カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

外国宣教団 (アッシジの聖フランシスコ)

2017-01-13 04:18:47 | 格言・みことば
外国宣教団 (アッシジの聖フランシスコ)

 一二一九年に、あたらしく外国宣教団が組織されました。今度は十分な準備と計画がなされました。教皇さまからのすいせん状を兄弟たちは持参しました。

 それぞれ組に分かれて、出発しました。チェニス、ギリシャ、フランス、さらに遠くモロッコにさえも出かけましたが、ドイツにだけは行こうとするものがありませんでした。それほど、この地方での兄弟たちに対する迫害はひどく、おそろしいものだったのでした。

 チェニスヘはエジディオ兄弟とエレオット兄弟のふたりの兄弟が行ったのですが、歓迎されず、たちまち送り返されてしまいました。というのは、チェニスに住んでいるクリスチャンたちが、兄弟たちがやってきたことによって、自分たちまでが迫害を受けるようになりはしないかと、心配したためでした。エレイット兄弟はかくれてふたたびチェニスに入ろうとしたため、見つかって殺されてしまいました。

 モロッコヘは、ヴィターレ兄弟、ベラールド兄弟、ピエトロ兄弟、アデュート兄弟、アックルゾーリ兄弟、オットネ兄弟の六人の兄弟が出かけました。「どうかミラモリンを回心させるまで、しっかりたのみます」と、フランシスコは六人兄弟をひとりひとり、涙とともに祝福して送り出しました。ミラモリンというのは、回教徒の王さま(サルタン)のことで「信者の指揮者」(アミール、アル・ムーミニーン)というアラビア語をイタリア人がなまってミラモリンと呼んだのです。

 六人の兄弟たちは、福音書のことばどおりに、杖も旅の袋も持たず、くつもはかず、もちろん銀貨も金貨も持たずに出発しましたが、途中でヴィターレ兄弟は病気で倒れました。あとの五人はスペインの南まで行って、回教徒たちに捕らえられました。当時スペインはまだ回教徒によって支配されていたのです。

 ちょうど、ミラモリンのアブー・ヤクブがモロッコへ出かけていましたので、回教徒たちは五人の兄弟たちを、モロッコへ送りました。

 ところで、このミラモリンのアブー・ヤクブは羊が大好きで、自分で羊飼いのなりをして羊を草原につれ出すのを楽しみとしているというような、たいへんおだやかな心の人でした。彼は兄弟たちを牢獄へつなぐことをせず、自由をゆるしました。兄弟たちは、さっそく、この自由を利用して、町の広場や通りに立って説教をはじめました。兄弟たちはアラビア語を勉強していたのです。ことにベラールド兄弟がいちばんじょうずにアラビア語を話しました。

 ある日、ベラールド兄弟が説教しているところへ、アブー・ヤクブが通りかかりました。彼はにがい顔をして、

「彼らを五人とも自分たちの国へ送り返せ」

と命じました。それで、兄弟たちはセウタの港へ送られました。そこから船でイタリアへ帰るように命じられたのですが、兄弟たちは逆にふたたびモロッコへ引き返して、また説教をはじめました。

 今度は、アブー・ヤクブも怒って、兄弟たちを投獄し、厳しくセウタへ送り返しました。ところが軍人の兄弟は、これにもこりず、またもやモロッコに引き返しました。そしてこともあろうに回教徒が聖日としている金曜日に、しかもアブー・ヤクブが参詣に出かけた寺院の前で説教をしましたから、アブー・ヤクブの怒りは爆発しました。彼は五人の兄弟を捕らえ、はだかにして、ガラスの破片の上にころがし、一晩中ごうもんにかけました。

 そして翌朝、彼はみずから剣を抜いて、五人の兄弟の首をはねてしまいました。

 この知らせを受け取ったとき、フランシスコは感動して、

「ああ、いまこそ、わたしたちは、真の兄弟を持ったということができる」

と言いました。しかし、彼は、兄弟たちがこの五人の殉教者を自分たちの誇りとすることをゆるしませんでした。

「あなたがたは、他人の殉教を誇り、それに満足していてはならない。誇るなら、自分自身の殉教を誇りなさい」

と、兄弟たちを戒めました。

永井明『アッシジの聖フランシスコ』(この後、聖フランシスコは自らイスラムへの宣教に向かい、迫害はされなかったものの、サルタンの改宗はならず帰還した。サルタンは彼の説教を熱心に聞いたものの、改宗の決心はつかず、どの信仰が真の信仰かわかるように祈って欲しい、とのみ返答した)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。