ポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教『救われる人の数の少なさ』4
◆7、あなたはそのようなことを考えるとゾッとするのでしょうか
よろしい、それではあなた自身をイエズス・キリストの御足の許に投げて、涙に濡れた目と悔悛した心をもって主にこう申し上げて下さい、「主よ、私は、自分が今までキリスト教徒として相応しく生きてこなかったことを認めます。私はあなたの選びの中に数えられるに値しない者です。私は自分が滅ぼされるに値すると認めます。
しかし、あなたの御憐れみは偉大です。それで、私はあなたの恵みに全く信頼して、あなたにこう申し上げます。私は、私の霊魂が救われる限り、たとえ富、名誉、そして肉体の生命そのものさえも犠牲にしなければならないとしても、私の霊魂を救いたいのです。もし、私が今まで忠実でなかったとしても、私は後悔し、悲しみ、自分の不義を心から憎み、あなたに私を赦して下さるよう、伏してお願い申し上げます。善きお方、イエズス、私をお赦し下さい。そして、私が救われるよう、私を強めて下さい。私はあなたに、富も、名誉も、繁栄も求めません。私はあなたにただ一つのことだけ、私の霊魂が救われることだけを求めます」。
そして、あなた、おお、イエズス! あなたは何とおっしゃいますか? おお、善き牧者よ、迷っていた羊があなたのもとに戻るのをご覧下さい。この後悔している罪人を抱きしめ、彼の吐息と涙を祝福して下さい。あるいはむしろ、とても良い心構えを持った、霊魂の救済だけを望むこれらの人達を祝福して下さい。兄弟の皆さん、主の御足の許で、私達は是非とも私達の霊魂を救いたいのだとはっきりと申し上げましょう。私達全員で、主に、涙と共に申し上げましょう、「善きお方、イエズス、私は私の霊魂を救いたいのです」と。おお、幸いなる涙、幸いなる吐息よ!
兄弟の皆さん、私は今日、あなた方を慰められた状態にした上で帰したいと思います。それ故、もしあなたが、救われる人の数に関する私自身の考えを尋ねるなら、私はこう答えます。救われる人が多いか少ないかに関わりなく、私は、救われたいと望む人は誰でも救われるだろう、また、滅ぼされることを自ら望まぬ限り誰一人滅ぼされることはできない、と言います。そして、もし救われる人は少ないというのが本当だったとしても、それは良い生き方をする人が少ないからです。
もう少し言うとすれば、次の二つの意見を比較してください。第一の意見は、とても多くのカトリック信者が滅ぼされる、というものです。第二の意見は、それとは反対に、多くのカトリック信者は救われる、と見せかけようとするものです。
次のように想像して下さい。第一の意見の正しさを保証するために一位の天使が神によってあなたのところに送られて来て、あなたに「カトリック信者のほとんどが滅ぼされるとは限りません。しかしこの集会に参加している全員の中からは、たった一人が救われるだけでしょう」と言ったと。しかし、たとえそうであったとしても、もしあなたが神の掟に従うならば、もしあなたがこの世の腐敗を心から軽蔑するならば、もしあなたが償いの気持ちをもってイエズス・キリストの十字架を抱きしめるならば、あなたはここで救われるたった一人の人になることでしょう。
さて、今度は次のように想像して下さい。その同じ天使があなたのところに戻って来て、第二の意見の正しさを保証するために、あなたに「カトリック信者の多くの人が救われるとは限りません。しかしこの集会に参加している全員の中からはたった一人が滅ぼされるだけであり、他の人達は全て救われるでしょう」と言ったと。しかし、たとえそうであったとしても、もしこれを聞いた後で、あなたが不法な高利貸し、復讐、犯罪行為、不純な行為などを続けるなら、あなたはこの集会で滅ぼされるたった一人の人になることでしょう。
それでは、救われる人の数が多いか少ないかを見定めようとすることの有益性とは何でしょうか? 聖ペトロは私達に言っています、「あなたの選ばれを確かなものにするために、善い行ないをするよう努力しなさい」[ペトロの第二の手紙 1:10] 。聖トマス・アクィナスの姉妹が彼に、彼女はどうしたら天国に行けるのか、と尋ねた時、彼は言いました、「あなたが救われることを望めば、あなたは救われます」と。私は同じことをあなたに言います。
そして私のこの断言の立証はこうです。誰も大罪を犯さない限り滅ぼされることはありません。これは信仰箇条です。そして、誰も自分からそれを望まない限り、大罪を犯しません。これは否定できない神学の定理です。それ故、誰もそれを望まない限り、地獄に行くことはありません。結論はこのように明らかです。これはあなたを慰めるために十分なことではありませんか? どうか過去の罪を泣いて、そして良い告解をして、将来これ以上罪を犯さないで下さい。そうすれば、あなた方全員が救われます。何故そのようにひどく悩んでいるのですか? あなたが地獄に行くためには大罪を犯さなければならない、というのは確かなのです。そして、大罪を犯すためにはあなたがそうすることを望まなければならない、というのも確かなのです。ですから、必然的に、自分でそう望むことなしには地獄に行くことはできない、というのは確かなことなのです。これは一つの意見であるというだけではありません。否定することのできない非常に慰めとなる真理なのです。神がこのことをあなたに理解させて下さいますように。主があなたを祝福されますように。アーメン。
霊魂の識別についての第一の規則として、聖イグナチオは、罪人を安心させようとするのが悪魔に特有のことである、と言っています 。従って、私達は常に説教をしなければならず、神の無限の赦しと御憐れみに対する信頼と望みの義務を人々の中に起こさなければなりません。何故なら、回心は容易であり、主の御恩寵は全能を有しているからです。しかし私達はまた、「神を侮ってはならない」[ガラツィア人への手紙 6:7] ということ、及び、大罪の状態の中に習慣的に生きている人は永遠の滅びへの途上にいる、ということをも思い出さなければなりません。
土壇場で奇跡が起こることもないとは言えません。しかし、私達が奇跡が物事の一般的な進行形態であると主張するのでない限り、私達は、大罪の状態にある大多数の人々のために、人が最後の土壇場で悔い改めに至ることは最も可能性の低いことである、ということに同意しなければならないのです。
◆、編者の言葉
ポルト・マウリチオの聖レオナルドのあげる論拠は私達ににとって説得力のあるものです。それは聞くに値します。それは1948年12月4日においてカリアリで持たれたイタリア共産党の指導者であるベリオ・スパーノとの公開討論におけるロンバルディ神父の考察を、雄弁且つ明快に説明するものです。「あなたがそのように続けるならばあなたは地獄に落とされる他はないと考えて、私はゾッとします」と、ロンバルディ神父はマルクス主義者スパーノに言いました。スパーノは答えました、「私は地獄など信じません」。するとロンバルディ神父は答えました、「正確に言って、あなたがそのように続けるならば、あなたは有罪を宣告されるでしょう」。何故ならば、人は有罪宣告を避けるためには地獄の存在を信じなければならないからです。
私達はロンバルディ神父の答えを一般化することができるでしょう。おそらくそれは、正確に言えば、ポルト・マウリチオの聖レオナルドのようなやり方でなされる説教というものは私達の現代生活に適応された時にもどれほど大きな司牧的卓越性を持つものであるか、ということを人々に深く理解させるところの超自然的な信仰が失われているということです。とにかくそれは私達の時代がこの有名な説教者の時代よりも道徳的に優れているという証拠ではありません。ピー枢機卿の次のような非難が当てはまるような状況が私達にとってより良いものであるなどということは全くもってありません。「私は、至る所で思慮分別を見ます。間もなく私達はどこにも勇気を見ることができなくなるでしょう。しかし、どうぞご安心を。もし私達がこのまま続けるなら、私達は知恵の攻撃によって死ぬでしょう」。しかし、そのようなものは確かに神の知恵ではありません。何故なら、世俗的で世間的な思慮分別だけが無益な知識を立ち上げるのであり、それはポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教を侮るからです。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの教えは、今まで無数の霊魂達を救って来ましたし、また時の終わりに向けてこれからも救い続けるでしょう。聖務日課の6時課の祈りの中に、聖レオナルドの天国的な雄弁について教会が語っている言葉があります。「彼の説教を聞くと直ぐに、鉄と真鍮でできた心でさえも強力に己が罪を償うことを望み始めるのだった。それはその説教の驚くべき効果と説教者の燃える熱意のためである。」そして、私達が神を求める典礼の祈りの中には「説教の仕事によって頑なな罪人達の心を屈めさせる力をお与え下さい」とあります。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドのこの説教は、その宣教者を心から愛した教皇ベネディクト14世の在位中に行なわれました。
(感想)
この説教が正しいのか、そうでないのか、正直なところ、私にもよくわかりません。やや、厳しすぎる感じもします。しかし、こんな説教もかつて存在した、ということは知っておく価値のある話ですし、考える価値のあるテーマだと思います。2-3年、よく考えれば、答えが出るかもしれません。一方で、ファチマの聖母が「この戦争で死ぬ人の殆どが地獄に堕ちる」と聖ジャシンタに予言したのは、不気味な話ではあります。ファチマの聖母や7歳の聖人、聖ジャシンタが嘘をつくとは、考えにくいからです。
この説教が間違いであれば幸い、仮に万一正しくても、決して滅びることのないような正しい生き方をするのが、イエズス様の仰られた「狭き門から入る」ことなのだろうと、私は思います。
(追記)
この聖レオナルドの33000人や60000人という数字は、当時の幼児死亡率を考えると、容易に否定することはできます。当時は、幼児の死亡率は極めて高く、死者のうちの大部分が乳児か幼児であったはずだからです。死者のうちの大部分が乳児か幼児なのに、それが5人を除いて全員地獄落ちなどあり得るか・・・と考えると、この説教の一部分を容易に否定することができます。
しかし、聖ジャシンタや福者アンナ・マリア・タイギの話も不気味であり、聖ヴィアンネ等、他の聖人の似たような説教も考え合わせると、それでも、空恐ろしくは感じます。この世が、悪人だらけなことを考えると、10人に9人くらいは、もしかしたら本当に地獄に行っているかもしれません。そうなっても、自分は滅びないように、今からでも正しい生き方をしていきましょう。
◆7、あなたはそのようなことを考えるとゾッとするのでしょうか
よろしい、それではあなた自身をイエズス・キリストの御足の許に投げて、涙に濡れた目と悔悛した心をもって主にこう申し上げて下さい、「主よ、私は、自分が今までキリスト教徒として相応しく生きてこなかったことを認めます。私はあなたの選びの中に数えられるに値しない者です。私は自分が滅ぼされるに値すると認めます。
しかし、あなたの御憐れみは偉大です。それで、私はあなたの恵みに全く信頼して、あなたにこう申し上げます。私は、私の霊魂が救われる限り、たとえ富、名誉、そして肉体の生命そのものさえも犠牲にしなければならないとしても、私の霊魂を救いたいのです。もし、私が今まで忠実でなかったとしても、私は後悔し、悲しみ、自分の不義を心から憎み、あなたに私を赦して下さるよう、伏してお願い申し上げます。善きお方、イエズス、私をお赦し下さい。そして、私が救われるよう、私を強めて下さい。私はあなたに、富も、名誉も、繁栄も求めません。私はあなたにただ一つのことだけ、私の霊魂が救われることだけを求めます」。
そして、あなた、おお、イエズス! あなたは何とおっしゃいますか? おお、善き牧者よ、迷っていた羊があなたのもとに戻るのをご覧下さい。この後悔している罪人を抱きしめ、彼の吐息と涙を祝福して下さい。あるいはむしろ、とても良い心構えを持った、霊魂の救済だけを望むこれらの人達を祝福して下さい。兄弟の皆さん、主の御足の許で、私達は是非とも私達の霊魂を救いたいのだとはっきりと申し上げましょう。私達全員で、主に、涙と共に申し上げましょう、「善きお方、イエズス、私は私の霊魂を救いたいのです」と。おお、幸いなる涙、幸いなる吐息よ!
兄弟の皆さん、私は今日、あなた方を慰められた状態にした上で帰したいと思います。それ故、もしあなたが、救われる人の数に関する私自身の考えを尋ねるなら、私はこう答えます。救われる人が多いか少ないかに関わりなく、私は、救われたいと望む人は誰でも救われるだろう、また、滅ぼされることを自ら望まぬ限り誰一人滅ぼされることはできない、と言います。そして、もし救われる人は少ないというのが本当だったとしても、それは良い生き方をする人が少ないからです。
もう少し言うとすれば、次の二つの意見を比較してください。第一の意見は、とても多くのカトリック信者が滅ぼされる、というものです。第二の意見は、それとは反対に、多くのカトリック信者は救われる、と見せかけようとするものです。
次のように想像して下さい。第一の意見の正しさを保証するために一位の天使が神によってあなたのところに送られて来て、あなたに「カトリック信者のほとんどが滅ぼされるとは限りません。しかしこの集会に参加している全員の中からは、たった一人が救われるだけでしょう」と言ったと。しかし、たとえそうであったとしても、もしあなたが神の掟に従うならば、もしあなたがこの世の腐敗を心から軽蔑するならば、もしあなたが償いの気持ちをもってイエズス・キリストの十字架を抱きしめるならば、あなたはここで救われるたった一人の人になることでしょう。
さて、今度は次のように想像して下さい。その同じ天使があなたのところに戻って来て、第二の意見の正しさを保証するために、あなたに「カトリック信者の多くの人が救われるとは限りません。しかしこの集会に参加している全員の中からはたった一人が滅ぼされるだけであり、他の人達は全て救われるでしょう」と言ったと。しかし、たとえそうであったとしても、もしこれを聞いた後で、あなたが不法な高利貸し、復讐、犯罪行為、不純な行為などを続けるなら、あなたはこの集会で滅ぼされるたった一人の人になることでしょう。
それでは、救われる人の数が多いか少ないかを見定めようとすることの有益性とは何でしょうか? 聖ペトロは私達に言っています、「あなたの選ばれを確かなものにするために、善い行ないをするよう努力しなさい」[ペトロの第二の手紙 1:10] 。聖トマス・アクィナスの姉妹が彼に、彼女はどうしたら天国に行けるのか、と尋ねた時、彼は言いました、「あなたが救われることを望めば、あなたは救われます」と。私は同じことをあなたに言います。
そして私のこの断言の立証はこうです。誰も大罪を犯さない限り滅ぼされることはありません。これは信仰箇条です。そして、誰も自分からそれを望まない限り、大罪を犯しません。これは否定できない神学の定理です。それ故、誰もそれを望まない限り、地獄に行くことはありません。結論はこのように明らかです。これはあなたを慰めるために十分なことではありませんか? どうか過去の罪を泣いて、そして良い告解をして、将来これ以上罪を犯さないで下さい。そうすれば、あなた方全員が救われます。何故そのようにひどく悩んでいるのですか? あなたが地獄に行くためには大罪を犯さなければならない、というのは確かなのです。そして、大罪を犯すためにはあなたがそうすることを望まなければならない、というのも確かなのです。ですから、必然的に、自分でそう望むことなしには地獄に行くことはできない、というのは確かなことなのです。これは一つの意見であるというだけではありません。否定することのできない非常に慰めとなる真理なのです。神がこのことをあなたに理解させて下さいますように。主があなたを祝福されますように。アーメン。
霊魂の識別についての第一の規則として、聖イグナチオは、罪人を安心させようとするのが悪魔に特有のことである、と言っています 。従って、私達は常に説教をしなければならず、神の無限の赦しと御憐れみに対する信頼と望みの義務を人々の中に起こさなければなりません。何故なら、回心は容易であり、主の御恩寵は全能を有しているからです。しかし私達はまた、「神を侮ってはならない」[ガラツィア人への手紙 6:7] ということ、及び、大罪の状態の中に習慣的に生きている人は永遠の滅びへの途上にいる、ということをも思い出さなければなりません。
土壇場で奇跡が起こることもないとは言えません。しかし、私達が奇跡が物事の一般的な進行形態であると主張するのでない限り、私達は、大罪の状態にある大多数の人々のために、人が最後の土壇場で悔い改めに至ることは最も可能性の低いことである、ということに同意しなければならないのです。
◆、編者の言葉
ポルト・マウリチオの聖レオナルドのあげる論拠は私達ににとって説得力のあるものです。それは聞くに値します。それは1948年12月4日においてカリアリで持たれたイタリア共産党の指導者であるベリオ・スパーノとの公開討論におけるロンバルディ神父の考察を、雄弁且つ明快に説明するものです。「あなたがそのように続けるならばあなたは地獄に落とされる他はないと考えて、私はゾッとします」と、ロンバルディ神父はマルクス主義者スパーノに言いました。スパーノは答えました、「私は地獄など信じません」。するとロンバルディ神父は答えました、「正確に言って、あなたがそのように続けるならば、あなたは有罪を宣告されるでしょう」。何故ならば、人は有罪宣告を避けるためには地獄の存在を信じなければならないからです。
私達はロンバルディ神父の答えを一般化することができるでしょう。おそらくそれは、正確に言えば、ポルト・マウリチオの聖レオナルドのようなやり方でなされる説教というものは私達の現代生活に適応された時にもどれほど大きな司牧的卓越性を持つものであるか、ということを人々に深く理解させるところの超自然的な信仰が失われているということです。とにかくそれは私達の時代がこの有名な説教者の時代よりも道徳的に優れているという証拠ではありません。ピー枢機卿の次のような非難が当てはまるような状況が私達にとってより良いものであるなどということは全くもってありません。「私は、至る所で思慮分別を見ます。間もなく私達はどこにも勇気を見ることができなくなるでしょう。しかし、どうぞご安心を。もし私達がこのまま続けるなら、私達は知恵の攻撃によって死ぬでしょう」。しかし、そのようなものは確かに神の知恵ではありません。何故なら、世俗的で世間的な思慮分別だけが無益な知識を立ち上げるのであり、それはポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教を侮るからです。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの教えは、今まで無数の霊魂達を救って来ましたし、また時の終わりに向けてこれからも救い続けるでしょう。聖務日課の6時課の祈りの中に、聖レオナルドの天国的な雄弁について教会が語っている言葉があります。「彼の説教を聞くと直ぐに、鉄と真鍮でできた心でさえも強力に己が罪を償うことを望み始めるのだった。それはその説教の驚くべき効果と説教者の燃える熱意のためである。」そして、私達が神を求める典礼の祈りの中には「説教の仕事によって頑なな罪人達の心を屈めさせる力をお与え下さい」とあります。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドのこの説教は、その宣教者を心から愛した教皇ベネディクト14世の在位中に行なわれました。
(感想)
この説教が正しいのか、そうでないのか、正直なところ、私にもよくわかりません。やや、厳しすぎる感じもします。しかし、こんな説教もかつて存在した、ということは知っておく価値のある話ですし、考える価値のあるテーマだと思います。2-3年、よく考えれば、答えが出るかもしれません。一方で、ファチマの聖母が「この戦争で死ぬ人の殆どが地獄に堕ちる」と聖ジャシンタに予言したのは、不気味な話ではあります。ファチマの聖母や7歳の聖人、聖ジャシンタが嘘をつくとは、考えにくいからです。
この説教が間違いであれば幸い、仮に万一正しくても、決して滅びることのないような正しい生き方をするのが、イエズス様の仰られた「狭き門から入る」ことなのだろうと、私は思います。
(追記)
この聖レオナルドの33000人や60000人という数字は、当時の幼児死亡率を考えると、容易に否定することはできます。当時は、幼児の死亡率は極めて高く、死者のうちの大部分が乳児か幼児であったはずだからです。死者のうちの大部分が乳児か幼児なのに、それが5人を除いて全員地獄落ちなどあり得るか・・・と考えると、この説教の一部分を容易に否定することができます。
しかし、聖ジャシンタや福者アンナ・マリア・タイギの話も不気味であり、聖ヴィアンネ等、他の聖人の似たような説教も考え合わせると、それでも、空恐ろしくは感じます。この世が、悪人だらけなことを考えると、10人に9人くらいは、もしかしたら本当に地獄に行っているかもしれません。そうなっても、自分は滅びないように、今からでも正しい生き方をしていきましょう。