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キリストの御変容の記念   Transfiguratio D. N. Jesu Christi

2024-08-06 00:00:07 | 聖人伝
キリストの御変容の記念   Transfiguratio D. N. Jesu Christi     祝日 8月 6日


 イエズス・キリスト公生活の最後の年、ファリザイ人や律法学士等は折りあらばその御生命を奪おうと、しきりに隙をうかがっているので、過ぎ越しの祭りにも主はエルサレムにお上りになることが出来なかった。敵の目は至るところに光り、数多の奇蹟を行い給うたあたりにおいても、主の身辺は危険であったので。主はガリラヤに赴かれ、ヨルダン川を遡り、カイザリアのフィリピへおいでになった。この町はユダヤに属せぬだけに多少気を許すことが出来る。主は御弟子達と二、三日の休養を取った後、おもむろに将来の対策を講ぜられた。もっとも休養といっても全く活動を中止されたという訳ではない。むしろ精神的休養ともいうべく迫害の憂いがないだけに警戒の必要もなく、くつろいだ気持ちで過ごされたというほどの意味である。
 あの、ペトロがイエズスの天主御子なることを堂々と宣言したのは、このカイザリアに於いてであった。主はこの時からやがて多くの苦難を受け、死して三日目に復活すべき事を語り始め給うた。そして御弟子の主だった人々、わけても聖ペトロの信仰を強める為には御自分の天国における御光栄を少しく垣間見させておくのがよいと思し召したのであろう、ある日ペトロ、ヤコボ、ヨハネの3人を連れて、とある高山に上られた。古い伝説によればその山はタボル山であったとのことである。
 さて頂上に到着すると、疲れ切った弟子達は、休んでいる間に思わずもとろとろと快いまどろみの中に引き込まれた。どれだけそうして時間が過ぎたことであろう。突然彼等は目を覚ました。すると驚いたことには、太陽よりも明るい光があたりにこうこうと照り輝いている。眩さにくらんだ目を擦りこすり見ると、その中にすっくと立っておられるのは、紛う方なき主イエズスである。しかし日頃見られた御姿とは異なり、その御顔は日の如く輝き、その御衣は光の如く白い。が、そこに見えるのは主ばかりではなかった。モーゼ、エリアの旧約二大預言者も姿を現して、何か親しげにイエズスと打ち語らっているのである。
 弟子達は呆気にとられたまま、暫くは言葉もなかった。それでも漸く先ず我に帰って話す力を取り戻したのはペトロであった。彼は言った「主よ、ここは良いところでございますね。何ならここに三つの庵を建てて、一つは主の、一つはモーゼ様の、一つはエリア様のに致しましょうか?」我等はこの言葉の子供らしさを嗤ってはならぬ。彼等はあまりのことに動転して言うべき事を知らなかったのである。
 その時ペトロは感動の極みで自分のことも他の弟子達のことも少しも考えなかった。また自分が飲食物を必要とする人間であることもすっかり忘れ果てていた。ただ一つの望みはいつまでもいつまでもこんな所に住んでいたいということであった。しかしイエズスの思し召しはそうでなかった。主がそうした天国の光栄の片鱗を使徒達に示されたのは、それによって彼等の信仰を堅固にし以て今後の艱難や迫害を毅然として忍ぶ力を与えようとお考えになったからに外ならないのである。
 使徒達の見た主の御変容がどれほどの間続いたかは聖書にも記してない。けれどもいずれにしても極く短い時間に過ぎなかったに相違ない。なぜなら間もなく一片の雲が彼等を覆い隠したとあるからである。その雲も美しく輝いていた。そしてたちまち中から大いなる声が響き渡り、「これこそわが心を安んずるわが愛子である。これに聴け!」と曰うた。もちろんこれは天主御父のの御声であろう。それを聞くと等しく弟子達は懼れにどっと倒れ伏し、面さえも挙げ得なかった。やがて主がやさしく肩を揺さぶって「さあ立ち上がるがよい、もう何も怖いことはない」と仰せられるままに恐る恐るあたりの様子をうかがうと、なるほどモーゼもエリアも輝く雲もなくただ主お一人おいでになるばかりで、その主も先刻の威光ある御姿ではなく普段通りの主であった。
 それから彼等は下山の途に就いたが、イエズスは「私が死して蘇るまでは、先に見た事を何人にも話してはならぬ」と厳しく誡められた。3人の弟子はその御言葉を忠実に守り、御昇天の後まで堅く心に秘しておいた。しかしそれからは折りにふれてあの山上に見た主の御光栄を、人々に物語ったのであった。
 聖ヨハネはその福音書の中に当時を追想して「我等はその光栄を見奉ったが、それは父より来れる独り子の如き光栄であった」と記している。また聖ペトロに至っては更に詳しく「我等がわが主イエズス・キリストの能力と降臨とを汝等に告げ知らせたのは、巧みな作り話に基づいたのではなく、その威光の目撃者としてである、即ち彼は天主に在す父より尊厳と光栄とを賜り、その為偉大なる光栄(天父のこと)より声が下って『これこそわが心を安んずるわが愛子である。これに聴け』と仰せられたのである。我等は主と共に聖山に在った時、その声の天より来りしを親しく聞いた」と記している。されば聖ペトロは主の御変容を仰いだ瞬間を片時も忘れなかったのである。
 従って聖会に於いてもこの大いなる出来事を記念する為に古くから祝祭が行われて来た。それは我等にとって、イエズスならびにその聖教に対する信仰を堅める意義をももっているのである。

教訓

 使徒達は主の御変容を見た時、いつまでもそこを去らず光栄の主を眺めていたいと請い願った。我等も天国に於いては永遠に主の威容を仰ぎ得るという有難い御約束を戴いている。さればその幸福をかちえる為、地上における暫しの労苦を快く耐え忍ぼうではないか。