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聖アロイジオ・ゴンザガ証聖者  St. Aloysius Gonzaga C.

2019-06-21 05:57:54 | 聖人伝
聖アロイジオ・ゴンザガ証聖者  St. Aloysius Gonzaga C.     記念日 6月21日


 聖会にはあらゆる階級、あらゆる年輩の人々に対し、模範となる聖人聖女があるが、青年諸君にとって無上の鑑と仰ぐべきは、聖ヨハネ・ベルヒマンス、聖スタニスラオ・コストカ、それに今語らんとする聖アロイジオ・ゴンザガの3人であろう。

 聖アロイジオは1568年イタリアのカスチリオネという町にゴンザガ家の長男と生まれた。父はフェルナンドといい、祖先以来の男爵、母マルタもそれに劣らぬ名門の出で、一時はスペイン女王の女官を勤めていたこともあり、極めて篤信な女性であった。
 当時欧州には享楽的精神が瀰漫し、わけても上流の生活は奢侈贅沢を極めていたから、アロイジオも幼少の頃よりかかる有様を見聞きする事が自然に多く、その霊魂は大いなる危険にさらされていた訳であるが、母の信心深い性質を受け継いでいたのと、その指導教育がよろしきよ得た為、幸いに時弊に染まらず、敬虔に生い立つことが出来たのであった。
 しかし父はわが長男を修道者などにする心は毛頭なく、将来は軍人として自分の跡を継がせようと思い、満5歳の頃から彼を兵営へ連れて行き兵士達の間に生活させた、さればアロイジオは彼等の感化を受け武を好むようになった一面その粗暴野卑な言語も聞き覚えて分別もなく之を用いるようになったが、ある時教師に咎められてからは、注意して再びかような言葉を口にしなかったのみならず、父フェルナンド男爵がフィリポ王に従ってアフリカに出征して後は、カスチリオネに帰って、聖寵の御導きのままにひたすら信心の業に励んだのである。
 かくて彼は満7歳より毎日御ミサにあずかり、祈りにも熱心で、聖母マリアの小聖務日課や詩編などをも唱えた。数年後凱旋した父はアロイジオの変化を見て大いに驚き、その弟ルドルフと共にフィレンツェの宮廷に送った。それは学問の盛んなフィレンツェ市の、豪奢華麗な宮廷生活に馴染んだならば、彼の並はずれた宗教への熱心も自然冷めばせぬかと思ったのである。
 しかしその期待はまんまと外れて、アロイジオは却って一層信仰の尊さを悟るようになり、フィレンツェの有名な聖母の御像の前で終生童貞の誓願を立てた位であった。


 その後、またも郷里カスチリオネに帰った彼は、腎臓病の冒す所となり、飲食物を大いに制限されるに至ったが、幼児より学び得た克己犠牲の精神によって、よくその苦しみを忍耐甘受することが出来た。
 ミラノの大司教聖カロロ・ボロメオがカスチリオネを訪れて、天使の如く清浄潔白な12歳のアロイジオに初聖体を授けたのは、ちょうどその頃の事であった。その日からというもの、アロイジオは鉄石のような意志を以て驚くべき難行苦行を始め、あらゆる罪の汚れを避けわが身を森厳な天主の聖殿、神聖なイエズスの御住居たるに恥じぬものとするよう努めた。彼が貞潔を守る為に、日頃どれほど戒心していたかは、後スペインのマドリッドに行き、そこの宮廷で3年間小姓を勤めながら、目を謹んで皇后の顔を見ず「私は毎日皇后様の御前に出ましたが、一向御顔を存じておりません」と人に語ったという挿話でも知れよう。

 アロイジオがマドリッドに新しく出来たイエズス会に入る決心をするに至ったのはそれから間もなくの事であった。父フェルナンドは之を知るや大いに驚き、断固として承諾を拒んだばかりか、3年間手を換え品を換え息子の意をひるがえそうとした。その為には、彼を華やかな社交場裏にも連れて行った。さんざめく歓楽境にも誘って行った。しかしアロイジオの決心は盤石のように動かず、ただ天主の聖旨に己を全く委ねて他を顧みなかった。で、さすがの父も遂に息子の修道会に入るのは主の御摂理であると諦め、彼に承諾を与えると共に、皇帝の許可を得て次男ルドルフを我が家の跡目相続人と定めたのであった。

 ようようにして望みの適ったアロイジオは、全世界を手中にしたにも優る歓喜に充ち溢れ、1585年の11月3日、ローマにあるイエズス会の修練者の群れに加わった。が、世にある時から克己苦行の修道生活に馴れていた彼にとっては、今修道院における厳格な日常も物の数ではなかった。ただ長上の指導に対する従順が一層彼の徳を深い、美しいものにするばかりであった。
 他の修士等はアロイジオを天使の権化かと怪しんだ。彼の苦行は例に依って峻烈苛酷を極めた。彼が何故それほどまでにわが身を懲らしめたかといえば、その真因は、自分が今までに見聞した上流社会の贅沢享楽や、信仰に対する冷淡を償いたかったからに他ならない。さればこそ彼は飽くことを知らぬ熱情を以て克己禁欲の業を行い、己を犠牲の子羊として烈々たる天主への愛の火中に投げ入れ、償いの燔祭を献げたのである。
 彼が最終の犠牲を果たしたのは、1591年黒死病と呼ばれるペストが猖獗を極め、無数の人々がその病魔に冒された時であった。その際アロイジオは患者の看護、死者の埋葬等に力をおしまず活動したが、遂にその身も病毒に感染し、同年6月21日イエズスの聖名を呼びつつ安らかに無垢の霊魂を天父の御手に返したのであった。享年わずかに24歳であった。


教訓

 若くして逝いた聖アロイジオの生涯を見れば、その天使の如き清浄さといい、その浮き世の財産名誉享楽に対する離脱の完全さといい、またその旺盛な償いの精神といい、一として我等の驚嘆の種ならぬはない。それにつけても我等は、彼をしてかくあらしめたその鉄石の如き意志を学び、己の完成に努力すると同時に、それに要する聖寵を天主に祈り求めようではないか。


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