにとって大いなる試練であった。しかし彼は一切を天主の思し召しとして甘受し、聖会に不利、人々に迷惑を及ぼさぬようにひたすら祈り、補うに峻烈な苦行を以てした。
さてベルナルドは命ぜられた任務を果たすといつも懐かしの故郷に帰る如くクレールヴォーに急ぎ戻り、愛する修道生活に専念した。そして彼が修道院に帰る時には必ず新たに修道志願の青年を幾人か伴うのが例であった。さればクレールヴォーの行者の数は次第に増えて、彼が臨終の頃には約700の多きに上った位であった。己に対しては秋霜の如く厳しい彼もこれらの弟子達に対しては春日の如く温和で、自分の深い神秘的体験からその与える敬虔上の指導は一として肯綮に当たらぬはなかった。
1552年ベルナルドは病床に臥す身となった。時たまたまメッツ市の貴族と人民との間に争闘が起こるや、司教は使者を遣わして彼の調停を切に求めた。で、彼は衰えた身を二人の修道者に助けられて同市に赴き、斡旋に努力、とうとう双方を和解せしめる事に成功したが、これぞ彼が最後の活動であったのである。
やがて病あらたまって、彼が聖会の為にたてた数々の功労また修院に在って孜々として積んだ善徳の報いを受くべく天国に旅立ったのは、1153年8月20日のことであった。行年63歳。死後僅か20年を経たばかりで列聖の栄誉を担ったベルナルドは、又「蜜の流れの博士」とあだ名され、イエズスの聖名及び聖母マリアに対し特に崇敬の厚かった聖人として知られている。
教訓
聖ベルナルドはトラピスト会の第二の創立者ともいうべく峻厳な修道にいそしみながらも、その国家社会を益したことは驚くべきものがあり、その活動の華々しさは当時の最も偉大な聖職者も三舎を避けるばかりであった、それも決して自ら求めたものではない。聖人の徳の高さに心服した人々が、事毎にその出盧を促したからである。実に「人は灯火をともして枡の下におかず、家にあるすべての物を照らさん為に之を燭台の上におく」とは至言である。されば我等も先ず天主の国とその義とを求め、徳を修めることに努力しよう。