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4-13-5 安祿山

2023-03-03 13:49:57 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
13 開元と天宝
5 安祿山

 さしもの李林甫も、その全盛期をすぎると、それまで手先になっていた者も、ようやく林甫を排撃しようとする動きを見せはじめる。
 その機に乗じて、国忠は勢力をひろげていった。
 また李林甫は、節度使をバックにすることはなかったが、国忠はいち早く、蜀の地方におかれた剣南節度使をバックにしており、その点が有利であった。
 天宝十一載(七五二)に李林甫が死去すると、そのあとをうけて国忠が宰相になった。
 すると国忠は、ただちに李林甫を誣告し、これを安祿山に証言させた。
 そのため李林甫は棺をあばかれ、金紫の衣をはがれて小棺にうつされ、すべての官爵と財産を没収された。
 さて安祿山の父はツグド人、母はトルコ人であった。
 こういう混血人を、そのころは雑胡(ざつこ)とよんでいた。
 祿山は、はじめの名を軋犖山(あつろくざん)という。
 それはソグド語で光のことであり、中国ふうにかえて祿山といったのである。
 安の姓は、ソグド人につけられるものである。
 そうして祿山は六種類の言語を解し、はじめは国境の役所で通訳のような仕事をしていた。
 そのうちに、いまの北京の近くにあった幽州(のちの范陽)節度使につかえ、しだいに昇進して、天宝元年(七四二)には平盧(へいろ)節度使(遼寧省の朝陽)となり、ついで范陽節度使を兼ねた。
 節度使というのは、府兵制が崩壊してからのち、辺境を警備するために置かれた軍団の司令官である。
 玄宗の時代には辺境の要地に十節度使が置かれていた。また藩鎮(はんちん)ともいう。
 これらの節度使は、その地方における軍政と民政の両権をにぎり、やがては独立国のように発展して唐の中央政権をおびやかした。
 そして節度使には、李林甫の献策にもとづいて、外民族出身の蛮将や、漢人では家柄のひくい者を用いることになったわけである。
 安祿山は肥大漢であった。体重は三百三十斤(約二〇〇キロ)もあり、腹は膝の下までたれていた。
 玄宗が、その腹のなかに何があるかとたずねると、「ただ赤心(まごころ)だけでございます」と答えた。
 また楊貴妃の義児になり、祿山が玄宗に謁見するときに、祿山はまず貴妃に先に礼し、「蛮人は母を先にし、父を後にいたします」といって歓心をかったという。
 がんらい祿山は天真爛漫で、ウイットに富み、ひとに好かれる一面があったのであろう。
 天宝十載(七五一)、祿山は平盧・范陽節度使のほか、さらに河東節度使(山西省の陽曲)となり、三節度使を兼ねることとなった。
 翌年には、にがての李林甫が死去し、かわって楊国忠が宰相となった。
 もともと祿山は、李林甫と楊国忠とが対立する間隙に乗じて、玄宗に近づいたのであったが、これからは国忠との対立へと進展してゆく。
 天宝十三載(七五四)、安祿山は上京した。玄宗は祿山を宰相に任命しようとしていた。
 しかし楊国忠が反対して、中止となった。
 祿山は軍功はあっても、目に書を知らず、宰相のうつわではない、というのである。
 このころになると首都の形勢はスパイ網によって、祿山には手にとるように探知されている。
 朝廷の大官のなかにも、着々と勢力を扶植していたのである。
 それが、いまや楊国忠の挑戦によって、野望もほとんど打ちひしがれてしまったと考えた。
 安祿山がついに反旗をひるがえした直接の原因は、この楊国忠との対立にあった、と見るべきであろう。
 天宝十四載(七五五)十一月、安祿山は、楊国忠を討つと称して范陽(北京)で兵をあげた。
 祿山がわの兵はおよそ十五万、渓(けい=鮮卑系)・契丹(モンゴル系)・同羅(トルコ系)などの部族が、その中核をなしていた。
 ときに唐朝は太平になれ、戦争を知らない。府兵制もくずれ、それにかわった募兵も用をなさない。
 禄山の軍は破竹のいきおいで迎撃した。途中の州県は風をのぞんで瓦解した。
 それでも玄宗は、なお祿山の反乱を信じない。
 楊国忠は得々(とくとく)として、十日もたたないうちに祿山の首が首都に伝えられるであろう、と公言するありさまであった。


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