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4-1-2 黄巾の乱

2019-06-15 10:31:58 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年

1 三国の分立

2 黄巾(こうきん)の乱

 「蒼天(そうてん)すでに死す。黄天(こうてん)まさに立つべし。歳は甲子(こうし)にあり。天下大吉。」
 こういう言葉が太平道という新興宗教の信者たちのあいだにささやかれていた。
 また、このように書いたビラが、役所や町かどにはりだされた。
 三十六万の信徒は、甲子の年、すなわち光和七年(一八四)を期して、いっせいに立ちあがることになった。
 そのころの中国には、五行(ごぎょう)の思想がさかんであった。
 五行とは、木火土金水の五つをもって、万物の生成や変転を説明しようというものである。
 王朝の交替も、これで説明された。そうして漢の王朝は「火」の徳をもっている。
 火にかわるものは「土」である。故に新しい王朝は土徳でなければならない。土の色は「黄」である。
 そこで「黄天まさに立つべし」というわけであった。
 さらに王朝の交替、すなわち革命は、干支(かんし)のくみあわせの最初たる甲子(こうし=きのえ・ね)の歳におこるのがよい、とも考えられた。
 こうしたスローガンが受けいれられるほど、人心は漢の王朝からはなれていたのであった。
 太平道とは、どのような教えなのであろうか。
 いろいろ深遠な哲理も説いたようであるが、多くの人たちの心を直接とらえたのは、病気をなおしてやるということにあった。
 そもそも病気にかかるのは、その人なり祖先なりが、なにかあやまちをおかしているからである。
 このあやまちを殲悔(ざんげ)し、静室のなかで瞑想(めいそう)し、まじないの水を飲む。
 それで病気がなおるというので、たちまち多くの信者を獲得した。
 信者の大部分は、社会の最底辺で生きている農民たちである。
 こうして太平道は、山東(さんとう)から南へむかって沿海の地域にひろがっていった。
 おなじようなことを説く別の教団が、長江(揚子江)の上流にある。こちらは五斗米道(ごとべいどう)と呼ばれていた。
 病気がなおると、お礼に米五斗(九リットル)をさしだすからである。
 太平道の信者たちは光和七年(一八四)二月、いっせいに立ちあがった。
 めじるしに黄色の鉢巻をしめたので、黄巾の乱とよぶ。
 朝廷では、これを平定するために軍隊を召集した。地方では義勇軍が編成された。
 そして十月には首領の張角(ちょうかく)が戦死して、乱はいちおうの平定をみたので、十二月に中平と改元された。
 しかし、まだ各地に、黄巾の余党があばれまわっている。曹操(そうそう)は、漢の正規軍の騎兵将校として、劉備は義勇軍の一員として出陣し、それぞれ手柄をたてた。
 また長江の下流に小さな勢力をきずいていた孫堅も討伐軍にくわわった。
 孫堅(そんけん)の子が、呉(ご)の国をつくった孫権(そんけん)である。
 黄巾の乱はいちおうおさまったが、後漢の王朝はついに立ちなおらなかった。
 中央では宦官(かんがん)が勢力をふるっていたし、地方では黄巾の残党がゲリラ戦を展開している。
 そのうえ、東北からは烏丸(うがん)、西北からはチペット系の氐(てい)や羌(きょう)といった異民族が、毎年のように侵入してくる。
 中央政府はたよりにならないとみた地方の豪族は、それぞれ自衛の手段をとりはじめた。
 やがて、ほぼ州を単位に、半独立国がつくられてゆく。
 その中心になった人物は、中央から派遣されたり、あるいはなかば志望してやってきた州の長官や、土着の豪族であった。
 これらの地方勢力が戦争と外交によって離合集散をくりかえしていくうちに、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が成立していった。


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