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9-8-1 理性の光明

2024-07-23 05:44:09 | 格言・みことば


(挿絵はフリーメーソンの紋章。1980年ごろまで、教会はカトリック信者がこの結社に入ることを禁じていた。)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
1 理性の光明

 啓蒙思想とは、十七世紀、とくに十八世紀に発展した合理主義、自由主義、進歩主義的な思想の総称である。
 個々の面をみると、宗教では理神論や無神論、哲学では経験論、感覚論、唯物論などが展開され、政治・社会思想では自然権にもとづく社会契約説が支配的であり、経済上では重農主義などの自由放任論があらわれた。
 とくにここで注目すべきは政治、社会上で専制王政、封建遺制、カトリック教会の権勢などに対して、「理性の光明」をもって批判がおこなわれたことであろう。
 この啓蒙思想は、十七世紀市民革命によって絶対主義を倒し、早くも自由主義を開花させたイギリスにはじまり、十八世紀、大革命前のフランスや独立前のアメリカでもっともよく発達した。
 これに対し、絶対主義が強力すぎるドイツやロシアでは発展が不十分であった。
 フランスでは、産業の発達につれて進出してきたブルジョワジー、また自由主義化した貴族たちが、啓蒙思想の地盤となっていた。
 いいかえれば、専制的でしかも無力化した王政、不平等な封建的諸特権の存在、宗教上の不寛容、生産や流通の自由を妨害している封建的な経済関係――これらの変革をのぞんでいる社会層の意向を、啓蒙思想はとくに反映している。
 同時にこの思想はたんなる精神面にとどまらず、現実にも啓蒙運動をともなった。
 それはインテリ・ブルジョワ、つまり学者、文筆家、法律家、医師、商工業者たちによるもので、この点、十八世紀は知識人がその知的活動をはじめた時代といえよう。
 一方、国民大衆と接していた下級僧侶たちが身分上の別をこえて、啓蒙化に一役を演じていたことは注目されよう(ただしマスコミも発達せず、文盲が多かった当時では、この思想の普及について過大視はできない)。
 フランス啓蒙思想の形成には、十七世紀以来発達した自然科学や、デカルトの合理主義哲学などとともに、イギリスの経験論哲学や政治・社会理論の影響を注意しなければならない。
 たとえば、ジョン・ロック(一六三二~一七〇四)である。ロックの思想は政治のみならず、哲学、宗教、経済などに広くおよぶが、とくに重要なのは『政府二論』(一六九〇)によって、立憲王政を理論的に説明し、名誉革命を裏づけたことであろう。
 ロックは論ずる――人間は生命、自由、財産などにかんする自然権をもつが、これを安全、有効にするため、社会契約によって自然権の一部をすてて、国家主権者の統治に服する、したがって主権者には人民の権利をまもる約束と義務がある、もしこれが破られるときには、人民は革命によって主権者を追う権利があると。
 同じくイギリスの思想家で、ロックに先立つホップス(一五八八~一六七九)がその著『リバイアサン』(一六五一、リバイアサンとは聖書中の巨大な海獣)で、同じように社会契約による国家の成立を論じながら――ポップスが人間の原始状態を「万人に対する万人の戦い」としたことは有名――主権者の権力は無制限であると説いたのに対し、ロックの結論は逆転していることに注目すべきであろう。

 つぎにフランス啓蒙思想の生成については、伝統的なサロンの存在をわすれることはできない。
 このサロンはほかのところに書いたように、十七世紀に主として貴婦人のあいだに発展し、古典主義文芸の温床となっていた。
 十八世紀においても、サロンはひきつづき盛んであり、貴族社会のみならず、上層ブルジョワの邸宅にも、サロンが開かれるようになった。そして十八世紀サロンの特色は、文芸的なものから哲学的なものにうつったことであろう。
 しかも哲学のみならず、宗教、科学、あるいは政治・社会問題も論議された。このサロンのなかでは、ジョフラン夫人(一六九九~一七七七)のそれがまず有名である。
 ここにはダランベール、コンディヤック、エルベシウス、ドルパックなどの思想家が出入し、またイギリスから哲学者ヒューム、歴史家ギボン、文人ウォルポールたちが訪れ、このサロンはヨーロッパ的、国際的なものとなった。
 外国人がフランス社交界にはいりうるためには、まずジョフラン夫人の認可を要したといわれる。
 また彼女は後述する『百科全書』の資金難に対して、多額の寄付金で援助したこともあった。
 ジョフラン夫人のはげしい競争相手であったデファン夫人(一六九七~一七八〇)のサロンにも、ダランペールはじめ、啓蒙思想家たちがつねに姿を現わした。
 一方、デファン夫人は眼病から失明したが、彼女を助けて身のまわりの世話をやき、秘書役をつとめたのがレスピナス嬢(一七三二~七六)である。
 ところが美と才にあふれるレスピナス嬢は、ダランベールなどサロンの常連をひきつけ、デファン夫人が感情を害すると、これとわかれて独立してしまった。そのサロンも盛況をきわめ、彼女は「百科全書の女神」とよばれた。
 こうしてフランス啓蒙思想家の多くはサロンの花形であり、彼らの思想はかならずしも孤独な瞑想からではなく、サロンの談笑のなかから生まれたことに注意しておくべきであろう。
 そしてこのような思想家たちの生態は、一面では彼ろを一般民衆からへだてることでもあった。
 彼らの考察の対象や範囲は貴族的、ブルジョワ的なものに限られ、だいたい一般大衆は無視されているといえよう。
 シャルル・ド・スゴンダ・モンテスキュー(一六八九~一七五五)は、こうした啓蒙思想家の代表的な一人であろう。
 彼は貴族の家に生まれ、法律を学び、ボルドーの高等法院の長になった。
 彼の名を有名にしたのは『ペルシア人の手紙』(一七二一)である。
 これは、フランスを訪れた二人のペルシア人が、フランスの政治、社会、風俗、生活などのさまざまな題材をめぐって、故国の友人たちにかき送るという形式である。
 まじめな議論、諷刺や皮肉、みだらな話など多様性にとんでいるが、もっとも生彩をはなっているのは、当時のフランス絶対主義や腐敗した宮廷人や官僚などに対する批判であろう。この本の成功をへて、モンテスキューはパリの社交界に出入りしたのち、一七二六年法院長の職を売って退官し、またパリに出て、翌年アカデミー・フランセーズの会員となった。
 やがてイギリス、イタリアをはじめヨーロッパ各地を旅行したのち、故郷のラ・ブレードの館に引退した。そしてまず、合理的で科学的な歴史研究の祖といわれる『ローマ人盛衰起源論』(一七三四)を書いた。     

 モンテスキューの名を不朽にしたのは、『法の精神』(一七四八)であろう。
 その執筆のあいだにも、彼はたびたびパリを訪れ、ジョフラン夫人、デファン夫人などのサロンの客となり、大歓迎された。しかし本書の執筆開始から出版まで約十五年問、彼は生来の弱い視力に悩んだ。
 この『法の精神』は、さまざまな法とそれらを決定する要因――政体、軍事力、憲法、税金、習俗、風土、貨幣、人口、商業、宗教など――との関係を研究したものである。
 とくにこの本を有名にしているのは、史上の政治形態を共和制・君主制・専制の三種類にわけ、徳性・名誉・恐怖をそれぞれの政体の原理としてあげていることであり、また権力の乱用を制限して政治上の自由をうるために、権力が他の権力を制限するように按排(あんばい)し、行政・立法・司法の三権を分立するように論じたことである。
 この三権分立論は、当時のイギリスから学んだものといわれている。
 モンテスキューは元来、専制君主と人民のあいだにたつことを貴族階級の使命と考えており、かならずしも前向きではない。
 しかし彼の思想はその立場をこえて、ひろい影響力をもった。




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