聖シャーベル・マクルーフ司祭 St. Charbel Makhlouf 記念日 7月 24日
聖シャーベル・マクルーフ司祭
ミサ聖祭の聖人
1898年の降誕祭の前夜に亡くなったレバノンの修道士シャーベル・マクルーフは。23年間隠修士として非常に厳しい生活をした人であった。彼は4つの小さな部屋と小聖堂のある家に住んで、肉食は全然とらず、果物も食べなかった。必要な時以外は仲間の修道士と全く話さなかった。ぶどう酒は御ミサの時に一滴飲むだけであった。
寝台の代わりに枯れ草をいっぱいつめたふとんを用い、その上に山羊の皮をかけて寝た。枕には木片を使った。そして彼の一人の仲間を長上として、彼に従った。
このように19世紀において、シャーベル・マクルーフは、他の修道士と共に、初代教会の荒野の師父たちの厳しい生活を再び生きることを試みたのであった。
彼は聖ヨハネ・クリゾストモの友人の聖マロの名前をとったマロン教会というキリスト教徒のグループに属していた。このグループの信者達の大部分はレバノンに住んでいるが、12世紀から西方教会と一致して、価値あるキリスト教会の伝統すなわち、自己節制の規律を西方教会の中にもたらしたのである。このような忘れられがちな伝統を最も明らかに教示したのが、このシャーベル・マクルーフであった。 23年間の聖なる克己生活の後、70歳で主のもとに召された。
彼は1965年12月5日に列福され、1977年10月9日に列聖された。
1977年10月9日、シャーベル・マクルーフの列聖において、神は、祭壇における聖なる犠牲(いけにえ)の重要性、何世紀もかけて形成された習慣や言語や伝統の差異を超越して行われる信仰の神秘の重要性を強調するために、新たに偉大な聖人をお立てになったように思われる。なぜなら、およそ四十年にわたる聖シャーベルの聖職者としての生涯は、ミサにおいて献げられるキリストの神秘の深遠な観想へと捧げられたからである。そして、あたかも聖シャーベルの霊性に人々の注意を喚起するために、神は彼の名を大雨のようにおびただしい奇跡でもって印づけたかのようである。
若き日
聖シャーベルは1828年5月8日、レバノンの小さな村、ベッカ・カフラで、熱心なマロン派キリスト教徒の両親の家に生まれた。古い平屋根の石造りの家々が、まるで崖にかけられた鳥の巣のようにファム・エル・メイザブの山々の高地に建っている。そういう村である。トリポリの東、約15マイル、近くには世に名高いレバノンの杉の森がある。海抜は5000フィートで中東では最も高い。荒れた花崗岩の山々で周囲から遮られ、その隙間に幾筋かの川と石ばかりの谷がある。そこでわずかな数の不屈の農民たちが数頭ばかりの牛を飼い、やせた土地に葡萄とオリーブを裁培するために苦闘している。恐ろしく暑い夏の後にはひどく寒い冬が続き、人々の陽に焼けた顔はこの土地の厳しい気候をさながらに体現している。
シャーベルの生まれた日、13マイルほど南のアナヤの聖マロ大修道院が正式に発足した。彼の名は、つねにこの修道院の名と共に思い起こされることであろう。聖人はヨゼフという洗礼名を授けられ、ほとんど修道院のような環境の特別に敬虔な家庭で育てられた。信仰は家庭に深く根を下ろし、(シャーベルには兄と姉が二人ずついた)日常生活の生きた一部分となり、夕ベのロザリオはその焦点であった。彼の母がロザリオを手放すことはめったになかった。彼女は厳格に断食し、夜には一人彼女の部屋で天に手を挙げて祈っていた。
ヨゼフが三歳の時、国はエジプトに侵攻され、彼の父はその土地の他の多くの住民たちと同じく軍に徴兵された。彼は戦闘を生き延びたが、帰還の途上、病気で死んだ。その結果、ヨゼフは彼の叔父のタイノスの庇護のもとに育てられることになった。彼は読み書きを学び、ミサに与り、村の教会の聖歌隊で歌った。彼は背が高く、贅肉のない筋肉質の強健な体に格別な信仰と熱意に満ちた気質の優しい少年に育った。牧童として働き、十四歳の時には、神を求める熱意から、祈りと黙想に時を過ごすための洞窟を探し求めた。またヨゼフは叔父の何人かがそこで修道士をしている近くのコザヤの隠者の庵をしばしば訪れ、彼らの生活について学び、彼らの勧告に耳を傾けた。
神を求める憧れが非常に強いものであったので、二十三歳の時、彼は全てを離れて修道院に入ることを決心した。1851年のある日の早朝、彼は何も言わずに家を抜け出した。骨のおれるいくつもの山越えの後、マイフォークの聖母のマロン派修道院に辿りついた。そこで彼の修道生活は始まったのである。
修道士
マロン派の修道院は4世紀に聖マロによってその基礎を据えられた。そして、1695年にそれまで分立していたレバノンの諸修道院は、一つの会則と総会長のもとに統一された。修道会は1732年、教皇クレメンス十二世によって承認された。修道院での生活を始めるにあたって、ヨゼフはシャーベルと改名した。彼が敬愛する二世紀のアンティオキア教会の殉教者の名である。数週間後、息子の突然の出奔に当惑した母と叔父が彼を連れ戻しにやって来た。しかし、シャーベルは彼の召命が真実であることを彼らに説き、納得させた。信仰篤い母は末子を神に捧げることを心から喜んだ。
修練士シャーベルは厳しい肉体的・霊的試練に耐えた。樵、繕い物、機織り、料理、畑仕事といった仕事に加えて、彼は聖務日課を日に七回唱えなければならなかった。夜中には祈りのために起き、他にも種々の信心業を行ない、長時間勉強した。しかし、彼の神に対する深い愛が彼を導き、彼は勤勉と謙遜と愛徳における類まれなる模範となった。
一年後、彼は修練期を終えるために20マイルほど南のアナヤにある聖マロの要塞のごとき大修道院に送られた。ここで彼の日常生活は更に厳格になった。シャーベル修練士は格別に厳しい日課に耐え、1853年、彼は終身誓願をして修道士となった。ミサにおいて彼は衆目の集まる中、次のように厳かに宣誓した。「私、シャーベル修道士は、わが最も敬愛する総会長様のお立ち合いのもとに、全能の神に誓います。われわれの会則と習慣に従って、死に至るまで、従順、貞潔、清貧を守ります。」
間もなく彼はクフィファンの聖キプリアヌス修道院に送られ、そこで数年の間、叙階に備えて神学、哲学、聖書解釈を学んだ。聖なるハルディー二神父(彼の列福調査の申請がローマになされている。)の指導のもとに、シャーベルは祭司職の崇高なる神秘について長く深く瞑想した - 大祭司イエズス・キリストが人類を贖うため、カルワリオの丘の上でただ一度限り彼の命を御父なる神に献げたこと、そして最後の晩餐において、「これを私の記念として行ないなさい。」と使徒に命じられたことを。祭司職の深遠さが彼を飲み込み、1859年の叙階の時、彼は残りの人生を、日々のミサの言語を絶する神秘の中に生きることを沈黙のうちに誓ったのである。
司祭
アナヤに戻り、シャーベル神父は彼の魂の全てを神へと向け、ミサの犠牲を通して神と一致するために努力した。日々の長い祈り、沈黙、苦行、会則と誓願への忠誠はそのための助けであった。その顕著な例につき、当時の彼の上長であったネーメ神父の証言がある。シャーベルがある日、他の修道士たちと共に葡萄畑で働いていた時のことである。
「夕闇おし迫る頃、私は彼らの様子を見に行った。畑に着いてみると、シャーベル神父が葡萄畑の側で穴を掘っていたが、そこは他の修道士たちには見えないのであった。彼は食ベるように人に言われた時しか食ベようとしないのを私は知っていたので、私は彼に尋ねた。「神父、君は食事をしたのか?」彼は答えた。「いいえ。皆はまだ私を呼んでおりません。」 実のところ、シャーベルが食事もせずに畑の隅で黙々と働いていたことに他の修道士は全く気づいていなかった。彼は三十時間も断食をしていたのである。彼は日に一度しか食事をとらなかったから。私は修道院に人を遣って、彼の食ベるものを持って来させた。」
更に顕著なエピソードは、修道士たちが石灰を焼く窯に火をつけようとしていた時のものである。修道士の一人がシャーベルに冗談のつもりで言った。「これ以上の燃料が何もないから、みんなで君を窯に入れて燃やすことにしたよ。」シャーベルはすぐに跪いて祈り始めた。「神よ、この命令に従うための強さを私にくださいますように。」彼の同僚たちは狼狽し、恥じいり、彼に赦しを願った。
シャーベルの謙遜と純潔と清貧は、ほとんど信じ難い域にまで達していた。彼はフードを目深に被っていたので、修道院生活の間、人の顔を一度も見たことがなかった、と彼の同僚の一人は後に証言している。季節ごとの気候の変化の激しさにもかかわらず、彼はいつも同じ粗末な服で通し、残飯を彼の食事とし、金はミサの依頼として差し出されるものさえ見向きもしようとしなかった。
祈りに関してはアブラハム神父の証言がある。「シャーベルは敬虔と聖性において崇高な域に達していた。彼はいつも神、諸天使、諸聖人と交流していた。彼は夜のほとんどを祈りのうちに過ごし、彼の立てるミサは主の受難の大いなる回想のうちに執り行われた。非常に頭が良く、神学において卓越していたけれども、人には単純で無学な男だと思わせておいた。起床後に彼はいつも聖堂に行き、そこで五時間ほとんど跪いたままで聖櫃を見つめて、あるいは頭を下げて祈り、ため息をつき、長い観想のうちにひたっていた。」 ジャワド修道士は次のようにつけ加える。「彼はいつも忘我の境地にあり、観想し神のことばかりを考えていたので、彼の心、魂、思考が神にひたりきっていることを証明するには、彼を一目見るだけで十分だった。」
聖母への崇敬
マロン派の人々は神の母に対する特別な崇敬を抱いており、彼らの教会と修道院のほとんどは聖母に献げられている。シャーベルもまたこの伝統の中の典型であり、日に三環のロザリオを祈り、聖務日課において絶えず聖母に祈っていた。ミサの後、彼は次のような美しい祈りを唱えることを許されていた。「おお、われらの主イエズス・キリストの御母よ、わがために御子にとりなし給え。神よ、わが罪を赦し、わが惨めにして罪深き手から、この祭壇において捧げられる犠牲を嘉納し給わんことを。われは御身の祈りに信頼し奉る。おお至聖なるマリアよ。」
彼に相談しに来る人々に対して、シャーベルはいつもキリストとより深く一致する手段としての神の母への崇敬の重要性を強調した。ベッカ・カフラから何人かの訪問者が彼の祝福を求めてやって来た時、彼は熱意を込めて次のように語った。「救われたいと心から願っていますか。乙女マリアに対する大いなる崇敬を持ちなさい。彼女はあなたの救いを保証してくださるでしょう。」
シャーベル神父の格別な聖性に対する評判は、アナヤの灰色の壁を越えて広まった。彼は奇跡の人、告白において霊魂を見通す人、他界との親しき交流のうちに生きる人と評された。当時、彼に帰せられた多くの奇跡のうちには、狂人の治癒や、聖水を撒いて修道院の畑をいなごの大群から護ったり、同僚の修道士を噛もうとした毒蛇を手なづけたりといったことがあった。アナヤのシメオン神父は彼を次のように描写する。「背が高く、頑強でやせていた。顔は苦行のため青白く、フードはいつも目のところまで下ろしていた。うつむいて穏やかな物腰で、深く考え、沈黙し、生真面目で優しく、謙遜なことはまるで鳩のようだった。彼が祈っているのを見た人はその光景に打たれ、彼の模範によって啓発された。」
隠者
年を経るにつれてシャーベルは日々のミサにより完全に没頭することができるように、完全な孤独の生活を強く望むようになった。聖ペトロと聖パウロに捧げられた隠者の庵が一つ修道院に属していた。そこには一人の年老いた修道士が住んでいた。シャーベルはしばしば彼のもとを訪れ、ミサを手伝い、隠者の生活について学んだ。1875年に隠者が死んだ時、シャーベルはその庵を引き継ぐことを願い出た。
小さな円筒形の石造りの家は想像もつかないほどわびしく、暖房も窓も、家具も寝床すらもなかった。氷点下の外気は容赦なく浸み渡った。食事は日に一度、修道院から届けられた。この険悪な環境でシャーベルは一日中ミサを準備し、ミサを祝い、神に感謝して過ごした。アナヤの修道院の現在の上長であるパウロ・ダハー神父は次のように言う。「カルワリオにおけるドラマを世に輝かせるために、神が彼をこの山に連れて来たのだということを、シャーベルは知っていました。」
毎日、夜明け前に彼は枯れ葉の寝床から起き、氷のように冷たい石の床に跪き、ミサの準備のための長い祈りを始めた。凍りつく息が香の煙のように立ち昇り、彼の差し伸べられた腕と、聖櫃へ向けて祈りを唱える震える唇は神への深き崇拝と愛を示していた。
十一時になってやっと彼は犠牲を祝う準備を終える。彼は恭しく祭壇に近づき、大いなる敬意を込めて準備の祈りを主の用いられたアラム語でゆっくりと唱え始める。カノンが近づくにつれて、彼の様子はまるで神の玉座の側に侍る天使のような観を呈する。畏敬のあまり彼の声は震え、恭しく頭を下げ跪く。奉献の時、彼は息詰まるような崇拝のうちに聖体を奉挙する。
ミサの後シャーベルはすぐに感謝を献げ始める。夕方になるまで彼はずっと聖櫃の前に跪き、愛の秘蹟にして憐れみの契約であるミサにおけるカルワリオにおいて、神秘的に命を献げられたキリストの無限の愛に対し、至聖なる三位一体に感謝を献げる。観想においてシャーベルは十字架上のキリストの広げられた腕に目を注ぎ、滅びへとひた走る罪人を立ち止まらせ、放蕩息子の父親のように彼らを抱擁せんとする主の姿をそこに見出した。日が暮れても彼の感謝は続けられた。紫色に染まる山々の彼方に日が沈み、夜気が次第に冷たくなって、ついに寒さに凍え、疲れ果てたシャーベルは枯れ葉の寝床に身を横たえ、数時聞の休息をとるのであった。
聖人
この日課は二十三年もの間続けられた。庵が雪に閉ざされ、シャーベルの痩せた体が骨の髄まで凍えた時にもそれは変わらなかった。ついに1898年12月16日、聖体奉挙のとき、彼は突然祭壇に倒れた。そのとき一緒にいたマカリウス神父は、隠者の固くなった指から聖体を取りはずすのに非常に苦労した。シャーベルはチャペルから居室に運び込まれ、体は麻痺していた。枯れ葉の寝床に喘ぎながら横たわる彼は、崇高な祈りを終わりまで唱えようとした。「おお、真理の父よ、御子を御覧ください。これはあなたをお喜ばせする献げものであります。御子は、われらのために苦しまれたが故に、これを受け入れてください。この献げものを、それに価せぬわが手からお受けください。これをあなたがお喜びになり、これによって偉大なるあなたの御前で私が犯した罪をあなたが忘れてくださいますように。」「これはわれらの救いのためにゴルゴダで流された御子の御血であります。御子は私の代わりに叫んでくださいます。彼の功徳を思い、この献げものをお受けください。私の罪はかくも多い、しかし、あなたの憐れみは溢れるばかりであります。二つを秤にかければ、あなたの憐れみの方が山のように遙かに重いことでありましょう。」「罪を思い給え。しかしまた同時にその償いのために献げられる犠牲をも顧み給え。犠牲は罪を遙かに上回っております。私が罪を犯したが故に、あなたの愛する御子は釘と槍の苦しみを忍ばれました。そして、その苦しみはあなたを満足させ、私に命を与えるに十分であります。」
八日間、シャーベルは神秘的苦悶のうちに耐えた。そして周囲に跪いて彼を見守る人々は、彼がカルワリオにおける主の受難の継続を経験しつつあるのだということを信じて疑わなかった。修道士たちは彼にスープを持って来ようと申し出たが彼は断わった。それは彼が死期を悟り、全てを神に委ねたことの印であった。祭壇上で中断せざるをえなかった祈りを、彼は何度も何度も繰り返し祈り続けた。「おお、真理の父よ、御子を御覧ください。これはあなたをお喜ばせする献げものであります…」
クリスマスの前夜に、イエズス、マリア、ヨゼフ、ペトロ、パウロの名を呼びながら、彼は息を引き取った。
埋葬
クリスマスの午後、吹雪の中、葬式が執り行われた。そのあまりの寒さに一人の修道士が次のような言葉をもらした。「この厳しい寒さにわれわれはとても耐えられない。この神父は、一体どうやって二十三年もの間、一日中、像のように聖櫃の前に跪いて生きてきたのだろう?」 葬儀ミサの後、遺体は習慣に従って棺なしで修道院の側の墓地に埋葬された。しかしその後、多くの村人がシャーベル神父の墓の上に白熱した光が漂っているのを目撃した。ある修道士たちは葬式の前夜、聖櫃から光がさしてシャーベル神父の体を照らし続けていたと証言した。
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。
聖シャーベル・マクルーフ司祭
ミサ聖祭の聖人
1898年の降誕祭の前夜に亡くなったレバノンの修道士シャーベル・マクルーフは。23年間隠修士として非常に厳しい生活をした人であった。彼は4つの小さな部屋と小聖堂のある家に住んで、肉食は全然とらず、果物も食べなかった。必要な時以外は仲間の修道士と全く話さなかった。ぶどう酒は御ミサの時に一滴飲むだけであった。
寝台の代わりに枯れ草をいっぱいつめたふとんを用い、その上に山羊の皮をかけて寝た。枕には木片を使った。そして彼の一人の仲間を長上として、彼に従った。
このように19世紀において、シャーベル・マクルーフは、他の修道士と共に、初代教会の荒野の師父たちの厳しい生活を再び生きることを試みたのであった。
彼は聖ヨハネ・クリゾストモの友人の聖マロの名前をとったマロン教会というキリスト教徒のグループに属していた。このグループの信者達の大部分はレバノンに住んでいるが、12世紀から西方教会と一致して、価値あるキリスト教会の伝統すなわち、自己節制の規律を西方教会の中にもたらしたのである。このような忘れられがちな伝統を最も明らかに教示したのが、このシャーベル・マクルーフであった。 23年間の聖なる克己生活の後、70歳で主のもとに召された。
彼は1965年12月5日に列福され、1977年10月9日に列聖された。
1977年10月9日、シャーベル・マクルーフの列聖において、神は、祭壇における聖なる犠牲(いけにえ)の重要性、何世紀もかけて形成された習慣や言語や伝統の差異を超越して行われる信仰の神秘の重要性を強調するために、新たに偉大な聖人をお立てになったように思われる。なぜなら、およそ四十年にわたる聖シャーベルの聖職者としての生涯は、ミサにおいて献げられるキリストの神秘の深遠な観想へと捧げられたからである。そして、あたかも聖シャーベルの霊性に人々の注意を喚起するために、神は彼の名を大雨のようにおびただしい奇跡でもって印づけたかのようである。
若き日
聖シャーベルは1828年5月8日、レバノンの小さな村、ベッカ・カフラで、熱心なマロン派キリスト教徒の両親の家に生まれた。古い平屋根の石造りの家々が、まるで崖にかけられた鳥の巣のようにファム・エル・メイザブの山々の高地に建っている。そういう村である。トリポリの東、約15マイル、近くには世に名高いレバノンの杉の森がある。海抜は5000フィートで中東では最も高い。荒れた花崗岩の山々で周囲から遮られ、その隙間に幾筋かの川と石ばかりの谷がある。そこでわずかな数の不屈の農民たちが数頭ばかりの牛を飼い、やせた土地に葡萄とオリーブを裁培するために苦闘している。恐ろしく暑い夏の後にはひどく寒い冬が続き、人々の陽に焼けた顔はこの土地の厳しい気候をさながらに体現している。
シャーベルの生まれた日、13マイルほど南のアナヤの聖マロ大修道院が正式に発足した。彼の名は、つねにこの修道院の名と共に思い起こされることであろう。聖人はヨゼフという洗礼名を授けられ、ほとんど修道院のような環境の特別に敬虔な家庭で育てられた。信仰は家庭に深く根を下ろし、(シャーベルには兄と姉が二人ずついた)日常生活の生きた一部分となり、夕ベのロザリオはその焦点であった。彼の母がロザリオを手放すことはめったになかった。彼女は厳格に断食し、夜には一人彼女の部屋で天に手を挙げて祈っていた。
ヨゼフが三歳の時、国はエジプトに侵攻され、彼の父はその土地の他の多くの住民たちと同じく軍に徴兵された。彼は戦闘を生き延びたが、帰還の途上、病気で死んだ。その結果、ヨゼフは彼の叔父のタイノスの庇護のもとに育てられることになった。彼は読み書きを学び、ミサに与り、村の教会の聖歌隊で歌った。彼は背が高く、贅肉のない筋肉質の強健な体に格別な信仰と熱意に満ちた気質の優しい少年に育った。牧童として働き、十四歳の時には、神を求める熱意から、祈りと黙想に時を過ごすための洞窟を探し求めた。またヨゼフは叔父の何人かがそこで修道士をしている近くのコザヤの隠者の庵をしばしば訪れ、彼らの生活について学び、彼らの勧告に耳を傾けた。
神を求める憧れが非常に強いものであったので、二十三歳の時、彼は全てを離れて修道院に入ることを決心した。1851年のある日の早朝、彼は何も言わずに家を抜け出した。骨のおれるいくつもの山越えの後、マイフォークの聖母のマロン派修道院に辿りついた。そこで彼の修道生活は始まったのである。
修道士
マロン派の修道院は4世紀に聖マロによってその基礎を据えられた。そして、1695年にそれまで分立していたレバノンの諸修道院は、一つの会則と総会長のもとに統一された。修道会は1732年、教皇クレメンス十二世によって承認された。修道院での生活を始めるにあたって、ヨゼフはシャーベルと改名した。彼が敬愛する二世紀のアンティオキア教会の殉教者の名である。数週間後、息子の突然の出奔に当惑した母と叔父が彼を連れ戻しにやって来た。しかし、シャーベルは彼の召命が真実であることを彼らに説き、納得させた。信仰篤い母は末子を神に捧げることを心から喜んだ。
修練士シャーベルは厳しい肉体的・霊的試練に耐えた。樵、繕い物、機織り、料理、畑仕事といった仕事に加えて、彼は聖務日課を日に七回唱えなければならなかった。夜中には祈りのために起き、他にも種々の信心業を行ない、長時間勉強した。しかし、彼の神に対する深い愛が彼を導き、彼は勤勉と謙遜と愛徳における類まれなる模範となった。
一年後、彼は修練期を終えるために20マイルほど南のアナヤにある聖マロの要塞のごとき大修道院に送られた。ここで彼の日常生活は更に厳格になった。シャーベル修練士は格別に厳しい日課に耐え、1853年、彼は終身誓願をして修道士となった。ミサにおいて彼は衆目の集まる中、次のように厳かに宣誓した。「私、シャーベル修道士は、わが最も敬愛する総会長様のお立ち合いのもとに、全能の神に誓います。われわれの会則と習慣に従って、死に至るまで、従順、貞潔、清貧を守ります。」
間もなく彼はクフィファンの聖キプリアヌス修道院に送られ、そこで数年の間、叙階に備えて神学、哲学、聖書解釈を学んだ。聖なるハルディー二神父(彼の列福調査の申請がローマになされている。)の指導のもとに、シャーベルは祭司職の崇高なる神秘について長く深く瞑想した - 大祭司イエズス・キリストが人類を贖うため、カルワリオの丘の上でただ一度限り彼の命を御父なる神に献げたこと、そして最後の晩餐において、「これを私の記念として行ないなさい。」と使徒に命じられたことを。祭司職の深遠さが彼を飲み込み、1859年の叙階の時、彼は残りの人生を、日々のミサの言語を絶する神秘の中に生きることを沈黙のうちに誓ったのである。
司祭
アナヤに戻り、シャーベル神父は彼の魂の全てを神へと向け、ミサの犠牲を通して神と一致するために努力した。日々の長い祈り、沈黙、苦行、会則と誓願への忠誠はそのための助けであった。その顕著な例につき、当時の彼の上長であったネーメ神父の証言がある。シャーベルがある日、他の修道士たちと共に葡萄畑で働いていた時のことである。
「夕闇おし迫る頃、私は彼らの様子を見に行った。畑に着いてみると、シャーベル神父が葡萄畑の側で穴を掘っていたが、そこは他の修道士たちには見えないのであった。彼は食ベるように人に言われた時しか食ベようとしないのを私は知っていたので、私は彼に尋ねた。「神父、君は食事をしたのか?」彼は答えた。「いいえ。皆はまだ私を呼んでおりません。」 実のところ、シャーベルが食事もせずに畑の隅で黙々と働いていたことに他の修道士は全く気づいていなかった。彼は三十時間も断食をしていたのである。彼は日に一度しか食事をとらなかったから。私は修道院に人を遣って、彼の食ベるものを持って来させた。」
更に顕著なエピソードは、修道士たちが石灰を焼く窯に火をつけようとしていた時のものである。修道士の一人がシャーベルに冗談のつもりで言った。「これ以上の燃料が何もないから、みんなで君を窯に入れて燃やすことにしたよ。」シャーベルはすぐに跪いて祈り始めた。「神よ、この命令に従うための強さを私にくださいますように。」彼の同僚たちは狼狽し、恥じいり、彼に赦しを願った。
シャーベルの謙遜と純潔と清貧は、ほとんど信じ難い域にまで達していた。彼はフードを目深に被っていたので、修道院生活の間、人の顔を一度も見たことがなかった、と彼の同僚の一人は後に証言している。季節ごとの気候の変化の激しさにもかかわらず、彼はいつも同じ粗末な服で通し、残飯を彼の食事とし、金はミサの依頼として差し出されるものさえ見向きもしようとしなかった。
祈りに関してはアブラハム神父の証言がある。「シャーベルは敬虔と聖性において崇高な域に達していた。彼はいつも神、諸天使、諸聖人と交流していた。彼は夜のほとんどを祈りのうちに過ごし、彼の立てるミサは主の受難の大いなる回想のうちに執り行われた。非常に頭が良く、神学において卓越していたけれども、人には単純で無学な男だと思わせておいた。起床後に彼はいつも聖堂に行き、そこで五時間ほとんど跪いたままで聖櫃を見つめて、あるいは頭を下げて祈り、ため息をつき、長い観想のうちにひたっていた。」 ジャワド修道士は次のようにつけ加える。「彼はいつも忘我の境地にあり、観想し神のことばかりを考えていたので、彼の心、魂、思考が神にひたりきっていることを証明するには、彼を一目見るだけで十分だった。」
聖母への崇敬
マロン派の人々は神の母に対する特別な崇敬を抱いており、彼らの教会と修道院のほとんどは聖母に献げられている。シャーベルもまたこの伝統の中の典型であり、日に三環のロザリオを祈り、聖務日課において絶えず聖母に祈っていた。ミサの後、彼は次のような美しい祈りを唱えることを許されていた。「おお、われらの主イエズス・キリストの御母よ、わがために御子にとりなし給え。神よ、わが罪を赦し、わが惨めにして罪深き手から、この祭壇において捧げられる犠牲を嘉納し給わんことを。われは御身の祈りに信頼し奉る。おお至聖なるマリアよ。」
彼に相談しに来る人々に対して、シャーベルはいつもキリストとより深く一致する手段としての神の母への崇敬の重要性を強調した。ベッカ・カフラから何人かの訪問者が彼の祝福を求めてやって来た時、彼は熱意を込めて次のように語った。「救われたいと心から願っていますか。乙女マリアに対する大いなる崇敬を持ちなさい。彼女はあなたの救いを保証してくださるでしょう。」
シャーベル神父の格別な聖性に対する評判は、アナヤの灰色の壁を越えて広まった。彼は奇跡の人、告白において霊魂を見通す人、他界との親しき交流のうちに生きる人と評された。当時、彼に帰せられた多くの奇跡のうちには、狂人の治癒や、聖水を撒いて修道院の畑をいなごの大群から護ったり、同僚の修道士を噛もうとした毒蛇を手なづけたりといったことがあった。アナヤのシメオン神父は彼を次のように描写する。「背が高く、頑強でやせていた。顔は苦行のため青白く、フードはいつも目のところまで下ろしていた。うつむいて穏やかな物腰で、深く考え、沈黙し、生真面目で優しく、謙遜なことはまるで鳩のようだった。彼が祈っているのを見た人はその光景に打たれ、彼の模範によって啓発された。」
隠者
年を経るにつれてシャーベルは日々のミサにより完全に没頭することができるように、完全な孤独の生活を強く望むようになった。聖ペトロと聖パウロに捧げられた隠者の庵が一つ修道院に属していた。そこには一人の年老いた修道士が住んでいた。シャーベルはしばしば彼のもとを訪れ、ミサを手伝い、隠者の生活について学んだ。1875年に隠者が死んだ時、シャーベルはその庵を引き継ぐことを願い出た。
小さな円筒形の石造りの家は想像もつかないほどわびしく、暖房も窓も、家具も寝床すらもなかった。氷点下の外気は容赦なく浸み渡った。食事は日に一度、修道院から届けられた。この険悪な環境でシャーベルは一日中ミサを準備し、ミサを祝い、神に感謝して過ごした。アナヤの修道院の現在の上長であるパウロ・ダハー神父は次のように言う。「カルワリオにおけるドラマを世に輝かせるために、神が彼をこの山に連れて来たのだということを、シャーベルは知っていました。」
毎日、夜明け前に彼は枯れ葉の寝床から起き、氷のように冷たい石の床に跪き、ミサの準備のための長い祈りを始めた。凍りつく息が香の煙のように立ち昇り、彼の差し伸べられた腕と、聖櫃へ向けて祈りを唱える震える唇は神への深き崇拝と愛を示していた。
十一時になってやっと彼は犠牲を祝う準備を終える。彼は恭しく祭壇に近づき、大いなる敬意を込めて準備の祈りを主の用いられたアラム語でゆっくりと唱え始める。カノンが近づくにつれて、彼の様子はまるで神の玉座の側に侍る天使のような観を呈する。畏敬のあまり彼の声は震え、恭しく頭を下げ跪く。奉献の時、彼は息詰まるような崇拝のうちに聖体を奉挙する。
ミサの後シャーベルはすぐに感謝を献げ始める。夕方になるまで彼はずっと聖櫃の前に跪き、愛の秘蹟にして憐れみの契約であるミサにおけるカルワリオにおいて、神秘的に命を献げられたキリストの無限の愛に対し、至聖なる三位一体に感謝を献げる。観想においてシャーベルは十字架上のキリストの広げられた腕に目を注ぎ、滅びへとひた走る罪人を立ち止まらせ、放蕩息子の父親のように彼らを抱擁せんとする主の姿をそこに見出した。日が暮れても彼の感謝は続けられた。紫色に染まる山々の彼方に日が沈み、夜気が次第に冷たくなって、ついに寒さに凍え、疲れ果てたシャーベルは枯れ葉の寝床に身を横たえ、数時聞の休息をとるのであった。
聖人
この日課は二十三年もの間続けられた。庵が雪に閉ざされ、シャーベルの痩せた体が骨の髄まで凍えた時にもそれは変わらなかった。ついに1898年12月16日、聖体奉挙のとき、彼は突然祭壇に倒れた。そのとき一緒にいたマカリウス神父は、隠者の固くなった指から聖体を取りはずすのに非常に苦労した。シャーベルはチャペルから居室に運び込まれ、体は麻痺していた。枯れ葉の寝床に喘ぎながら横たわる彼は、崇高な祈りを終わりまで唱えようとした。「おお、真理の父よ、御子を御覧ください。これはあなたをお喜ばせする献げものであります。御子は、われらのために苦しまれたが故に、これを受け入れてください。この献げものを、それに価せぬわが手からお受けください。これをあなたがお喜びになり、これによって偉大なるあなたの御前で私が犯した罪をあなたが忘れてくださいますように。」「これはわれらの救いのためにゴルゴダで流された御子の御血であります。御子は私の代わりに叫んでくださいます。彼の功徳を思い、この献げものをお受けください。私の罪はかくも多い、しかし、あなたの憐れみは溢れるばかりであります。二つを秤にかければ、あなたの憐れみの方が山のように遙かに重いことでありましょう。」「罪を思い給え。しかしまた同時にその償いのために献げられる犠牲をも顧み給え。犠牲は罪を遙かに上回っております。私が罪を犯したが故に、あなたの愛する御子は釘と槍の苦しみを忍ばれました。そして、その苦しみはあなたを満足させ、私に命を与えるに十分であります。」
八日間、シャーベルは神秘的苦悶のうちに耐えた。そして周囲に跪いて彼を見守る人々は、彼がカルワリオにおける主の受難の継続を経験しつつあるのだということを信じて疑わなかった。修道士たちは彼にスープを持って来ようと申し出たが彼は断わった。それは彼が死期を悟り、全てを神に委ねたことの印であった。祭壇上で中断せざるをえなかった祈りを、彼は何度も何度も繰り返し祈り続けた。「おお、真理の父よ、御子を御覧ください。これはあなたをお喜ばせする献げものであります…」
クリスマスの前夜に、イエズス、マリア、ヨゼフ、ペトロ、パウロの名を呼びながら、彼は息を引き取った。
埋葬
クリスマスの午後、吹雪の中、葬式が執り行われた。そのあまりの寒さに一人の修道士が次のような言葉をもらした。「この厳しい寒さにわれわれはとても耐えられない。この神父は、一体どうやって二十三年もの間、一日中、像のように聖櫃の前に跪いて生きてきたのだろう?」 葬儀ミサの後、遺体は習慣に従って棺なしで修道院の側の墓地に埋葬された。しかしその後、多くの村人がシャーベル神父の墓の上に白熱した光が漂っているのを目撃した。ある修道士たちは葬式の前夜、聖櫃から光がさしてシャーベル神父の体を照らし続けていたと証言した。
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