しかしながら、愛徳が公正真実であるためには、いつも、正義を念頭におかなければならない。使徒は、われわれに、隣人を愛する者は律法を完了した者である、と教えている。そして、その理由を説明して、次のように述べている。「姦淫してはならない、殺してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、このほかにも掟はあるが、隣人を自分のように愛せよという言葉につづまるのである」(ロマ13:9)。使徒によれば、すべての義務は愛というひとつの掟に帰一するのであるから、この徳はまた、殺してはならない、盗みを犯してはならないというような厳密な正義の義務をも支配する。労働者が厳正な権利として要求することのできる給料を、これに支払わない自称愛徳なるものは、真の愛徳とは全々ちがったものである。それは口先だけの愛徳であり、にせの愛徳である。労働者が正義の権利として要求することができるものを、施しとして与えてはならない。いくらかの贈与を慈善として与えることによって、正義の要求する重大な義務をのがれることは許されない。愛と正義とは、しばしば同一のことがらに関して、しかも、ちがった側面から義務を課することがある。労働者は、かれら自身の尊厳を意識し、他の人がかれらに果たすべき義務について、特別に敏感になる権利がある。
教皇ピオ11世「救治と手段」『ディヴィニ・レデンプトリス』1937年3月19日 (岳野慶作訳、中央出版社、1959年、pp.111-112)
教皇ピオ11世「救治と手段」『ディヴィニ・レデンプトリス』1937年3月19日 (岳野慶作訳、中央出版社、1959年、pp.111-112)