カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

10-3 ヒッタイトの王たち

2017-07-07 14:05:15 | 世界史
『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年

10 幻の帝国の再現――ヒッタイト帝国――

3 ヒッタイトの王たち

 ボガズキョイでたくさんの粘土板を発掘したのは、ドイツ人のフーゴー・ヴィンクラーだった。
 彼はボガズキョイの発掘をするまえに、シドンの近くで発掘をしたこともあり、アッシリア学者として、よく知られていた。
 彼は一九〇五年にまず、ボガズキョイに予備調査に行き、わずか三日間で、三十四個もの粘土板を手にいれた。
 雨期が近づいたので、その年はそれで調査をやめ、翌年の夏にまたでかけた。

 そしてひと月もたたぬうちに、重要な粘土板を、まるで奇蹟のようにみつけることができた。
 それは、ヒッタイト王ハットゥシリシュ三世とエジプト王ラメス二世とのあいだでとりかわした平和条約文を記したものだった。
 この条約文は、エジプトのカルナク神殿の壁に刻まれてよく知られていた。
 ところが、この条約についてラメスがハットゥシリシュに書いたくわしい手紙が、粘土板に楔形文字で書かれて、発見されたのだった。
 こうしてボガズキョイがハットゥシャシュであることが明瞭になったが、カルナタとハットゥシャシュとは二〇〇〇キロも離れており、また条約がむすばれてから三千年以上もたっていることを考えると、これは実際、奇蹟というほかはないではないか。
 ヴィンクラーは翌一九〇七年にもまたボガズキョイに発掘に行った。そして一万枚以上の粘上板をみつけた。

 彼は一九一三年に死ぬが、一九一一~一二年にも病をおして、ボガズキョイで発掘をおこなっている。
 彼は病身のためもあり、暗く、疑いぶかく、嫉妬(しっと)心つよく、人々に好かれない性格だった。
 そのうえ、粘土板とその解読にばかり熱心で、発掘作業をぜんぜん自分ではしなかった。
 発掘現場の近くにある仕事部屋に閉じこもったままで、どんどんはこびこまれる粘土板を読むのに一日中かかりきりだった。遺跡にみられる建築物の構造やその測量などには、ほとんど関心をもたなかった。
 そればかりか、粘土板がどこからどのような状態で出たということにさえ、あまり心をもちいなかったという。
 彼の発掘調査にはこのような種々な欠陥があったけれども、多数の粘土板がみつかったことによって、ヒッタイト帝国の諸王の名前や事績がしだいに明らかになっていった。
 そしてヒッタイトの歴史も、他の諸国とのあいだの外交関係も明らかになってきた。
 ボガズキョイで発見された粘土板に書かれていた言葉は八ヵ国語もあった。
 しかし大部分は二種類の国語で書かれていた。一つはアッカド語で、これは当時の外交語だったので、公式文書など、大部分の国事の記録はこの言葉で書いてあった。
 ヴィンクラーが発掘したころ、この言葉は読めるようになっていたので、彼は粘土板がみつかるとそれを読むのに熱中したわけだった。
 もうひとつは、ヒッタイト人の言葉を楔形文字で書いたものだった。
 これは発掘の当時は読めなかったが、一九一五年にチェコスロヴァキアの学者フリードリヒ・フロズエーが読み解き、印欧語であり、表意文字をふくむことを明らかにした。
 彼の説には反対者もあり、彼自身の誤りも小さな点ではあったが、その後大ぜいの学者が研究をすすめ、大すじにおいては誤りがないことが明らかになり、ヒッタイト研究はすすんだ。
 他の六ヵ国語はそう頻繁にあらわれるわけではなく、断片的にちらほらするばかりだった。
 かってのハットゥシャシュが国際都市であったことをあらわしている。

 こうしてわかってきたヒッタイト帝国の歴史を、その王を中心として簡単に書こう。
 紀元前二〇〇〇年ころ、小アジアでは民族移動があり、インド・ヨーロッパ語族に属する一派(のちに「ヒッタイト人」とよばれる)の人々がはいってきた。彼らは小アジアにはいる前に、どこにいたのか、わかっていない。
 彼らは数ではたいしたことはなかったろうと思われるが強力で、原住民(「原ハッティ人」とよばれている)を征服した。
 そして小都市国家をいくつもつくった。
 ハットゥシャシュもそうした都市国家のひとつだった。
 紀元前一八〇〇年ころ、クッシャラのアンタッシュ王が、このハットゥシャシュ市を征服し破壊するが、市はすぐ復興した。その後トゥドハリヤシュ一世、プナルマシュ王がでたが、その年代も、事績もはっきりしない。その後、王になったラパルナシュ(在位紀元前一六八〇~五〇ころ)は、諸小都市国家をあわせて、一つの連邦王国にした。
 ヒッタイト帝国の基礎はこうしてでき、王の名の「ラバルナシュ」はこの後、「王」をあらわす普通名詞になった。ヒッタイト帝国には貴族の会議「パンクシュ」というのがあった。
 これは王権の専横を制限する機能をいくぶんか果たせたらしいことは、インド・ヨーロッパ語族らしさであろうが、王はしだいに強力になるとともに、パンクシュを無視して後継者を指名することができるようになり、この点ではオリエントの専制王にちかい性格をもつようになる。
 つぎのハットゥシリジュ一世(紀元前一六五〇~二○ころ)は、帝国の領土をひろげるために、南方のアレッポへ征服をすすめたが、病をえて、これを中止した。彼の遺言がのこっているが、それを「君主学の書」とよぶ人もある。
 王は無能な息子をしりぞけて、孫のムルシリシュを後継者にさだめ、質素にパンと水で暮らし、酒は老年になるまで飲むな、老年になったら飽きるほど飲んでよいなどと、さとしているのである。
 ムルシリシュ王(紀元前一六二〇~一五九〇ころ)は先王の遺志をついで、アレッポを占領し、ついでエウフラテス川にそって下り、バビロンを攻め、古バビロニア王国を滅ぼした。
 しかし王室内に争いがおこったため、彼はバビロニア支配をあきらめて帰国したが、帰着すると一族のものに暗殺された。
 その後、四人ほどの王が知られているが、その時代は王、貴族、神官が王位をめぐって勢力争いをし、親や兄弟の肉親殺しも横行した。
 しかしやがてテリピヌシュ王(紀元前一五二五~一五〇〇ころ)が王位につくと、王位継承法や諸法令集をだし、この混乱をおさめた。テリピヌシュ王ののち、名もよくわからず、事績のほとんど知られない王が数代つづく。

 そのころ東隣のフルリ人のミタンニ王国が最盛期をむかえていた。
 またエジプトはトゥトメス三世がさかんに遠征軍をおこし、シリアに進出した。
 ことにメギッドの戦い(紀元前一四八〇ころ)で勝利をえて、シリアを獲得した。
 アッシリアとヒッタイトは、トゥトメス三世に朝貢(ちょうこう)した。
 トゥトメス三世をついだのは、その子アメン・ホテプ二世で、それをついだのは、トゥトメス四世だった。
 彼はミタンニに使いをだし、王女をむかえ、王妃とした。
 極端な近親結婚をおこなって、王家の神聖性を強調していたエジプト王家で、このようなことは注目してよい。
 たぶん、この間にトゥドハリヤシュ二世やハットゥシリシュ二世、トゥドハリヤシュ三世などのヒッタイトの諸王が、シリアの国境まで勢力をのばしてきており、またアッシリアの勢力も強くなってきたため、エジプト王はミタンニとむすび、これらの諸国に対する防衛をミタンニにさせようとしたらしい。
 トゥトメス四世の子アメン・ホテプ三世も、ミタンニの王女を後宮にむかえいれている。
 また彼の子アメン・ホテプ四世(アクン・アトン)の妃のネフェルトイティも、ミタンニの王女らしいといわれている。
 アクン・アトンをついだのは養子のツタンカーメン王である。
 「アマルナ文書」にはミタンニの王トゥシュラッタがアメン・ホテプ三世におくった手紙がある。それは、
 「あなたは私の父とひじょうに親しかったが、いま私たちは父の代よりも十倍も親しい。だから兄弟であるあなたは、私の父にくださったよりも、十倍も私に金を送ってくださるように……」というずうずうしい無心状だった。
 しかし、こういうずうずうしい無心状は、トゥシュラッタだけでなく、バビロニアの王なども送っていて、いくつもある。バビロニア王カダシュマン・ハルベなどは、金ばかりでなく、妻をくれと無心している。
 しかしミタンニの王女を妃にくれといったのは、むしろエジプトのほうだったらしい。
 「アマルナ文書」にはヒッタイト王シュッビルリウマシュ一世(紀元前二二七五~三五ころ)の、アクン・アトンの即位を祝う手紙があったことは先述した。
 このシュッビルリウマシュは偉大な王だった。決断力をもって勇敢に戦い、ついにミタンニ王国を征服した。
 しかし彼は強い戦いの人であるばかりか、賢明な政治家でもあった。
 征服地の人を奴隷とはせず、結婚政策などでたくみにあやつり、味方につけた。
 ツタンカーメン王はまえに述べたように、二十歳にもならずに死に、子供がなかった。
 未亡人になった王妃は、シュッビルリウマシュの名声をきいて手紙をよこした。
 「私の夫がこのたび亡くなりました。しかし王には王子がございません。
 あなたにはたくさん王子がおありだとうかがいます。
 そのおひとりを私にくだされば、私の夫になり、エジプト王になっていただきたいのです……」
 シュッピルリウマシュは意外な申し出におどろき、使いをだして、エジプトのようすをさぐらせた。
 王妃はさらに手紙をよこして、
 「なぜからかっているなどとお思いなのですか。私はほかの国にはぜんぜん手紙などだしておりません。ぜひ王子をください……」とふたたび乞うた。
 王は決心して、王子をエジプトにおくった。しかしエジプトに着くまえに、反対派のために王子は暗殺されてしまった。
 この事件を我々が知っているのは、シュッビルリウマシュ王の息子、ムルシリシュ二世(紀元前一三三四~○六ころ)が自分の功業をくわしく書きのこしたさいに、父王の事績を書きしるし、それがのこったためだった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。